act創刊号・前半

act(あくと)創刊のことば市川 明
劇評家で作る組織AICT(国際演劇評論家協会)日本センター関西支部で劇評誌を発行することになった。関西支部のメンバーは現在十三名だが、みんな無類の芝居好き。関西の演劇・パフォーマンス、舞踏などの上演状況を広く、細かに紹介することで、劇場に足を運ぶ人の数が増えればこれに勝る喜びはない。 雑誌のタイトルは『act』(あくと)とした。あくとは劇やオペラの「幕」、寄席やショーの「出し物」といった意味だが、広く舞台上の演技や芝居そのものを表す言葉でもある。もちろん「行為」「行動」が原義なのだが、演劇を鑑賞し、評論するという発信行為をこの雑誌を通して続けていきたい。actはまた私たちの組織「アソシエーション・オブ・シアター・クリティク」の略称でもある。
レパートリーに入った10数本の作品をシーズンを通して日替わりで上演するヨーロッパでは、劇評を見て観劇する人も多い。おのずと劇評家にも高い地位が与えられる。芝居の初日は観客席に劇評家や文化人がずらりと並ぶ緊張の日だ。劇評家は独自の演劇観、独自の文体で評論を展開し、一つの文学・読み物としても読ませる。劇評集を出版し、時代を越えて読まれる劇評家も少なくない。 黄金の20年代と呼ばれるワイマール共和国の時代、ベルリンは世界演劇の首都であった。演出家のラインハルトとイェスナーのみならず、劇評の世界でも大御所アルフレート・ケル(ベルリン日刊新聞)と若手ヘルベルト・イェーリング(ベルリン株式速報新聞)が火花を散らしていた。初日の幕がはねると、近くのカフェや飲み屋で夜を明かし、朝の6時ごろに配られる新聞の劇評をむさぼるように読んだ人も多いという。
日本では劇評が出たころには芝居が終わっていることが多い。劇評が一種の文化現象になるような時代は遠い先のことかもしれない。だが少なくとも多くの人を劇場にいざなうような劇評誌を、皆さんに届けたいと思う。もちろん私たちが目指すのは創造者と真摯に向き合い、互いに刺激し、高めあう創造的なコラボレーションである。歩み始めたばかりのactを、リニューアルした全国誌シアターアーツともども暖かく見守ってほしい。(AICT日本センター関西支部長。大阪外国語大学教授)

●劇評
メタシアターの不思議な舞台空間-糾(あざない)『つのひろい』        市川 明
「…、コレやで」。子どものころ、よく人差し指で角(つの)を作って、怒り狂った先生や親の様子を示したものだ。いわば警戒の赤信号だが、必ず緑に変わるという期待がある。怒りは愛情の裏返しであり、親は何度も怒りの角を生やし、落としていく。「鬼は外、福は内」、大きな声で豆をまいた節分の思い出。鬼には本物の角がある。桃太郎の鬼退治…『つのひろい』は、そんな角が違った時間空間の中で糾い、交差する「変身」物語である。 舞台は薄暗い土蔵の中。闇に差し込む光の中で母親小夜子が娘の美里に桃太郎の絵本を読んで聞かせている。暖かな愛とハーモニーの世界。だが実際には親子の関係は崩壊しており、それは小夜子の幻想であることが次第に明らかになる。だとすればここはもっと思い切ってファンタジックなシーンを現出させても良かったのではないか。
土蔵の中には段ボール箱が山積みにされている。ここには小夜子の少女時代の思い出が詰まっている。いい子で、親のお気に入りだった弟が交通事故で死んでから、小夜子は反抗的になり、家庭は冷え切り、逃げるように家族はこの町を出た。そして今、娘の美里がかつての自分のようになったとき、何か解決のきっかけをつかみたいと思い、ここに帰ってきたのだ。児童養護施設の相談員の最上を伴って。 小夜子は自分の手提げ鞄にコンビニの袋が入っているのに気がつく。美里が入れたもので、中には3体の人形。美里が見ているアニメのキャラクターで、アカネとキスケとアオベエだという。最上は「親子の交流がある」と慰めるが、小夜子は鍵をかけ娘を閉じ込めてきたという。小夜子たちのいない間に子鬼の人形は人間に変身して、歌い、組体操をしだす。さらには人間世界を習って「お仕置きごっこ」なるものをやりだす。異次元の世界に飛び出た人形はもっとお茶目で、元気ないたずら者であってほしい。バレエ『くるみ割り人形』のようにカタコトと踊りだし、ドリフターズのようにずっこけて…。