act4号掲載記事

■ 巻頭言  阪神大震災は演劇を変えたか
瀬戸宏
さる一月十七日は、阪神大震災十年であった。一月十七日前後、関西地区では神戸を中心に鎮魂のさまざまな行事がおこなわれ、十年を回顧する出版物が多数刊行された。しかし、そこには演劇の姿はほとんど目につかない。
十年前は、逆であった。大震災直後から、関西演劇界では創作面でも実際の行動でも、震災に立ち向かうさまざまな動きがみられた。それについて、かつて『阪神大震災は演劇を変えるか』(晩成書房、共編)という本にまとめたことがある。出版経験のある人ならわかるだろうが、一冊の本が世に出るには多大なエネルギーを必要とする。震災直後の状況は、私を無償で編集出版活動に駆り立てさせるものが確かにあったのだ。

それから十年、『阪神大震災は演劇を変えるか』というタイトルを思い起こすと、いささかほろ苦い思いがする。震災は演劇を変えたか。演劇は変わったのか。震災直後こそ、深津篤史『カラカラ』(桃園会)、内藤裕敬『夏休み』(南河内万歳一座)など震災の現実を直視し、それを題材でも感性でもとりこんだ作品が生まれた。上演以外でも、さまざまな動きがあり、関西演劇人会議ではジャンルを越えた演劇人が集まり熱い議論が闘わされた。しかし、それはどの程度長続きしたのか。
昨年晩秋から暮れ、中越地震やスマトラ沖大地震津波など大災害が起きた。しかし、これに対応しようとする動きも、関西演劇界では私の知る限りほとんどなかった。

十年前と今との違いの背景には、関西演劇界の勢いの相違もあるのかもしれない。当時は、松田正隆、鈴江俊郎らの岸田戯曲賞受賞に至る、関西演劇界特に小劇場演劇界の上り坂状況があった。いま、関西演劇界には、明らかに当時の熱気はない。

もっとも、まるで何もなかったわけではない。前号でも取り上げた「大阪のど真ん中に小劇場を取り戻す会」の活動は、明らかに震災直後の関西演劇人会議の活動の延長にあるものであろう。昨年十月のピッコロ劇団『神戸 わが街』も、震災を具体的にみすえた数少ない上演である。別の場で劇評を書いたので重複は避けるが、特に第三幕は死者への鎮魂の思いがこもり、見応えがあった。今の私に見えないだけで、関西演劇界の深部では、変化の可能性が密かに流れていると思いたい。
阪神大震災は演劇を変えたか。こうつぶやいてみること自体に、今は意味があるのかもしれない。
(せと・ひろし 国際演劇評論家協会日本センター関西支部事務局長)
■クロス劇評
●「祝祭からハイアートに変容する維新派」
中西理
維新派「キートン」(構成・演出松本雄吉)を大阪南港ふれあい港館駐車場の特設野外舞台で見た。サイレント映画時代の喜劇王キートンへのオマージュとして作られた作品である。台詞はほとんどなく、すべてが身体の動きと美術も含めたビジュアルプレゼンテーションの連鎖により進行していく。「キートン」にふさわしく、冒頭からキートンをイメージさせる場面やキートン映画からの引用(「セブンチャンス」の花嫁のシーン、「キートンの探偵学」の映画に入っていくシーンなど枚挙にいとまがない)が次々と舞台上で展開される。不思議なのはここではそれに加えて、入れ子構造のようにシュルレアリスム絵画(デ・キリコやルネ・マグリット)を思わせる場面や構図がそこここに「見立て」のように展開されることだ。さらにシュルレアリスムに加えてパフォーマーが途中で背中に背負って登場する便器(「泉」)のようにマルセル・デュシャンからの引用も散見される。

舞台は絵画が動く巨大なインスタレーションとさえ見てとることができるほどで、全体の印象としても「ハイアート」感が強く、その分、お祭り的な祝祭感は後退した。維新派の野外劇ならではの祝祭性をこれまで愛好してきたものとしては若干の寂しさを感じたことも確かだが、クオリティーの高さ、オリジナリティー、いずれをとっても文句のつけようがないレベルの高い舞台であった。
特筆すべきなのはキートン役を演じた升田学が「笑わん殿下」の再来とでも言いたくなるようなはまり役であったこと。維新派の場合こういう形で特定の役者がクローズアップされるということはめったにないのだが、今回ばかりはぜひ触れておかなければならない好演ぶりであった。

ヂャンヂャン☆オペラという維新派独自の音楽劇のスタイルは内橋和久の音楽にのせた「大阪弁ラップ」のような役者の群唱(ボイス)によって構成され、野外ならではの巨大な美術とも相まって、ここでしか見られない祝祭空間を演出してきた。実はそれが変わりつつあることが新国立劇場の前作「nocturne」で感じられたのだが、今回の「キートン」で変化は一層露わになった。
ただ、これはヂャンヂャン☆オペラが放擲されたというよりは次のフェーズに移行したという風に解釈した方が正確かもしれない。内橋の音楽は多くの場合5拍子、7拍子といった変拍子によって構成されていて、そこにボイスが加わるのがヂャンヂャン☆オペラ元来のスタイルだが、今回は多くのシーンで変拍子に合わせてのパフォーマーの群舞的な動きのアンサンブルがそれまでのボイスの群唱に置き換えられている。これを「動きとしてのヂャンヂャン☆オペラ」と呼ぶとすると、今回の作品ではこれまであった言葉の羅列ではなく、こちらが舞台を構成するメインの要素となっている。

ここでの「動き」は変拍子に合わせて動くということだけでも、バレエやモダンダンス、コンテンポラリーダンスといった既存のダンスジャンルとは明確に異なるアスペクトを持つものではあるが、それぞれのパフォーマーの動きは過去の維新派の舞台よりも数段洗練され、精度の高いものとなっていて、これはもう「ダンス」と呼んでも間違いではない水準に高められていた。
その分、これまでのヂャンヂャン☆オペラにあったお囃子(下座音楽)的な気分はこの作品ではあまりなくなっていて、傾斜舞台に電柱が立ち並び、照明効果によってその影が幻想的に浮かび上がるシーンなどいくつかの場面では静謐な雰囲気のなかで舞台は絵画的に展開していく。

