act3号・前半

■巻頭言 大阪のど真ん中に劇場ができる時瀬戸宏 この十月、大阪で劇場があいついでオープンした。インディペンデントシアター2nd、アリス零番館-IST、精華小劇場である。このほか、大阪では今年に入って、ウルトラマーケットも開場している。二〇〇二年に関西地区の小劇場演劇界に長く貢献してきた扇町ミュージアムスクエア、近鉄劇場・小劇場の閉鎖があいついで発表され、関西小劇場演劇界の危機意識が一挙に高まり、関西の演劇人によって「大阪のど真ん中に小劇場を取り戻す会」が作られるなど、大阪にふたたび小劇場を取り戻す運動が続けられてきたが、今回の開場ラッシュともいえる状況は、そうした運動の一つの帰結でもある。各劇場の場所は、歴史的地理的にみれば、文字通り大阪のど真ん中にある。
国際演劇評論家協会(AICT)日本センター関西支部は、この運動にいちはやく支持を表明した。私自身も、これらの運動をもちろん支持し「取り戻す会」の会員にもなった。しかし、今だから言うが、私がこの運動に一抹の疑問を感じていたことも事実である。
まず、閉鎖された劇場の関西小劇場演劇界での位置が極めて大きかったにせよ、大阪にはほかにも小劇場はある。そしてそれらの劇場のスケジュールが超過密で、新たに劇場を作らなければ上演活動自体が不可能という状況かというと、決してそんなことはない。 もう一つ、近年成果をあげている東京の小劇場は必ずしも東京のど真ん中にはない。今日では演劇のメッカになってしまった本多劇場も、開場当時はずいぶん遠い場所という印象だった。ベニサンピット、シアターΧなども、従来の観劇習慣からははずれた場所である。当初は辺鄙な印象を観客に与えても、強く記憶に刻まれる名作が繰り返し上演されれば、やがてそこが観客にとってなくてはならぬ場所になっていくのである。
精華小劇場で、オープニング記念に二つのシンポジウムが開催された。「関西演劇人会議’04『劇場の話をしよう』」(10.28)と「大阪のど真ん中に小劇場は取り戻せたか?」(10.31)である。前者では、各劇場の実情が担当者から直接語られ、たいへん参考になった。後者は、所用で最後の部分にまにあっただけだっが、そこで深津篤史が、これからだ、という発言をしているのを聞いて安心した。 大阪の各劇場の将来は、まさにこれからである。本誌も、演劇批評の立場からこれらの劇場と併走していきたい。
(せと・ひろし AICT日本センター関西支部事務局長、『あくと』編集長)

■劇評●また会うことの歓び    -劇団八時半『そこにあるということ』とマレビトの会『蜻蛉』出口逸平
歌舞伎や文楽ならともかく、現代演劇で同じ作品にもう一度巡り会うチャンスは、決して多くはない。それがつねに「新しさ」を求められる現代の宿命だといえばそれまでだが、どこかそのさまは息せき切った馬車馬のようでせわしない。私はなにも「新奇さ」を求めて劇場に足を向けはしない。むしろ以前見えなかったものが見えてくる、その「発見」の瞬間を楽しみたいと思うことがある。この夏は、そんな二つの舞台に出会った。