そうしてこそべそをかいて角拾い(つのひろい)=親探しをする最後の場面が生きてくるだろう。 小夜子と美里の争いやコンビニ弁当しか食べていない家庭の様子が三人の子鬼の口から語られる。小夜子に手がつけられなくなり、家族が引っ越していった昔のこともどうやら知っているらしい。やがて彼らは自分たちにも桃太郎の絵本を読むよう小夜子に要求する。小夜子を取り囲み、彼らは本に見入る。すると三方から、マサル、ツキジ、ミイヌが現れる。もう一つの世界=桃太郎の世界が生まれる。マサルとツキジの娘ミイヌは少女時代の小夜子、さらには現在の美里に重なる。残された天体望遠鏡から弟の死や小夜子の過去、親子関係が明らかにされる。マサルとツキジの暴力や押し付けに抵抗して暴れるミイヌ。
二つの世界がメタ空間として描かれ、その中心に小夜子がいる。マサルとツキジがミイヌを檻のなかに入れようとすると、小夜子は彼らの世界に介入し、もっと子どもの気持ちを理解するよう求める。するとミイヌが美里として現れる。小夜子にとって美里は誰よりも大切なはずなのに、自分が親にされていやだったことをそのまましてしまう自分がいる。小夜子は角が生え、変身しているのに気づく。 二つの世界がクロスオーバーすると、今度は子鬼たちが凶暴になり、角を生やして小夜子たちに襲いかかってくる。小夜子の父、母、娘に戻った三人が、小夜子と家庭を守ろうとする。やがて小夜子からも子鬼からも角が落ちる。子鬼はどんなに蹴られても、殴られてもかあちゃんがいないといやだといい、必死になって角拾いをし、かあちゃんを探す。こんな様子を見て、母親の大切さを痛感しながらも、小夜子は美里を施設に預ける決断を下す。髪の毛に触れただけで、叩かれると思い両手で頭を覆う娘に過去の自分を見、親子に受け継がれていく憎悪の連鎖を断ち切るために。それに対して最上は、これから代々、施設に預けるような「新しい連鎖」が生まれると警告し、もう少し頑張るように言う。角(つの)の山の中に弟の形見の顕微鏡が光るところで、舞台は終わる。
宮沢賢治の童話やチャイコフスキーのバレエに、カフカの小説が混入したような不思議な舞台空間。桃太郎の童話の世界と子鬼のアニメの世界が、小夜子を媒介項とし、過去と現在という形で交差するメタシアター。角(つの)が表す愛と憎しみの弁証法。「悪循環」「ボタンの掛け違い」ともいうべき反発・憎悪の連鎖。主人公の決断から観客席に生み出される強烈な反ベクトル…芳崎洋子の作品は魅力的だが、台本の奥行きの深さに比べて、演出家芳崎が作り出す舞台はまだまだ浅い。舞台装置も演じ方も生真面目なほどリアルで、多様な世界が照射されないのだ。小夜子の大山まゆは明るさの中に陰影をにじませ、好演なのだが、他の俳優は総じて存在感が薄い。これも俳優の力量の問題だけではないだろう。「もっとシュールに、もっと立体的に、もっと遊びを、もっと音楽を、もっと光の転換を…」こんなことをずっと思いながら舞台を見ていた。 (2月13日〜15日、HEP HALL)

「じゃれみさ」はダンス版夫婦漫才-砂連尾理+寺田みさこ「男時女時」          中西理
砂連尾理+寺田みさこ「男時女時」(04年2月25日)を東京・新宿のパークタワーホールで見た。俳優出身のダンサー、砂連尾理(じゃれお・おさむ)と現役のバレエダンサーでもある寺田みさこのデュオは一昨年トヨタコリオグラフィーアワード2002で「次代を担う振付家賞(グランプリ)」と「オーディエンス賞」をダブル受賞。関西のコンテンポラリーダンスの世界では旗手的存在となり、今回はその真価が問われる注目の舞台となった。 JCDN(ジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワーク)の巡回ダンス企画「踊りにいくぜ!!」の福岡公演でこの作品の原型を見て、伊丹公演(03年11月)、「踊りに行くぜ!!」東京公演(03年12月)と見てきての印象は「あの表現がここまで完成度の高いものとなってきたか」という驚きが強かった。だが、今回の舞台ではそこからさらに殺ぎ落とすような成熟の道に進むかと思いきや、そうはなっていないのが面白かった。