巨大な舞台セットはこの公演でも健在。ただ、これまでの作品とは若干異なる性格付けがなされていた。これはひとつには舞台美術に今回、黒田武志が参加していて、そのテイストによるところもあろうが、その以上に今回黒田に美術を委嘱することになったことも含めて、大阪教育大学で美術を専攻していた松本雄吉の美術家としての側面が色濃く出てきていることにあるのではないかと感じられた。松本は学生時代に「具体美術協会」に共感するなど演劇以前に日本の前衛美術に憧れた美術青年でもあった。
実はキートンが活躍した二十世紀初頭(1910-20年代)は欧米において、ダダイズム、シュルレアリスム、表現主義といった前衛芸術が百家争鳴の輝きを見せた時代でもある。直接は関係のないキートン、デ・キリコ、デュシャンがひとつの舞台で出会うことで美術家としての松本がこの作品に込めたのは前衛芸術が輝いていた時代への限りない憧憬だったと思われる。そして、そこには前衛演劇の旗手として彼らを受け継ぐのは自分であるという自負も込められていたかもしれない。
(なかにし・おさむ/演劇評論家)

 

●維新派「キートン」

ー「飛び出す絵本」のような舞台ー
藤原 央登
「ナガセシネマ」という映画館。雨の中、一人の少年がやって来てスクリーンの中へと冒険の旅に出る。
冒頭のシーンをこうして文字で記述するとあっけないが、野外の広い舞台空間で、場面転換の度に出現する巨大な舞台装置。そしてその中を大勢の役者があるリズムとテンポでもって動き回る。2時間30分、休みなく続くこれらの光景はまさに圧巻の一言に尽きる。

今まで観てきた舞台のほとんどは台詞を話したり行動する俳優に観客はどうしても注目してしまう。そして物語を追う等の意味内容を理解する作業を強いられてしまう。しかし、維新派の舞台ではその一連の作業はなくなる。それは台詞がほとんどないという事もあるのだろうが、しかし、最初いつも舞台を観るように役者を観ているのだが、同時にはるか後方で同じく何人もの役者が動いている。だから2ヶ所を同時に見るのだが左右からまた役者が駆け抜ける。すると自然に観客の視野はどんどん広がっていき、全体を見渡す視野を得れる仕組みを持っている。そこに加えて巨大なセットが左右からやって来るので、意味内容の理解よりも、視覚で観るといった感じなのである。
意味内容の理解から開放された視点で目の前で起こる事を半ばぼんやりを見ていく内に私はこれと似たような体験をどこかでしたような気がしていた。巨大な舞台装置の中を役者が駆け回るさまを小人の様に見えた時、私は子供の頃に読んだ飛び出す絵本を思い出していた。読んだというよりもやはり見たという印象がある。ページをめくる度に動物や建物が立体的に飛び出すあの絵本。わくわく感は二つとも相通じるものがある。つまり私は客席で童心に戻り、白塗りの人が面白おかしく逃げたり騒いだりしている姿におかしさを感じ、大きなお家が出てくると「わあー」っと心動かされていたのである。

童心の目を持った瞬間、目の前で繰り広げられるセリフのない会話やリズムパターンにはまった動き、そしてジャンジャンオペラと呼ばれる歌のようなものも、心地よく体に入ってきた。子供は意味内容の解釈をしない様に、童心に帰った私はただ関心していたのである。外国人の観客が多かったのもおそらくここら辺にあるのかもしれない。セリフがないので了解しやすいという短略的な理由ではなく、言いようのない懐かしさみたいなものが含まれているからではないだろうか。
維新派はこの「キートン」が初見であるが、事前の情報としてかなり芸術性が高い劇団というように思っていたのだが、全然違った。維新派はかなり娯楽性の高い、飛び出す絵本のような劇団なのである。

芸術と娯楽、これはかなり紙一重なのではないか。理解しがたく、社会と拮抗したものが芸術で、ただ楽しませるものが娯楽といった二原論では芸術と娯楽は定義できないであろう。作品が芸術作品であったり娯楽作品であったりするのではなく受け取り手の観客が判断するのである。だから誰もが芸術作品か娯楽作品かで一致するはずはなく、浸透膜のようなものが2つの間にあり、そこを行ったり来たりするのではないだろうか。
「キートン」に関して言えば、バスターキートンを題材にしているので、役者のおもしろさに注目すると、娯楽ともいえる。はたまた絵画のような視覚的な美しさを観るためには全体的視野を持たなければないらないので、芸術ともとれる。私は直感的に子供の頃の記憶が浮かんで、娯楽寄りに観たのだが、そうではない人ももちろんいるだろう。

しかしここまで考えてきて、この作品は芸術的要素と娯楽的要素がうまく溶け合っているような気がする。浸透膜のちょうど間のような。先ほど娯楽作品と述べたが、芸術要素が多分に含まれているので、私が感じた事も、芸術のような気もする。こんなに自分の中で判断が付きにくい作品は他に知らない。舞台を観て童心に返った経験も始めてだ。やはりこの作品に限っては無理な解釈は必要ではないのだ。
カーテンコールの事についても触れておこう。キートンが高台に立ち望遠鏡を覗き込む。ここでも何を覗いているのかという詮索は無用だ。キートンの無表情さと、硬質なビルとがうまく合わさっていて、はるか彼方にいるので空に浮かんでいるように見えた。この不思議な体験の終りに寂しさをおぼえた。舞台上の街と本物の街とが調和するのも野外劇ならではである。

今回の「維新派」公演で、私は舞台内容で童心に戻ったことは今まで述べてきたが、開演前の屋台村で、焚き火を囲んだこともその要素の一つであったことを付け加えておく。長らく火を見る事も忘れていたことを思い出していた。演劇は舞台を観て思想するだけでは十分ではないだ。まさに体全体で演劇を体験したのである。
(10月21日・ふれあい南港野外特設会場)
(ふじわら・ひさと/近畿大学文芸学部3回生)
■劇評
●プレイ(芝居)=プレイ(遊び)
——劇団往来『名探偵vs霊媒師 英国少女殺人事件』——
市川 明

劇団往来が20周年記念のラストを飾るものとして上演したのが、今回の『英国少女殺人事件』である。「観客参加型」の本格ミステリーと銘打っている。とはいえこの上演が劇評に取り上げられることに、演出の鈴木健之亮や台本の小鉢誠治は複雑な思いをしているのかもしれない。劇団往来には産廃問題を扱った『青空のピコ』(2001)のように阪本雅信の優れた舞台美術とあいまって代表作と言えるような舞台があるし、自衛隊の海外派遣に疑問を投げかけるジェイムス三木作の『安楽兵舎VSOP』(2003)もインパクトの強いものだったからだ。今回劇評にとりあげたのは「プレイ(芝居)=プレイ(遊び)」という原点を、この上演が教えてくれたように思えたからだ。