鈴江俊郎作・演出の『そこにあるということ』(8月25-29日 アトリエ劇研)は、96年2月(京都府文化芸術会館)と97年1月(ウイングフィールド、岡山県総合文化センター)に続く再々演となる。入ってまず劇場の様子に驚かされた(舞台美術 長沼久美子)。狭い舞台に何本もの柱が立ち並び、客席はその舞台を見下ろす急勾配の高さにしつらえられている。ミニ・コロセウム、あるいはリング場といえばいいのか。観客はこれから始まる闘いを間近に見物するという格好なのだ。そう、それはまさに男女の闘いの場となるはずであった。同時に三人の女性を妊娠させた男。当然男はそのだらしなさを糾弾される。しかし女性たちはただの被害者ではない。それぞれの女性と男との関わりが明らかになるにつれて、男を含めじつは皆が同じように空虚感を抱えており、だからこそ互いに「そこにある」ことを確かめようと関係をもってしまうという道筋が浮かび上がってくる。初演では男の前から女性たちが消え去り、一人残された男が「皆、同じなんだ。そうでもしないと、そこにはなにもないんだ」とつぶやくシーンで舞台は閉じられた。ところが今回は「なにもない」ことに耐えきれず、男が部屋じゅうに物をぶちまけ暴れまわる。ほかに空虚を埋めるすべを持たないその姿は、狂おしくもまたやるせない。そこに去っていった女性たちがもどってきて、今度は彼女たち全員で雑魚寝するという場面が付け加えられた。この新たな結末によって、「孤独であることの共感」とでもいうべき作品のモチーフがより一層印象付けられることになった。中村美保、金城幸子、加納亮子(桃園会)が三者三様の女性像を鮮やかに描き出して、劇のリズムを作った。
松田正隆作・演出の『蜻蛉』(9月15-20日 アトリエ劇研)もまた、99年1月(ピッコロ・シアター、新国立劇場小劇場)を受けた再演である。ただし初演が岩崎正裕(劇団太陽族)の演出であったのに対し、今回の舞台は作者自身の手による。そこにやはり大きな違いが生まれていた。題は『源氏物語』の巻名にもとづく。宇治十帖の世界から中君と浮舟の姉妹、匂宮と薫の四人を拉しきて、彼等が綾なす複雑な恋愛模様を現代に取り込んだ按配だが、細部はまったくの創作である。初演では、新たに付け加えられた女生徒とその兄、さらに姉の恋人須永の妻にそれぞれ劇団太陽族の役者を起用し、彼等に関西弁を使わせていた。それによって舞台に日常的なリアリティーの色合いが強まり、独身の姉の老いへの怖れなどはストレートに感じられるものの、失踪して亡霊となる妹といった作品の非日常的要素がうまくかみあわないきらいがあった。今回は装置も簡略化され、方形の舞台の周り四方がいわば能の橋掛りとなり、そこを登退場する役者が摺り足で歩むというように、全体が能舞台のイメージで統一されていた。台詞も初演に比べかなり刈り込まれ、役者の演技力にばらつきはあるものの、姉妹のありようを軸に、生と死、現在と過去、現実と非現実とが交錯する作品の夢幻能的構造が際立つ、じつに端正な舞台となっていた。
いうまでもなく再演はただの繰り返しではない。今回のように演技や作品の練り直し、あるいは演出への意欲など、観客のみならず劇作家や劇団にとっても、再演は刺激的な体験となりうる。
また経済的負担の面からいって、再演はむしろ小劇場でこそ実現可能な試みだといえよう。「新作」への強迫観念が薄れたいま、こうした試みが小劇場の果たす役割の一つとなるのではないか。むろんそのためには再演に値する演目を目利きし、上演をサポートする体制が必要だが、ウイング・フィールドやアトリエ劇研といった関西の小劇場にはその実績もある。これからの再演の試みに期待している。(でぐちいつへい/大阪芸術大学)

●樹霊がラフレシアに降りてきた/『耳水』柳井愛一