もっとも印象的な場面は高島屋の袋に入ったピンポン玉を寺田が舞台に持ち込み、まるでウミガメの産卵のように舞台中にぶちまけていくところなのだが、以前の公演とは段違いに分量が増えていて、床に散らばったピンポン玉を蹴飛ばしながら踊るところなどはそれまでにないダイナミズムがあり、八方破れの勢いを感じさせた。 表題の「男時女時(おどきめどき)」は向田邦子の最後の小説・エッセイ集である「男どき女どき」から取られた。「男どき女どき」という言葉自体は元々は世阿弥の「風姿花伝」にある「時の間にも、男時(おどき)・女時(めどき)とてあるべし」からの引用で、「いいとき、悪いとき」というような意味なのだが、作品の内容との関係でいえば人生においていろんな経験を積んできた男女のカップルの様々な様相が砂連尾、寺田の舞台上での関係性によって提示されていき「男と女/いいとき、悪いとき」の2重の意味合いを持たせようとの狙いがある。
デュオといえばバレエのパ・ド・ドュのように燃えるような二人の愛を歌い上げるような劇的な表現が主流ななかで、この二人が表現するのは「夫婦善哉」のような長い付きあいから生まれたわびさびを感じさせる関係だ。この微妙な関係を提示するための戦略として、ダンスにおけるステレオタイプな「劇的なるもの」を周到に避けていく。 舞台は「エルサレム」が流れるなかに暗闇のなかで上手奥から下手手前に斜めのラインが照明が当たり、そこに佇むダンサーの姿がシルエットとして浮かび上がるという劇的な効果を強調したような壮大なオープニングからスタートする。ここでは舞台全体から「劇的なるもの」がクライマックスに向けて疾走していくような予感が醸し出されるのだが、それはすぐに裏切られる。
ここで一度「劇的なるもの」を見せるのはそこから距離を取って、ずらすための手段にすぎないので、音楽にしても、言語テキストにしてもそれがそのまま舞台上の演技の説明となるようなべったりした関係ではなく、そこから批評的に距離を取り、期待を裏切っていくのが持ち味なのである。 その裏切りの核となるのが、普通ならダンスのムーブメントにはなじまないような「へなちょこな動き」なのだが、それは特に砂連尾の一生懸命踊っているのだけれど駄目駄目を感じさせる身体によって踊られる時に決定的なものとなる。 一方、こうした「へなちょこな動き」の連鎖からなっていてもそれがダンスとして成立していて、場合によっては美しくさえ見えるのが寺田で、バレエダンサーである寺田には以前はともするとその動きのなかでバレエのパが垣間見える瞬間があったのだが、前作「ユラフ」からはそういう動きは意図的に排除されて、既存のダンスにはあまり使われないような身体言語(キネティック・ボキャブラリー)を採集し、それを丁寧につないでいくような振付となっている。
この二人が同時に舞台上に存在し、掛け合いをすることで生ずる微妙な関係が「じゃれみさ」の魅力である。その掛け合いにはダンス版の夫婦漫才を連想させるような諧謔味がある。ダンスデュオといえば大抵の場合はコンタクト(接触)やユニゾンの連続で二人のダンサーの関係性を見せていくのが定番だが、この作品ではそうした動きはほんの一部。ほとんどの場面で2人がどちらかが舞台の前の方、もう片方が舞台奥というように舞台上に離れて互いに別のことをやっている。それなのに作品に散漫な印象がなく、舞台全体としてこのユニットならではの微妙な調和を保ち続けているところがこのデュオならではの特徴。これは簡単に見えて至難の業でそれぞれの個性を生かしながらも、動きのディティールに徹底的にこだわり、自分たちだけの動きを突き詰めていく作業を通じて、ほかのダンスにはないオリジナリティーの刻印を獲得したからこそできるものなのである。(なかにし・おさむ 演劇舞踊評論)  軽やかさと物足りなさとー関西芸術座『リズム』       瀬戸宏
今年は、新劇の実質的な始まりである築地小劇場八十周年である。私が劇評活動を始めた二十世紀八十年代後半、新劇は消滅寸前の演劇とみなされていた。「新劇が滅ぶ日」という評論を書いた批評家もいた。
それから二十年近くたった。滝沢修、宇野重吉、杉村春子、千田是也ら新劇団第一世代は逝去したが、新劇は滅びなかった。その原因分析をする余裕は今はないが、新劇が今日も日本演劇の重要な一部であることは確認できる。それが、かつての新劇と同じ演劇かはまた別の問題であるが。 翻って関西演劇に目を移すと、関西でも新劇は健在である。関西新劇の代表劇団である関西芸術座が演じる『リズム』を二月二十九日昼に関芸スタジオで観た。