会場は京橋にあるMIDシアター。前回の近松の生涯を描いた『バガボンド・ララバイ』は一心寺倶楽という、作品にぴったりな会場を選んでいたが、今回も大いに期待が持てた。上演は30分のシンキングタイムを挟んで、問題編と解決編に別れている。会場に着くとロンドン警察の制服に身を包んだ警官が「少女殺人事件」の号外をまいている。京橋の河辺の風景がテムズ河畔に変わったような印象だ。ほぼ正方形のフラットな観客席の正面に、横長の舞台があり、左右にアーチ型の門をあつらった邸宅の部屋の入り口がある。
最初の舞台は1910年のニューヨーク。死者の霊と交信する降霊会が流行していた時代である。タイトルにあるとおり名探偵と霊媒師の対決がまず始まる。まずはマジシャンのハリー・フーディニ(大佐古剛史)が登場。彼は懐中時計の中に小麦粉を入れておくが、時刻をひそかに覗き見しようとした霊媒師(染次郎)の顔に粉がかかり、霊感が大嘘であることを暴く。ここは大切な場面なのだがハリーには今イチ元気と切れがないし、霊媒師にも笑いを誘うほどのすごさや入魂がない。暗転するとスクリーンが下りて、タイトルが映し出され、キャストが画面で紹介されていく。映画館の大画面を見ているようで、ぐんとスピードアップする。楽しいが映画に芝居が圧倒され、残念だ。

第2場では場面は英国に移り、エルシード邸の夕暮れ。大広間の中央に大きなテーブルが置かれている。アンソニー・エルシード(要冷蔵)はオナシスのような大富豪で、船舶のみならず紅茶や石炭などの貿易で巨万の富を成し、若いアメリカ人の後妻を迎えている。この妻ローズとの間にできた娘ベネットが三年前に殺害されたが、迷宮入りしており、霊媒師を呼んで犯人を捜そうというのだ。ベネットは七歳で亡くなっているが、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』のパック役で、天才子役として有名だったという。余談になるが昔ベルリンの劇場でこの作品を観たとき、パック役がプロレスラーのデストロイヤーのように覆面をつけた大きなおじさんだったのでびっくりしたことを覚えている。パックが「俺こそ愉快ないたずら者。/オベロンの道化役で笑わせるのが商売」と言うとき、可愛い女の子の妖精を想像していた僕は、あまりにもイメージが違うので思わず笑ってしまった。

さて舞台に戻ろう。アンソニーはお金に物を言わせ、邸宅のすべての女性に関係を強要しているらしく、彼を恨む人は多い。執事ロバートの妻はそれが原因で自殺している。(桂春駒は陰影のある男の役を好演している。)先妻の子リブ(嶋田光希)も後妻とその娘の存在により、父親の愛を失い、オフィーリアのように気がふれている。家の元の持ち主で、夫が自殺したあとベネットの教育係として雇われたヘレナ(山本やす華)。後妻の元恋人でアメリカから来て庭師として働いていたケビン(山本直匡)。メイドのクリスティナ(沢木れいか)。愛もなく、不幸で狂った虚栄の城、誰もが殺害の動機を持つように思える。本当はもう少しどろどろした愛憎が描かれるはずだが、舞台は淡白で物足りない。霊媒師オラクル(具志堅まり)が霊を呼び出し、ハリーと現れた名探偵ドイル(乃木貴寛)が殺害の行われた一時半から三時までのアリバイを探る。ここで休憩となる。

30分の休憩時間を利用して証言用紙が配られ、近くのビル、ツイン21にあるアストロビジョンを見に行く。たくさんの観客がすでに来ており、映像からスペシャルヒントを得ようとしていた。第二幕では装置は大きく転換し、観客席の中央に大きなテーブルが置かれ、法廷の傍聴席のような感じがする。犯人は日替わりみたいで、第一発見者のアンソニー以外は知らないはずの地下室でのベネットの様子を漏らした者が犯人となる。私が見たときはリブが犯人だったが、複雑で怪しげな心情を嶋田がうまく表現していた。アンソニーを演じた要冷蔵はせりふも重厚で、その存在感を十分に示したが、名探偵も霊媒師もそれに対抗するだけの重みがなく、芝居全体のバランスが崩れているのは惜しまれる。
終演後、投票用紙により犯人を当てた人に抽選で賞品が手渡されるという番外編までついて、最後までにぎやかな舞台だった。イベント性の強い上演だったが、私はむしろ芝居にはこうした遊び心が必要だと考えているので、大いに楽しませてもらった。
[2004年12月17日、MIDシアター]
(いちかわ・あきら/大阪外国語大学教授。ドイツ演劇)
●初々しさと鮮やかさと——TBS/ホリプロ『ロミオとジュリエット』
太田耕人

蜷川幸雄が『ロミオとジュリエット』を演出するのは、これが四度目だという(シアターコクーン、12月/ドラマシティ、1月)。この劇のこれほど清新な上演を、わたしは正直知らない。
三層を成す馬蹄形の装置(中越越)は、ローマの闘技場をおもわせた初演(74年)・再演(79年)の美術(朝倉摂)と、構造だけはそっくりだ。ただしその白い壁は、数多のカップルの顔写真で埋め尽くされている。

装置の底辺となる広場に雑多な人びとがいきかい、死の結末を仄めかすように葬列も通る。モンタギュー、キャピュレット両家の下僕の諍いがはじまる。深紅のローブを着た大公が三階中央に現れて、厳しい宣告を言い渡す。
衣裳(小峰リリー)は、モンタギュー家に黒、キャピュレット家に白を振り分けた。とくにジュリエット(鈴木杏)の身を包む白は、彼女の純粋さを観客の目に灼きつける。〈-オ〉の語尾(ロミオ/ベンボーリオ/マーキューシオ)と〈-ト〉の語尾(ジュリエット/キャピュレット/ティボルト)による聴覚的な区別が、鮮やかに視覚で置き換えられたのだ。黒の革ズボンに白のセーターで現れるロミオ(藤原達也)は、出会う前からジュリエットの白にすでに半ば侵されていることになる。