都市伝説に、アルカイックな語りの要素を持たせた形式の、いつもながらの楽市楽座の舞台。しかし今回は微妙な変化。これはちょっと注目に価する。余分なものが削ぎ落されていて、どうして彼らがこのシチュエーションをモチィーフにした作品にこだわり続けてきたのかがはっきりと見えてきた。そして、劇団のキャッチフレーズである“ゑんぎのサーカス”のサーカス的な部分を初めて個人的に楽しむことのできた記念碑的作品。
鏡板の老松の代わりに舞台後方に、樟の大木が鎮座している。樟の枝から神社の鰐口の紐のような鳴り物の付いた布が舞台の四方に垂らされている。野外円形劇場ラフレシアが大木に覆われていることが分かる。夜と樟に覆われた天井のない野外舞台。ロケーションはまず最高。
雑踏シーンからなし崩しに始まった舞台に紛れ込んできた男(西田政彦)が大した理由も無しに、その辺りに落ちていた鶴嘴で穴を掘り始める。どうやら廃ビルの中での出来事らしい。男を追いかけてきた女、ヒカル=クラシ(小室千恵)との会話で、女と喧嘩をした甲斐性なしの男がむしゃくしゃして意味もなく始めた行動だと分かる。男は塵芥と一緒に眠っていた物語まで掘り起こしてしまった。
夢とも現とも判別の着かない人々が闖入してくる。耳と口の不自由な老婆(北村チコ)、目の不自由な中年・ヒゲ男(雪之ダン)、巨大な女・マダム(南田吉信)や娼婦達が登場。彼らはこの時点ではまだ単なる頭のおかしなホームレスにしか見えないが、やがて暴力的な物語を語り出す、奇妙な、幽幻能の前シテ達だということが分かるだろう。
マダム達は突然男に襲いかかり、男の目や耳を奪い取る。ヒゲ男は目を、マダムは背骨を。しかし、老婆は耳を前にして躊躇する。-パントマイマー兼ギタリストの北村の演劇的でない芝居が印象的-。ヒカルはいつの間にか娼婦達の一員・クラシに変わっている。沈黙していた物語を再び始めるためには俗世的な身体を取り外すことが必要なのか、それとも畏しい大地母神の物語=供儀への捧げ物なのか、男は解体されてしまう。しかしここではまだ物語る口が登場していない。そして老婆が所有を保留した耳の所在も定かでない。
男の掘っていた穴から泥水が沁み出し、満ちてくる。マダムは泥水の溜まった穴にソープ・ランドのバスタブの様に浸かり、ヘルスセンターのジャグジーの様に寛ぐ。彼女?は娼婦達を観客に紹介し、幻を甦生させる。思い出に縋る初老のホームレスが曾ての女郎屋の女主人として甦える。南田の不明瞭な言葉が、何故か夜風の中で生き生きと輝ていた。 ここで口=詩人マルテ(佐野キリコ)が登場。老女が受け取るのを拒んだ耳=カタツムリ女=カタビラ(朧ギンカ)もやがて現れる。
マルテは吟遊詩人から語り部=口に変化していくことにより、その名前が指示する文学的な齟齬感を払拭することができた。-どこか垢抜けないバタ臭さが楽市楽座のウリなのかもしれないのだが-。カタビラ、巨大な貝殻=耳を背負って現れた女は語られる以前にナニカを聴いてしまう存在。口と耳が邂逅する時、幻の場所の記憶がやっと再生される。樟の枝に仕込まれたスプリンクラーから降り注ぐ雨の中での、文字通りの、濡れ場は妖しく魅惑的。-このシーン野外劇の醍醐味が満喫できる-。
当然のことながら、残酷で陳腐な日常が戻ってくる。目=ヒゲ男が登場し語られた物語の裏側を暴露する。視ることの残酷さ故にヒゲ男は盲目の放浪者として罰せられているのか?