『リズム』は、児童文学者森絵都(もり・えと)の同名の小説とその続編『ゴールド・フィッシュ』を脚色した劇である。脚色は勇来佳加、演出は松本昇三。原作の『リズム』は、著者が二十歳の時に執筆し三年後の一九九一年に出版され、いくつかの児童文学賞を受賞した。『ゴールド・フィッシュ』も同年出版されている。近年人気の高い児童文学者であるという。 『リズム』は、さゆきという千葉県のはずれの町に住む少女の中学一年夏休み最後の一日から高校入学までの不安定で微妙な心情を描いている。両親と姉一人の平凡な家庭に育ったさゆきには、真ちゃんという幼なじみの年上の従兄弟がいる。真ちゃんは高校に行かず、髪も染めて好きなロックバンドに本気で熱中している。さゆきはそんな真ちゃんの生き方に共感し、真ちゃんもさゆきをかわいがっている。やがて、真ちゃんの家庭は両親が別居し、真ちゃんも本格的な音楽修行のために東京に行ってしまう。引っ越す前の晩、真ちゃんはさゆきに自分のリズムを大切にするようにと諭した。
二年後、さゆきは受験生になった。ある時、さゆきは真ちゃんが自分に内緒で自分の住む町に帰ってきたことを知り、連絡してくれなかった真ちゃんにショックを受けてしまう。しかも、真ちゃんのバンドは解散し、電話も不通になっていた。そのショックを紛らわすため、さゆきは猛然と勉強し、成績はたちまちあがる。その時、真ちゃんの父が倒れてしまった。そのおかげで、真ちゃんの消息もわかり、真ちゃんの両親もよりが戻る。実は、現実の壁にぶちあたった真ちゃんはやはり普通の生活をしようと、夜間高校に通おうとしていたのだ。さゆきも高校に合格し、新しい生活が始まる。 森絵都の原作は、さゆきの一人称で軽やかに物語が進んでいく。感じやすいが、過度に感傷的にもならない。適度のずるさやわがままもあるが、他人への思いやりもある。真ちゃんの家庭や真ちゃんの境遇など、暗く深刻な問題の筈だが、森絵都の筆はこれらの問題もさらりと描く。この時期の少年少女にありがちな性の問題は完全に削り取られ、社会矛盾もほとんど出てこない。根っからの悪人も生涯の敵も登場しない。
今回、この劇評を書くため『リズム』『ゴールド・フィッシュ』を読んでみたところ、森絵都の原作から得られる印象と、舞台の印象がほとんど同じであることに驚いた。劇の筋も、原作とほぼ同じである。これは、さゆきを演じた岡村直美をはじめとするキャストやスタッフが原作の世界を舞台に再現し得たということで、脚色ものとしては成功であろう。何よりも、舞台に原作と同様の軽やかなリズムがあるのがいい。以前、松本昇三演出の成井豊『ナツヤスミ語辞典』を観て、その演技がキャラメルボックスそっくりだったのに一驚した記憶があるが、今回の岡村直美らの演技も小劇場系の演技と通じるところがある。その是非はともかくとして、『リズム』の場合はその演技が生きている。 と同時に、私はこの舞台に物足りなさも感じた。深刻な社会問題などは一切捨象され、劇の最後でも描かれた問題は一通りは解決されてしまう。問題を投げかけるということがない。さゆきは、夢をもつ真ちゃんに共感するが、さゆき自身も、自己の夢をさがして冒険し現実とぶつかってもよかったのではないか。もっとも、これらは原作の問題なのだが。脚色ものとしてみると、舞台の真ちゃん(丸山銀也)には、原作ほどの個性が感じられない。原作の随所にみられる季節感も、舞台にもっとほしい。私は『リズム』を面白く観ることはできたが、自己の中学生時代を振り返っての懐かしさも切なさも感じることはなかった。これは、私が男性だからなのか。
『リズム』からは原石のままの玉の印象を受けた。そのままでも鑑賞に耐えるが、磨けばもっと輝くのではないか。どこか存在感の薄い関西新劇であるが、関西演劇全体の発展のためにも、もっと気を吐いてほしい。 (せと・ひろし 演劇評論家・摂南大学)

非日常の現実感ー羊団『石なんか投げないで』    九鬼葉子