なによりの見どころは、キャピュレット家の宴からバルコニー・シーンへのすばやい展開と、それ以降に恋人たちがみせる初心な恋の歓びだろう。バルコニーの場では第三層からジュリエットが駆け下り、第一層からロミオがよじ登る初演以来の着想が保存され、疾走感を生む。中・高生がはじめて異性と交際して経験するような胸の高鳴り、だれもが覚えのある幼いけれど純粋な気持ちが、すなおにつたわってくる。
一般に『ロミオとジュリエット』の上演のむずかしさは、この初々しさが表現できないことにある。なるべく若い俳優を起用したいが、それでは演技力が不足し、息の長いせりふがこなせない。22歳のロミオと17歳のジュリエットがみごとな演技を見せたのは、こころよい驚きだった。

一昨年のハムレット以来、藤原竜也のセリフ回しが好調だ。歯切れよく明瞭な細部がつながれて長い文となり、なめらかに流れて、力に富む。当時のシェイクスピアは先輩作家リリーの美文の影響下にあった。その厄介な対句表現や比喩を、軽々とこなす。さながら天才少年バイオリニストの技巧をみるようだ。
長ぜりふだけではない。たとえばピーターに頼まれ、招待客のリストをロミオが読んでやる場がある。藤原は片思いの相手ロザリンドの名に息をのみ、親友マキューシオ(高橋洋/鈴木豊)の名は嬉しげに読み、ティボルトの名に言いよどむ。

劇の後半になると、ロミオは影が薄くなる。マンチュアへ追放され、舞台からほとんど姿を消すためだ。アクションの中心は、ジュリエットに取って代わられる。そもそも初登場のとき、ジュリエットは大きな人形を抱えた男を追って、走り出てきた。まだ召使に遊んでもらっている少女だった。その13歳が、ロミオと出会って、またたく間に“成長”する。ティボルトの死、ロミオの追放、パリスとの結婚の強要と、次々に試練をうけることによるのだろう。ロミオへの愛をつらぬくため、危険を顧みず劇薬を飲む行為はほとんど英雄的といってよい。追放の沙汰に、身もだえするロミオと比すと、いっそう果敢にみえる。
残念ながら、ことセリフ回しとなると、鈴木杏には藤原ほどの切れ味はない。だが、きらめきを放つ演技はいくらもあった。ロレンス神父(瑳川哲朗)の庵でパリスと偶然出会ったあと、神父から仮死の薬を受け取るとき、狂喜の表情をみせる。嫌な男と結婚しなくて済む、というわけだ。また、母や乳母が去り、寝室の扉が霊廟の扉のように、恐ろしい音を立てて閉まったあと、「いつ…また会えるかしら」というセリフには、観客を惹きこむ万感の思いがあった。

霊廟の場は、さながらカタコンベの底にジュリエットが横たえられている感じがする。貼り巡らされた無数のカップルの写真が、恋を成就できずに死んだ恋人たちの遺影にみえる。息絶えたロミオをみつけた神父は、ジュリエットをつれだそうとする。しかし彼女は決然と、「私は行きません!」と言う。このことばを発すため、ジュリエットは成長してきたのだ、とわたしはおもった。

恋人たちには心中する高校生のような生々しさがあるが、いっぽうで周囲の人物は原作どおり類型化されている。リアルな現代性をあたえられていない。たとえばキャピュレット夫妻とジュリエットとの間には、世代間のギャップというより、ルネサンスと現代との感覚のずれが感じられる。ルネサンスの背景に現代的な生身の恋愛をおいて、浮き立たせること。それがどこまで計算された演出なのか、わたしには判断できない。
これが世界水準の『ロミオとジュリエット』であることは間違いない。主役二人が「大人」になるまえに、おなじ配役で再演されて、さらに多くの観客にみてもらいたいとおもう。
(おおた・こうじん/京都教育大学教授)
●《・・・な「ワタシ」》
ーある、マイナーな若い女優の一人芝居でー
粟田イ尚右
半球形のホール。そのフロア全面に、無数の白い紙が敷き詰められている。いや、ぶちまけられた様にばらまかれている。歩けば白い紙はバサバサと音を立てて動き、舞い上がる。すべてが、成り行きまかせの設えで、その舞台は始まった。客席は無い。観客も、その空間・フロアの中の何処で観ても自由という。坐りたければ椅子を好きな所に勝手に運び坐ればいいらしい。この演出過剰の目論見は、逆に観客の其処での存在の仕方を完全に自己規制させていく。観客は舞台(演技エリア)も客席エリアの区別も無いホールのしつらい、演出の企みに戸惑い円形の壁を背にして立ちつくして劇を眺めている。観客は球形の内側にいるのだから、もたれることも出来ない。

応典院ホールの半球型(円形)の、白い紙に埋まるその空間は、観客にも同等の「場」(劇空間)への自由を与えられているのだが、実際は、観客の自由な空間、場にはならない。そこは『ワタシ』の空間であり観客の恣意的な存在、占有体にはならない。事実、結果的には、『ワタシ』と共有する自由な空間にすることは出来なかったのだが、そんな空間の中で観客は、むしろ自分を何処に存在させるかに思いあぐね、『ワタシ』に邪魔をしないことに心を配り、内側に逆傾斜を描くホールの壁に身を寄せることも出来ず、足の疲れの中で、折角の若い女優の一人舞台、『ワタシ』の劇の世界に自由に遊べない。さて、その舞台、『ワタシ』も、そうした劇の場、ホールの中で、『ワタシ』である若い女優自身も、立ちんぼの観客との距離が気になるのだろう、『ワタシ』に自由になれない。女優の素顔がちらつくのが気にかかる。『ワタシ』が女優自身と混在し、曖昧になる。自問自答し、見えない相手に話しかける『ワタシ』。その若い女優は自分の思いの丈を気怠げに、或いは、目の前にいるかの様に男に言葉を投げかけ、ぶち当て、フロアー一面の白い紙を蹴とばし、放り投げ、寝転び、歩き、手に取り、抱きしめ、話しかけ、語っていく。「ワタシ」にまとわりつく白い紙。この無数の白い紙が息づき始める。白い紙の一枚一枚が『ワタシ』になっていく。『ワタシ』の手、足、耳、思い・・・『ワタシ』の総ての断片になっていく。白い紙は心のかけらなのだ。そして『ワタシ』は『ワタシ』としゃべり始める。誰かに、或る男に話しかける。劇の構造は単純だ。若い女性が自分の思いの丈を語っていくだけの舞台だ。だが、囲むように立って『ワタシ』を眺める観客に、『ワタシ』は『ワタシ』の動きを自己規制していく。我々、観客とは常に一定の距離をはかり存在し、決して交わらない。噛んでこない。勿論、挑発して来ない。『ワタシ』を演じる『ワタシ』。『ワタシ』の《存在》を台詞という「言葉」で、白い紙の一枚一枚を小道具にして話していくだけで、『ワタシ』が実態として立ち上がってこない。書かれた言葉、意味としての言葉に頼りすぎる。『ワタシ』を見詰めようとする作者の表現への若い、ナイーブな試みは爽やかで、その思いは判る。