カタツムリ女=カタビラは壊れてしまい、自らをヘビの化身だと主張する。娼婦達は巫女の様に舞台四方の鰐口?を鳴らす。語り部=マルテや巫女達=娼婦達の存在全てを受けて真のシャーマンとしての自己を主張する。ここで縄文のヘビ=神やドリームタイムの虹蛇=原初の創造神への回帰という作品のテーマが現れる。しかしそれは零落した神話、不可能な物語でしかない。かっての神話や芸能の様に語ることによってなにかを豊饒にし、救済することはできない。けれど語ることによって顕現するなにかがある。悪夢としてではなく、都市の底を流れる謎の水脈として語り続けられることを要求する物語。そんな水脈を楽市楽座はどうやら見つけたようだ。喝采。
ひとつの土地の持つ神話的な力を感じ、滅びた者達の幽けき声を聴く。そんな無謀な作業のために楽市楽座は悪戦苦闘を十数年間してきた。それを労って、樟の大木の樹霊が円形劇場ラフレシアに降りてきて、サーカス的祝祭を実現させた。と言ってしまえば彼らに叱られるか?。難を言えば、少し浪花節的なロマンが鼻に就くが、ま、サーカスはロマンティックなものだから、良しとしよう。
楽市楽座 作・演出/長山現中之島公園剣先広場・特設野外円形劇場ラフレシア・第四回大阪野外演劇フェスティバル参加作品、9月24日(金)所見(やない・あいいち/演劇ライター)

●ガラスの靴が砕けた後は—— 劇団青い鳥「シンデレラ・ファイナル」畑 律江
今さらだな、と思う人がいるかも知れない。それを承知で今一度、書き留めておこうと思う。80年代、女性たちの集団創作から生まれ、多くの小劇場ファンに支持された劇団青い鳥の「シンデレラ」である。今年9月、この作品が再び舞台に上った。82年に初演、85年に再演されて以来ずっと封印されてきたが、劇団が30周年を迎えたのを機に、実に19年ぶりに上演することになったという。しかし今回のタイトルは「シンデレラ・ファイナル(最終章)」である。なぜか。その理由が知りたくて、MIDシアターに足を運んだ。
骨格は同じだ。1人でアパートに住む哲子が、突然姿を消す。行方を捜すためにやって来た友人の考子が、哲子の部屋にあったぬか床をかき回すと1本のクギが抜け、なぜかそこにミステリーゾーンが現れる。その世界で、考子は哲子によく似たシンデレラに出会う。シンデレラはガラスの靴を大切にしていて、床を磨きながら「何か」を待っている。だが「あんまり長いこと待っていたものだから、それが何だかよくわからない」と言う。 アパートの一室とシンデレラの部屋、宮沢賢治の童話のカエルたちの世界、事件を捜査する刑事たちの部屋。これらを行き来する構成も同じ。だが大きく変わった点が一つある。
80年代のシンデレラは最後に、自分はみすぼらしいシンデレラなのだと舞踏会で正直に打ち明けるべきだったと話す。そして彼女がガラスの靴にまさに足を入れようとする、その瞬間で物語は終わる。だが、21世紀のシンデレラは違う。ガラスの靴を投げ捨ててしまうのだ。靴の破片は、きらきらと輝きながら世界中に散らばっていく。
誰かが探しに来るのを待つうちに、人生は刻々と過ぎてしまうんだよ。80年代のシンデレラは、そう告げた。ガラスの靴は「女性が自ら外に出て行く自由」の象徴とも解された。だが21世紀のシンデレラは、ガラスの靴自体を砕いてしまう。ガラスの靴さえあれば再び王子の待つ舞踏会へ自分から出かけられたのかも知れないのに、その可能性をも捨てる。誰かに依存する幸せそのものを捨てたのだ。彼女はもはやシンデレラではない。つまり、この最終章は「シンデレラ的なるもの」への、最後の決別のメッセージだったのだ。
自分は本当は何がしたいのか。何が欲しいのか。劇団青い鳥のテーマはよく「自分探し」だと言われた。役割に縛られ、他者の事情に振り回され、自分の中からわきあがる素直な欲望にさえ耳を傾けることができなかったかつての女性たちにとって、それは切実なテーマであった。だが現在はどうか。「自分探し」は当時の新鮮さを失いつつあり、今やそれは、失業やリストラで自分の居場所を見失いがちな中高年男性のテーマとしてよく語られる。そして若者の方はというと、その心の大部分を占めているのは「自分探し」よりむしろ、生きていくことへの不安のように見える。望んだところで世界は変わらない。そう考える若者も多い。