松田正隆の作風は、近年大きく変わっている。 1994年初演の第40回岸田國土戯曲賞受賞作「海と日傘」や、1997年初演の第5回読売演劇大賞最優秀作品賞受賞作「月の岬」など初期作品では、故郷の長崎弁を用い、庶民の日常を少人数の会話劇として綴ってきた。どこか死の気配を漂わせながら、地方の視点で日本人論を展開した端正な戯曲が多かったが、最近の戯曲は、意味性で解釈することを拒むような、かといって、「抽象的」という言葉でも特定できない、一種独特な作風である。観客が意味を理解し、安心した瞬間に、意味をはぐらかし別の地平に飛躍するような、不思議な劇構造である。
特に羊団に書き下ろす時には、のびのびと実験を謳歌しているように見える。羊団とは、かつて松田が主宰していた時空劇場に所属し、現在はMONOの役者として活躍する金替康博と、やはり元・時空劇場の女優で、現在はフリーの内田淳子が出演し、MONOの水沼健が演出を担当するユニットだ。 羊団の上演した松田の最新作『石なんか投げないで』(3月13日所見、メイシアター)は、イェーツの詩「モル・マギーのバラッド」「ギリガン神父のバラッド」に触発された男女二人芝居。自分の歌う子守歌に眠りを誘われ、寝返りを打った時に、その巨体で赤ん坊を圧しつぶしてしまった女マギー。そして疲れきって居眠りをしてしまい、死ぬ間際の病人の祈りに間に合わなかったギリガン神父。それらアイルランドの民間伝承に基づく人物、マギーとギリガンとして、二人は最初の場面に登場するが、次第に別人格に変わる。12年間監禁された女と誘拐犯。死んでばらばらにされた彼女の体を縫い合わせた男と母。体の縫い日から血のにじむ女。神を見失い、司祭を辞めてうらびれた施設で死んだ兄の死体を拭く女など。
オムニバス形式で役替わりを楽しませる構造では、勿論ない。冒頭のマギーの長台詞は、ト書きのような言葉で書かれている。マギーが赤ん坊を圧死させて村を石もて追われたいきさつを、内田は縫い物をしながらつぶやく。だが、いつのまにか話される主体が「マギー」という他称から、「私」という第1人称に変わり、内田はマギー自身となる。扉の向こうには金替演じるギリガン神父がいるが、舞台に現れた時にはグレンという誘拐犯に変わり、女はマリーと呼ばれ、今度は誘拐された少女に変わるのだ。しかし少女を演じながらも、彼女の語る記憶には、別の誰かの記憶が交錯する。それが誰なのかは、明かされない。 詩やト書きのような台詞が続き、一人語りが次第に会話となり、又一人語りとなる。語られている言葉は、虐げられた者たちの死の記憶だ。暴力、姦淫、差別、飢餓。神父ですら救済することはできない。-見、死ぬ間際の女が垣間見た妄想を綴った芝居にも見える。だが断片的な台詞を、「いつだってそうだ。後から気づく」と言う言葉がつないでいる点などから、二人が演じたのは、人類の罪の記憶を代弁する巫女のような存在にも見える。過ちはいつも後からしか気づかない人間の愚かさ。贖罪の劇にも見えるが、ホロコーストを思わせる白い灰が舞い降りて終わり、改悛の余地も与えない。
舞台は石の敷かれた薄暗い小部屋。息苦しい空間に照明(吉本有輝子)がほのかに外界の光を照らし出し、二人は光を感じて自然体で動く。演技のよりどころを感情の動きに求めていると、はぐらかされる戯曲ではある。だが、二人は相手の台詞にナチュラルに反応し、感情が激することをすり抜けるように書かれた戯曲に沿って、抑制の効いた演技で次の役へと移ってゆく。内田は時に少女に、時に老婆へとしなやかに役替わりし、金持は着実に受けとめる。難解な台詞を身体に染み通らせ、奇妙な現実感を醸し出した。 最近の松田戯曲には、キリスト教など宗教がモチーフに描かれることが多いが、救済は描かれない。むしろ祈っても罪は許されないと、宗教を拒んでいるようにも見える。今回も負の歴史に目を背けてきた人類を断罪するかのような舞台であった。 日常の時間の枠や意識では捉えきれず、また、「各モチーフの象徴するものは何か」といった観点からでは解読できない、簡単に意味づけられることを拒む戯曲。日常に妥協し、安心していた、心の安全圏を打ち破るような挑発的な作風。捉えどころのない現代を象徴する、時代に刻まれる作品へと発展してゆく可能性を秘めている。
松田正隆。今後に注目していきたい作家である。(くき・ようこ 大阪芸術大学短期大学部助教授)