だが、小一時間の舞台は、一人の女性を実体化するには重すぎたようだ。繰返しと『ワタシ』の説明になっていく。『ワタシ』の何か、部分である《白い紙》を次々と手に『ワタシ』を確かめながら、その繰返しの中で『ワタシ』が『ワタシ』を失っていく。『ワタシ』が実体化しないまま、立ち上がらず、劇が終わってしまったのは残念だ。何故、台本に書かれた『ワタシ』の言葉を、言葉だけでなく、『ワタシ』の体全体を使って表現に出来なかったのだろうか。「音」としての言葉だけに頼りすぎ、身体自身が殆ど何も表現していかない。劇は、白い紙の中で、『ワタシ』が説明になっていく。何よりも残念なのは、女優という存在体が質的に変わっていかなかった、その事がもどかしい。『ワタシ』という女優という生身の存在が、言葉で説明されつつ存在したにすぎない。「役者体」として自己を追いつめていかない。言葉でなぞっているだけ、と言っては酷だろうか。

この舞台の前(6月)、梅田カラビンカで「クセノス」という若い劇団の『待ち人/来タレ』という舞台で、この『ワタシ』の女優の舞台を観た。ベンチに座り、ある定かでない彼方に目線をつなぐ若い女の思いを演じて、上手下手ではなく、ある「存在」を見せたのだが、『ワタシ』は、どんな『わたし』という《女優》をこれからの舞台に花咲かせて、実を結んでくれるのだろうかーー。これからが楽しみな女優の一人には違いない。・・・・にも拘わらず、反面、私の気持ちの中で、《女優》と言い切るには躊躇するものがあるのだが、扨て、まだ、マイナーな存在でしかない女優、『ワタシ』の名は《イトウ・アヤコ(伊藤綾子)》というのだが・・・・
(野村太祐作・演出『ワタシ』 ACT TWO公演の舞台  ○四年9月4日、於いてシアトリカル応典院)
(あわた・しょうすけ/演出者・演劇評論家)

 

●時評・発言

演劇で教育=「人間」教育
松尾 忠雄
演劇で教育
後期中等教育における演劇教育を、まず兵庫県立宝塚北高校・演劇科に焦点を当てて述べて行く。
30年ばかり前のことである。兵庫県(「教育委員会」でなく「知事部局」)が一部の高校教諭を招いて芸術教育について意見を聞いたことがある。その時、演劇の教育的意義を聞かれた筆者は、「生徒は、演劇を体験すると生活に役に立つ人間に育ちます」という趣旨の意見を述べた。宝塚北高校・演劇科創設の時期に県教育長であった井野氏が、ずっと後に筆者のこの発言について、宝塚北高校・演劇科を創設するきっかけの一つになったと説明した。

同校は、公立高校としては、全国で始めての演劇科の高校であった。宝塚北高校・演劇科の創設には、県立ピッコロシアター(兵庫県尼崎青少年創造劇場)の強い、厚い要望があった。
宝塚北高校演劇科の創設に当っては、当時大阪大学教授・山崎正和先生、大阪芸術大学教授・秋浜悟史先生、甲南女子高校教諭松尾忠雄の3人が、兵庫県教育委員会で高校演劇教育に間する意見陳述を行ってる。松尾は「教育課程」について、具体例を上げつつ意見を述べた。

高校の演劇科の教育とは、どんなものか。松尾は「役に立つ人間を育てる」と述べたが,山崎先生は、もっとすっきりと明確に表現された。曰く「演劇で教育する」である。この方が単純明解である。
教育ジャーナリスト大木源氏は、「学校訪問一兵庫県立宝塚北高等学校」の記事の中で、永年に亘って同校演劇科長を務めていた秋浜悟史先生の発言を以下のように紹介している。秋浜先生は「演劇は、大勢の中で一人になれるケータイ(携帯電話)文化と対極の世界だ。他人と深く触れ合い、ドラマを生み出す教育で、今の教育でもっとも欠けているものを捕うものだ」と言い、また「今、受験体制のシステムのなかで、学校が楽しいものでなくなっている。私はすべての高校に、演劇のカリキュラムが必要だと思っている」と述べている。
後期中等教育における、「演劇で教育する」演劇教育は「人間教育」である。

自己表現による自己実現、達成観
この「人間教育」は言葉を変えて衷現をすれば、[自己表現による自己実現」である。今度は筆者の体験による具体例を挙げて説明してみたい。筆者は永年、六ヵ年一貴校である甲南女子中学・高校に勤務し、演劇部の顧問を続けてきた。その体験の中で、身に沁みて嬉しく思った体験がある。生徒がある時突然目を見張るように「うまく」なる・「大きく」なることがある。筆者は、永年に亘って生徒に合わせて脚本を書いてきた。当て書きである。その数は二十本余にのぼる。部員全員とは言わないが、ある時夢中になって稽古をし始める生徒がいた。厳格な下校時間が定められていたが、独立家屋である講堂の舞台で、隠れるようにして、自分たちで、つまり仲のよい友人と一緒に稽古に熱中している。筆者は隠れるようにして彼女の稽古を見ていた。彼女たちも筆者がこっそりと見ていることは百も承知の上で素知らぬ顔で稽古に夢中になっていた。そしてある時、突然目を見張るようにうまくなり、大きい舞台をつくってくれる。この彼女たちは、言ってみれば「充分な達成感」をもって「自己実現」し得たのである。ところでこのためには、二つの条件がある。一つは、お互いに友人の稽古を真剣に見て、心のこもった助言をしてやること。つまり他者の助言があること。もう一つは、本番で観客に大きい拍手を貰ったことである。これらは、「自己表現」による「自己実現」であり、大きい「達成感」を持てる体験である。