80年代、「シンデレラ」に感動した観客の多くは、「個人的なことは政治的だ」という発想——家庭や職場で起こる悩みは、個人的なもののように見えて、実は社会の権力構造と分かち難く結びついているという認識——を、大なり小なり共有していたように思う。だからこそ、自分の心の内側へ入っていくことは、同時に自分を取り巻く外部を考えることでもあり得たのだ。だが、たとえば精神科医の香山リカ氏が指摘しているように、最近の人々が「自分にかかわりのある身近な問題への関心のみに基づく実用主義(ネオリアリズム)」に急激に傾斜しているとするなら、「自分探し」も、「シンデレラ・ファイナル」が見せた潔い決別のメッセージも、かつてのような広がりを持っては受け止められにくいかも知れない。そんな思いにとらわれた。時代は、確かに変わってしまった。
だが、それならば「シンデレラ・ファイナル」に輝きを感じなかったというと、そうではない。むしろ、この劇団の表現手法の心地よさを、改めて発見することができた。女性の役者が男装したり、華やかに踊る若手小劇団など、今や少しも珍しくない。だがそれらが多くの場合、「あなたにこんなことができる?」と誇示する姿勢を感じさせるのに対し、青い鳥の演技やダンスには、「きっとあなたにもできるはず」と、見る者を静かに支え、立ち上がらせる優しさがある。楽しいが、媚びていない。優雅で、毅然としている。
劇団青い鳥は30年続いた。長く続けることが小劇場の目的だとは決して思わないが、それでも、しばらく芝居から離れていた人も含め、今回、初演メンバー3人が再び舞台に上がったことはやはり貴重だ。彼女らも観客も年齢を重ね、ガラスの靴はついに粉々になった。そして閉塞感の漂う2004年。粗末なアパートの一室から、裸足の哲子は再び歩き出したのだ。青い鳥の表現が、また新たな文脈を与えられて輝くことを期待したい。    (はた・りつえ/毎日新聞学芸部編集委員)

●光る男優陣の健闘 ——劇団大阪『日暮町風土記』——                       市川 明
永井愛は旬(しゅん)の作家だ。一日に2本彼女の作品を鑑賞することができた。昼に大阪労演で俳優座の『僕の東京日記』を、夜に劇団大阪の『日暮町風土記』を見た。『東京日記』のほうは71年の東京が舞台。学生運動が華やかだった時代を、アパートの住人の生活から垣間見させる。ジョーン・バエズやボブ・ディランの歌声もなつかしい。永井愛はなんと女性をうまく描いていることか。主人公は自立を求める大学生、原田満男(蔵本康文)なのだが、教育ママの母親(片山万由美)や下宿のおばさん(中村たつ)、生活と芸術の間を揺れ動く新劇女優(美苗)などが縦横に活躍する。おばさんたちを通して「神田川」のにおいがよみがえってくるのだ。
『日暮町風土記』はかつての繁栄の面影もない町が舞台。百四十年続いた本通りの菓子屋「大黒屋」が取り壊されようとしている。まず石野実の装置が目を引く。大きな柱を渡した木組みの家、格子戸から漏れる光と井戸。観客はまるでこの古い民家に座って芝居を見ているような感覚になる。
生活のために店を売り払い、国道沿いに新しい店舗をオープンしようとする清家夫妻。「日暮町の歴史を残す」家の解体に反対する「町並みくらぶ」のメンバー。開発か文化財の保護か、それはエコノミー(経済)かエコロジー(環境)かという常に問い直され、論争され続けてきた人類永遠のテーマである。だが永井はこの作品をシリアスな社会劇ではなく、庶民が織り成す喜劇として描いている。演出の熊本一も軽いタッチのラブコメディに仕上げている。すべての登場人物がどこかでカップルになっており、それが笑いの原点なのだ。