自己を他者として観、他者を自己として観る
演劇教育が人間教育であることを、更に全く別の観点から述べる。これも筆者の体験に基く演劇教育論である。ここ数年筆者は甲南女子大学の講師(現在は定年退職)を勤めながら、一方で総合学科兵庫県立伊丹北高校で「戯曲研究」の授業を持っている。総合学科だから授業の多くは選択科目である。
「劇表現」という選択科目もある。
筆者の「戯曲研究」の授業の基本的な方法は「戯曲の中を自分の体で歩く」である。筆者独自の方法である。紙数に余裕がないので別の機会を求めて体系的な授業の方法は詳述したい。ここでは、一年で完了するカリキュラムの最後の段階の「生徒の即興による劇の集団創作」について触れておきたい。生徒は二人、一人は「わたしはいない」と思っている人物として設定し、もう一人は、「あなたもわたしもちやんといる」と考えている人物として設定した。目下進行中であるが、せりふを喋ってみて、なぜ、そう言うのか、そう言えるのか、自分で考え、お互いに意見を交え討論して、またせりふの言い直しをして、そのせりふを確定していく。その作業を続けて、戯曲を完成させる予定である。
「自己を他者として観、他者を自己として観る」ことによる「人間教育」である。
(まつお・ただお/伊丹北高校非常勤講師)
●「二○○四年、兵庫県発信の舞台を回顧して」
平川大作
兵庫県は少なくとも二つのパブリック・シアターをもっている。「劇場」ではなく、あえて「シアター」と呼ぶのは、二つのうちのひとつ「ひょうご舞台芸術」が建築物としての劇場を持たないままに、平成三年以来、新神戸オリエンタル劇場を中心として兵庫県下の劇場を利用しながら十四年間にわたる「ソフト先行」公演事業として継続されてきたからだ。二○○四年五月の『曲がり角の向こうには』(ジョアンナ・マレー=スミス作、鵜山仁演出)と十月の『やとわれ仕事』(フランク・モハー作、宮田慶子演出)により、公演は第三○回を数えるに至った。

余りに長きにわたったソフトの先行は二○○四年をもって終わりを迎えた。震災の影響によって、その建設計画が延期されつづけてきた兵庫県立芸術文化センターが二○○五年十月、ついにオープンするからだ。これまで根城をもたなかった公演主体がようやくホームグラウンドを持つことで、劇場の消滅と誕生が相次ぐ関西一円の演劇界に良い効果があらわれることを期待したい。
かたや開館から四半世紀を経たピッコロシアター(兵庫県立尼崎青少年創造劇場)では、ピッコロ劇団が劇団創立十周年記念として取り組んだ二つの公演における、意欲的な企画性が注目された。

七月の第二○回公演『笑う女』は、前もって決定された加藤登美子の舞台美術に対して、内藤裕敬、鈴江俊郎、森万紀ら三人の劇作家が台本を書き下ろすという通常とは逆の発想による制作過程を経たオムニバス形式の作品。森村泰昌風にマネの「スキャンダラスな」『草上の昼食』をあしらったチラシは充分挑発的であったし、シンプルな公演名は、劇団代表就任時に笑いを重視したいとした別役実の発言を思い起こさせて期待感をあおった。
加藤の美術は、中ホールにメタリックなパイプや構造物で埋めこむことで、逆に闇の向こうにある空間の広がりを強く暗示していた。ドラマの動機を誘わんとする工夫を随所に配置した無機質な舞台を、森が引っ越し直後の集合住宅の一室ととらえて、そこに息苦しくなるような三角関係をリアリズムの筆法で描けば、続いて、鈴江が狂騒的に慌ただしく人々が行き交う結婚式場の「バックステージ」を、内藤が夜の闇に沈んだ病院の幻想的な一角を、それぞれ安定感のある筆さばきで重ねてみせた。各編のドラマとしての出来映えは措いて惜しむらくは、女の笑いが三編の舞台を貫く印象に欠けたところだった。

十月の第二一回公演『神戸 わが街』は、別役実がソーントン・ワイルダーの『わが町』(一九三八年)を下敷きに、震災十年を迎えた神戸の現在を舞台に乗せた。題名から連想されるようなストレートな翻案ではない。原典『わが町』のギブス一家がキムラ家に、ウェブ家がウエダ家に書き換えられる、というよりむしろ観客の目の前で「演じ換えられる」とでも言うべき独特の手法で、冒頭アメリカの山に囲まれた架空の町グローバーズ・コーナーの地勢図が提示された上に、海と山に挟まれた神戸の街が投射され、最後にはまぎれもない神戸六甲の墓地へと至る。太平洋と六十有余年の時を超えて、アメリカの片田舎と神戸が通底したとき、ワイルダーと別役の世界が重なり、そこに「宇宙的な視野で観測される、人間たちのささやかながら、かけがえのない日々の営み」という主題が鮮明に浮かび上がった。
特筆すべきは、影の主役とも言うべき「進行係」と、原典では小さな脇役にすぎなかったサイモン・スチムソン改めトマス・キシが、ともに劇世界から放逐されて彷徨うさまが強調されていたことだ。確かに現代では、共同体に同化して何ら不安を感じない感性はあくまで古き良き時代のもので、むしろ地縁、血縁その他さまざまな紐帯から切り離された異邦人の内面にこそドラマがあるのだろう。港街神戸が背負う歴史はいかにもそうしたドラマに相応しい。一方で、原典の賛美歌が公民館での合唱曲に置き換えられたとき、『わが町』の強靱な背骨が消失してしまったこともひとつの発見だった。キリスト教的世界観の代わりを引き受けたのは、寂寞たる星空に放たれる抒情であった。
少々経験者向けの仕掛けとはいえ、震災十年の節目にふさわしい鎮魂の舞台であっただけに、東京、あるいは他の地方での公演がなかったのは残念だった。

兵庫県が発信しつづけている文化事業としての演劇は、一定の評価は得ているものの、観客の広がりと関心度にはまだまだ未開拓の可能性がある。双方のパブリック・シアターはさまざまな工夫と策を練って、劇場に観客を誘ってほしい。たとえば『神戸 わが街』における稽古見学会やポスター・チラシ原画の募集は今後も地道に推し進めるべき企画だろう。また、優れた舞台をレパートリー化して、劇場と観客が共有できる無形の財産とするヴィジョンも今後ますます望まれるだろうと考える。(了)
(ひらかわ・だいさく/大手前大学講師)
●演劇の教育と俳優の養成(4)
菊川 徳之助

日本の大学で演劇教育を行なっている大学のことをもう一度記述してみると、以下のようなものが主な形になっている。
(1)実技(実習)を伴う演劇授業を行なっている大学の設置学部
芸術学部演劇学科、芸術学部映像演劇学科、造形表現学部映像演劇学科、芸術学部舞台芸術学科、芸術学部パフォーミングアーツ学科
文芸学部芸術学科演劇芸能専攻、文学部総合文化学科演劇専修、
人文学部表現学科パフォーミングアーツコース、教育学部教養系表現文
化課程表現コミュニケーション専攻
(2)座学(理論)を中心に演劇授業を行なっている大学の設置学部
文学部表現芸術専修、文学部文学科演劇学専攻、文芸学部芸術学専攻劇
芸術コース、文学部人文学科演劇学専修、文学部人文学科芸術芸能コース
(3)演劇授業の一部が学科として行なわれている大学の設置学部
文芸学部芸術学科、文化政策学部芸術文化学科、人文学部文化表現学科
文化創造学部文化創造学科表現文化専攻
(この他にも短期大学で、芸術科演劇専攻、日本語コミュニケーション学科演劇放送コース、人間総合学科舞台系、などがある)

日本には<音楽大学>も<美術大学>もあるのに<演劇大学>がないこと、<音楽学部>も<美術学部>もあるのに<演劇学部>が無いことは前にも書いたが、そしてやっと演劇の文字が顔を出すのが<演劇学科>であることも書いたが、その<演劇学科>を設置している大学も僅かなのである。実技(実習)を伴う「演劇学科」を設置しているのは、日本全国で5大学くらいしかない。しかも、<演劇学科>と名乗っているのは、1大学のみである。他の4大学は、<映像演劇学科>、<舞台芸術学科>、<パフォーミングアーツ学科>といった名称なのである。これらの大学は「芸術系」の大学という姿を持っている。これとは別に、実質は演劇学科と同等の演劇の授業を行なっているが、芸術系ではなく「文学系」という学校がある。学部名は文学部、文芸学部であって、その中に「総合文化学科演劇専修」や「芸術学科演劇芸能専攻」といった形で設置されている。この他には、実技の伴わない座学(理論)のみの演劇授業をもつ大学がある。座学(理論)のみの学校は、ほとんどが文学系の中にある(上記の(2))。近年、演劇の授業を違った名称の学科に置く大学もある(上記(1)の終わり=文学部表現学科パフォーミングアーツコース、教育学部教養系表現文化課程表現コミュニケーション専攻)。

大学の演劇教育はこのように、<実習系>と<理論系>と実習を少し織り交ぜた<実践系>にわかれている。さらにこの他に、演劇専門でない一般教養と言われる中の、演劇概論、演劇入門、舞台芸術論といった教養としての科目の授業。そして、語学教員が行う、例えば、アメリカ演劇、ドイツ演劇といった、戯曲や演劇論を原書で読む演劇授業もある。

私個人の例で恐縮だが、文芸学部芸術学科の演劇芸能専攻を設置している大学に居る。そして他に、非常勤講師として他大学へ行って演劇を教えている。演劇を専門的に学びに来ている学生に教えるのと、演劇を専門的に学びに来ているわけではない学生に演劇を教えることと、少し違って、将来教員になる学生(幼稚園の先生になる学生)の授業もある。専任である自分の大学では、演劇を学びたい学生が中心である。しかし、演劇人になることを最初から目指す学生は勿論いるが、大学に進学できればよい、を第一の目的にしている学生もいる。この学生たちの受験動機は、ここの大学が「総合大学」であり、入学して万が一方角を間違ったとしても、または演劇をする才能がないことや演劇に適さない自己を知ったとしても、総合大学ゆえ、変更が可能という計算がある。それ故に学生には当然温度差があるわけであるが、演劇教育をするということに変わりはない。しかし、大学における演劇教育は、俳優育成機関、演劇人養成機関としては微妙なところがある。さらには、卒業生の中に専門の俳優になれる人は僅かである。金メダルを取るくらいに困難な世界である。しかも、と言うか、致し方なし、というか、演劇教育をする大学が、演劇学科、演劇専攻を設置していても、専門演劇人養成を目的の第一に置いていない大学もある。卒業証書をもらっても、その卒業証書が俳優になる免許証(俳優鑑札)になるわけではないのが現状である。ただ、出口のことを考えないで、学生が演劇教育を受けるということは、素敵なことだと思われる。演劇は総合芸術である。時間と空間の総合芸術である。人間や人間社会を描き、それも最も直接的に描く芸術である。人間の肉体(多くは俳優というもの)をもってナマ(生)の形(姿)で直接的に描かれる。時間・空間の現実性も幻想性も、演劇創造の中で学ぶことが出来る。学生の頭(理性)だけではなく、身体(感性)を通して、つまり、人間の中にあるものを丸ごと感知しての作業=教育になるわけである。しかも、学生たちは、個性を育み個性を感じながら、集団行動による複数での人間行動を奥深く学ぶのである。だがしかし、これらの肯定面を生きた教育にするための実際面、現実行動には多くの課題があることを問題にしなければならない。
(きくかわ とくのすけ/近畿大学演劇専攻教授)

●演劇書評
歌舞伎の笑いの原質ー荻田清『笑いの歌舞伎史』
瀬戸宏
本書は、梅花女子大学で教鞭をとる歌舞伎研究者荻田清氏が笑いを軸に明治までを中心に歌舞伎史を概説したものである。私は、本書を読むまでお国が歌舞伎踊りを演じた場所は五条河原ではなく四条河原、並木正三の読みはナミキショウザではなくショウゾウと思いこんでいた歌舞伎研究の素人である。もっとも、本書は朝日選書の一冊であり、私のような人間も読者に想定しているであろう。私自身もかつて『シアターアーツ』で「演劇と笑い」を特集するなど、笑いについていささか関心がある。荻田氏は歌舞伎研究専門家の書評を望んでいるであろうが、素人の読みを記すことにも多少の意味はあろう。
本書によれば、歌舞伎の笑いはその祖とされるお国歌舞伎と同様に古い。「阿国歌舞伎屏風」に、猿若と呼ばれる滑稽役が登場しているのである。その笑いの中心は物真似であった。猿若の演技などは時代とともに固定化し滑稽な要素が薄らいでいったが、それに代わって道外(どうけ)がその役割を引き受ける役柄となった。当初は、軽業など独立して楽しめる芸と野卑皮相な笑いであったが、元禄後期になると戯曲にしっかりとからんだ笑いを産みだすようになる。更に、元禄期には他の役柄の役者も積極的に笑いを担うようになった。この時期を代表する歌舞伎役者である坂田藤十郎の演技にも、笑いの要素が数多くみられる。そして、坂田藤十郎の笑いは、芝居の本筋と緊密に結びついていた。