「町並みくらぶ」の代表、堀江波子(中村みどり)が大黒屋に直談判に押しかけるところから芝居は始まる。そこへカメラを抱えた旅行者の山倉(北尾利晴)が現れ、「ただものではない」この家を写真に収めたいというので、波子はいっそう発奮する。彼女は家の取り壊しを一ヶ月伸ばし、実測調査をさせてほしいと主の清家勝年(斉藤誠)に頼み込む。しっかり者の妻(和田幸子)と強引な波子の間をピンポン玉のように浮遊する勝年。彼はどうやら町役場のすみれ(名取由美子)とも恋仲らしく、二人の女性の間を揺れ動いている。斎藤誠が弱くてお人好しな主人公を好演している。この人物だけが古い家か新しい店かという葛藤を見せてくれる。
与えられた一週間という期間内に、家屋の間取り図を完成させようと「くらぶ」のメンバーが集まってくる。ミカン農家の不二男(高尾顕)や事務員の明日香(梅田優子)。明日香が恋する勝年の息子光太(中村暢宏)、明日香に思いを寄せる不二男の息子力也(熊谷次朗)などがからんで、日々の生活、この町の暮らしがさりげなく語られていく。旅行の日程を変更して町に残った一彦や、東京から駆けつけた波子の姪の涼(岡部紀子)らも加わり作業は続けられる。家への思いいれを断ち切れない勝年も姿を見せ、町や家の歴史・歳月が浮かび上がる。このあたりは永井愛の優れた作劇術を感じさせる。
やがて一彦の正体が明らかになる。建設会社のバリバリの営業マンで、古い木造建築を見つけては建て替えを勧め、町の再開発のために奔走してきたというのだ。最終場面は波子と一彦の会話である。波子は「あなたはここで別の心に、もう一つの自分に迷い込んだのだ」と慰める。一彦は「日暮町は開発に適さないと報告する」と言い残し去る。波子が「帰ってきなはいや!あんたは迷い子になったんじゃけん!」と呼びかけ、一彦の作業ノートを胸に押し当てるところで幕となる。それにしてもなんとセンチメンタルでメロドラマ的な幕切れだろう。ここまで歌い上げられるとどうも寒くなってしまうのだ。ブレヒトだったらまったく違う結末にしていたろうなとふと思った。
男優陣は勝年をはじめ全員が大健闘である。不二男を演じた高尾は素朴でひょうひょうとした味を出していたし、息子力也の熊谷も振られ役の青年の息遣いが感じられ、ともに大きな笑いを得ていた。これに対して女優陣はベテランの芸達者を揃えているが、パターン化され、誇張された人物になりがちだ。笑いのポイントが先に見えてしまい、笑いの振幅が狭められたのは残念だった。そんな中で梅田のストレートな演技が印象に残った。
この間数々の優れた作品・上演でヒットメーカーとして不動の地位を確立した永井だが、『日暮町』は作品としては弱いように感じる。作品にも人物にも大きな葛藤は見られず、みんなが古い家の解体という逃れられない運命を了解し、懐旧の情を述べ合うドラマのように思えるのだ。一彦の存在もお涙頂戴的な結末を引き出すためだけのように見える。作品の大きなテーマは後景に退き、庶民の生活臭だけが前面に出てくる。それはそれで見所があり、笑いもあるのだが、どこか物足りなさを感じてしまうのだ。[劇団大阪。谷町劇場、10月16日]               (いちかわ・あきら/大阪外国語大学教授、ドイツ演劇)
●売込隊ビーム「13のバチルス」知的パズルコメディという種類                                 藤原 央登 都市開発が進行するニュータウンそこの隔離シェルターが舞台である。シェルター体験として入ってきた男女。しばらくすると女性の一人(小山茜)が症状を訴える。まさかシェルター内にウイルスが侵入したのでは。誰が持ち込んだのか。ウイルス研究所の職員を交えてトリックと笑いと人間模様がひしめき合う。
コメディを主に上演する「売込隊ビーム」だが、今回の作品は今までとは同じように見えてちょっと違う。笑いの精度は上がったなという印象だ。もう少しストーリーを追っていくと、犯人探しをしている際中、突然、B(山田かつろう)が咳をしだす。芝居中なのに。役者の体調管理不足のせいだ。舞台袖でBは休憩を取り、また復帰する。すると、また違う役者も咳をしだしてしまう。そう、伝染してしまったのだ。咳をしているのは小山茜だけのはずが、いつしか役者全員に風邪がうつってしまう。舞台を中断し、舞台稽古の映像を流して、何とかその場をしのぐ。最後は、役者全員フラフラで無理矢理芝居を終わらせ、舞台監督の謝罪で舞台は終わる。
長くなってしまったが、役者たちは本当に風邪を引いていたわけではなく、それも芝居なのである。いわゆる二重構造の仕掛けになっている。
この「売込隊ビーム」や「ヨーロッパ企画」といった若い劇団の特徴としては知的パズルを取り込んだコメディと上演する事が多い。「ヨーロッパ企画」はずっとそのスタンスを続けている。その中に、「売込隊ビーム」が知的パズルコメディに参加した、といった方がいいかもしれない。
日本の現代演劇はその時代を代表する笑いの種類があった。70年代、つかこうへいを代表とするブラックユーモア、80年代、野田秀樹、鴻上尚史の疾走する軽やかな笑いといったのがそれである。彼らは決してただ単純に笑いという手法を採ったのではない。社会や風俗を半ばあきらめを持って見ていた。それゆえに批判する方法としてパロディ的な笑いを用いたのだと思う。パロディは、笑えば笑うほど、観客は虚無感を感じずにはおれない。なぜなら笑っていた対象はそっくりそのまま自分自身や、今の社会への批判となって帰ってくるからなのである。悲しみや真面目さをもって訴えるよりも、その方が、何倍にも生々しくリアルに世相を反映する写し鏡の効果を持っている。先人達はその事に気づいていたのかどうかは分からないが、70年代の政治の白熱した時代への「白け」ムードや80年代の終末感、絶望感といった世相もあって、抜群に支持されたのである。
それでは今現在はどうなのだろうか。笑いの部分で言えば明らかに頭打ちの状態であることは確かである。90年代「静かな演劇」といった言葉が使われた事によって、芝居の上演スタイルが派手さとは逆に、どんどん世界が縮小化した。その縮小化された世界から、世界へ発信されるメッセージを発するという上演スタイルが定着してしまった。笑いもそれほど過大にならず、添え物程度になってしまった。
それと、もう1つ、三谷幸喜の影響が大きいだろうと思う。彼によって、密室で起こる人間の刻々と変化していく心理と行動を描写するというシチュエーションコメディが同じく90年代に台頭する。三谷の劇世界も、縮小化されている。演出家の山田和也による「子供から老人にまで受け入れられるディズニーランドのような演劇」ということからも分かる。
この作品も典型的な三谷的コメディなのだが、知的パズルの要素があることによって、観客は、クイズをしているかのように楽しめる要素がある。いささか役者の演技が過剰なためおもしろいところが駄目になってしまったのは残念である。映像との対比を見せるアイデアはギャップがあればあるほど面白いので良かった。
開演前、後ろの女子高生が、友達に「今日風邪気味だから咳をしないように」と話していた。芝居の内容はおそらく知らないであろう。いざ本番になると、その人は我慢できずに何回か咳をしていた。面白いとはこういうことなのだと思う。偶然が偶然でなくなる時、この人の場合なら、咳をしてはいけない事をわが事の様に感じたはずである。そして、その事に気づいた私もすっかりこの世界にはまっていた。
今の時代、何事か積極的に事を起こすことが少なくなっている中、何かを向こうから仕掛けてもらうのを希望しているという事はないだろうか。わざわざ劇場に足を運んでいるのだから、楽しませて欲しいと思う観客が増えているような気がする。そういう観客は、こういうクイズ的な芝居はどう思うのだろうか。食い付くだろうか。食い付く行為すら面倒くさいと感じるのだろうか。犯人は「13のバチルス」の13を合わせたBというオチ。私は好きなのだが、どうなんだろう。(7月20日・HEPHALL) (ふじわら・ひさと/近畿大学文芸学部3回生)