元禄の終わりとともに、元禄歌舞伎の持っていた明るさも次第に失せ、道外方の活躍場所も狭められていく。しかし、享保の頃から興った俄(にわか)という滑稽劇は、歌舞伎の影響を受けて成長するとともに、歌舞伎にも影響を与えた。並木正三は、人形浄瑠璃に押されていた歌舞伎を再び活性化させた重要な作家だが、彼は俄と関係が深く、宝暦九(一七五九)年上演の「大坂神事揃」(おおさかまつりぞろえ)では、幕間にいくつか俄を上演しただけでなく、劇中人物も俄を演じる。彼の後を受け寛政年間に活躍した作家の並木五瓶にも、「韓人韓文手管始」(かんじんかんもんてくだのはじまり)などに俄の要素がみられる。
次の文化・文政・天保期に活躍した三代目中村歌右衛門にも、俄の影響は強い。昭和初期に歌舞伎戯曲を集めた『日本戯曲全集』全五十巻が出版され、その第二十一巻が「滑稽狂言集」に充てられ十二編の作品が収められたが、その半分の六編は三代目歌右衛門の作、または創案あるいは主役として出演した作なのである。その一つ「雁のたより」は今日でもしばしば演じられる。三代目歌右衛門の晩年から没後にかけては、大坂に二代目中村友三という人気の道外役者がいた。道外が衰退した時代に生きた彼は、憎しみの中におかしみのある道外敵として笑いの演技をおこなった。彼は当時の一流役者に数えられたが、歌舞伎では道外の才を十分に発揮することができず、歌舞伎史の中に埋没し忘れられた。

このあと、江戸歌舞伎の鶴屋南北と明治以降の狂言の歌舞伎化を分析した章があり、本書は終わる。本書は江戸時代上方の歌舞伎を主に考察し、その笑いを分析している。上方の笑いとは、ぼんやりした笑いであるという。江戸時代の歌舞伎を素直に見直すところから、劇の中の笑いを考えてもいいのではないか、というのが本書の締めくくりである。
私には歌舞伎研究、批評史の中で本書の意義を位置づける能力はなく、上述の要約も当を得ているか不安が残るが、本書が素人にもわかりやすい内容であったことは間違いない。
さて、荻田氏は本書冒頭で、氏の学生がゼミの発表で「歌舞伎の笑いは吉本のお笑いとは違うんです」と述べたことに違和感を感じたことを紹介している。第九章狂言の歌舞伎化での、明治の松葉目物に対する「江戸時代の歌舞伎が持っていた猥雑な娯楽性とは異なるものをめざしていたかのように見えてならない」という評も同様の発想にたつものであろう。
ところが、荻田氏は最近観た「身替座禅」では、明治以来歌舞伎が切り捨てた筈のわかりやすい笑いが復活したかのようであるのに気がつく。「わかりやすい笑い」とは、「吉本のお笑い」「猥雑な娯楽性」と同質と考えていいのであろう。だが、荻田氏はこの現象を単純には喜ばない。逆に「ここまでやってよいものかと不安になった」という。
ここに、現代の歌舞伎が抱えているジレンマが現れているように思われる。一方では伝統芸能として徹底して古典化すべきだという声が根強くあり、他方では現代の演劇としてその大衆性を取り戻せという声もある。荻田氏はおそらく後者への支持に傾きながら、それに徹することにためらいも感じているのである。

歌舞伎はどの道を歩むべきか。しかし、ここから後は読者が自分の頭で考えるべきことであろう。本書は、笑いを切り口に江戸時代の歌舞伎に関する知識を平明に与えてくれると同時に、伝統演劇の二重性の問題を改めて考えさせてくれる本である。
朝日新聞社刊、1200円
(せと・ひろし/演劇評論・中国現代演劇研究)

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●投稿規定
『あくと』三号より、下記の要領で一般読者からの投稿を募集しています。編集部で審査のうえ、優れたものを『あくと』に掲載します。
・投稿内容は劇評、時評・発言、海外演劇紹介、書評などジャンルを問いませんが、関西地区上演の舞台対象の劇評を歓迎します。
・枚数は5枚(2000字)が基準です。
・原稿料はお出しできません。
・投稿締切は以下の通りです。
『あくと』五号(05年5月初め発行)掲載・・05年3月20日締切
『あくと』六号(05年8月初め発行)掲載・・05年6月20日締切
・投稿は電子メールでのみ受け付けます。タイトルに【『あくと』投稿原稿】と明記してください。原稿には、氏名(筆名使用の場合は本名も)、連絡先、職業(所属先)を明記してください。
・投稿宛先 ir8h-st@asahi-net.or.jp 瀬戸宏

●編集後記
季刊演劇批評誌『あくと』も4号に達した。三号雑誌の汚名はまぬがれたわけで、ひとまず嬉しい。雑誌としてはごくささやかなものだが、定期刊行物の発行維持にはそれなりの労力が必要となる。なにより、無償で原稿を書いてくださっている執筆者と本誌を読んでくださっている読者のご支持がなければ、とても雑誌は続けられない。この場を借りて厚くお礼申し上げたい。
本号では、維新派『キートン』についてクロス・レビューを組んでみた。藤原央登氏は前号に引き続いての投稿である。一方、会員の中西理氏からは、『キートン』についての投稿があることを知ったうえで、劇評寄稿の熱意をこめた申し入れがあった。編集部として意図したわけではなかったが、クロス・レビューという形でお二人の劇評を掲載した。今後は、当初から企画したクロス・レビューがあってもいいかもしれない。
投稿規定を本誌でもサイト上でも掲載しているが、まだ投稿は多くない。未知の新人の力のこもった批評文を期待している。
5号以降のことも考えねばならない。本誌のような劇評中心の雑誌は、季刊では上演状況にうまく対応できない面があることは否定できない。個人的には、隔月刊にしたいという思いがあり、本誌のようなシンプルな雑誌なら財政的にもまったく不可能ではないが、隔月刊化には乗り越えなければならないハードルがいくつもあるのも事実である。とりあえず、五号はこれまで通り三ヶ月後に発行する。読者、執筆者の皆様のいっそうのご支持、ご鞭撻をお願いしたい。(瀬戸宏)