act3号・後半

■時評・発言●大阪労演の活動から岡田文江
一九三七年、新劇の大衆化を目指して発足した新築地劇団の趣意書のなかに、「独立」した演劇運動を続けるには、観客の”会員制度を基礎とする、劇団の計画的経済樹立へ”という言葉があるという。
敗戦の年、一九四五年十二月に、中断されていた新劇公演が復活した。その翌年、予約会員制を目指した「FOT新劇友の会」が、文学座、俳優座の共通観客組織として誕生する。「自分たちの希望する演目を選び、自分たちの経営する劇団を支持、観劇する」という趣旨の、観客主体の組織を目指したが、戦後の猛烈なインフレのため、その仕事が緒につかないまま、一年余りで解散している。大阪での新劇公演は四六年六月から始まる。当初、朝日会館、毎日会館–今はない–、の昼夜二回の一週間公演、どの芝居にも、文化に飢えていた二万人の人たちが集まった。自立劇団の発表会も、一週間、朝から夜まで、満席の状況であった。
一九四八年、東京で、勤労者演劇共同組合が、新劇団協議会が中心になって発足。優秀演劇の共同観賞会–料金割引及び座席券の優先的獲得–、自立演劇への援助–講師の派遣–などの仕事を始めるが、1953年に解散する。
しかし、この時期、朝鮮戦争を前にしてのアメリカの占領政策の急転回、こうした状況の下で、私たちを取り巻いていたのは、相次ぐ大ストライキと弾圧、物価騰貴とインフレ政策による生活の苦しさ。観客は急激に減少してゆく。観客の減少は、現実に生きる観客と、劇団によって創り出される演劇の齟齬を語るものでもあった。このままでは、新劇が衰退してゆく。演劇公演を活発にするには、まず、観客を増やさなければならない。それも、出来得れば、決まった観客が、続けて観ることによって、経済的にも安定するし、内容的にも深く関われるのではないかというところから、広汎な、勤労者層を基盤とした、会員制の観賞組織なるものが考えられた。機関誌一号の見出しは、「労演–演劇を守り育てる組織」である。「演劇を正しく発展させるためには、単に、創造者だけの解決の努力だけでは不充分である。新劇・自立劇団が正しく発展するには、当然、観賞組織との交流がなされなければならない」と。参画したのは、新劇人協会、関西自立劇団協議会、そして、戦前からの劇団後援会、新劇愛好者たちである。会費は月70円、毎月一回芝居を観る、10名以上のサークルつくり加盟する。世話役1名を選び、月1回会議を開いて全てを協議する。そんな取り決めで仕事が始まった。発足時の会員数は1500名。そして、50余年–。
しかし、時代の流れに抗しての出発であるので、当然、すぐ様々な困難にぶつかる。50年代初頭、レッドパージ旋風によるサークルの壊滅、50年5月再組織して500名で再出発となる。実際、混沌とした時代であった。下山事件、三鷹事件、松川事件、物価騰貴は続く。その頃、東京の新劇団公演は朝日、毎日新聞事業団主催だったので、その内の何回かを買い取る形だったが、それが年四・五回、月一回の例会の取り決めでは、残りは独自に組み立てねばならない。それには5000名の会員が必要になる。会員を増やそうと呼びかけても思うようにはゆかない。やっと拡大に向かったのは、「もはや、戦後ではない」という言葉が巷に見え始めた55年頃、爾来、順調に増え続けた会員数は、「所得倍増計画」なるものの影響を受けた六五年、24000名に達する。それを頂点に、徐々に減少傾向へ。70年代に入って、大劇団の分裂、若者劇団の台頭、価値観の多様化の流れのなかで、会員数は急速に減少。80年代、経済優先、総財テク化、演劇の世界も例外でなく、さまざまな形態、場所での公演が華やかに展開される。私たちの例会にも、新しい劇団、演劇座、泉座、早稲田小劇場、冥の会、睦月の会、五月舎、木六会、四季、立動舎、文楽と歌舞伎による”恋飛脚大和往来”といった演目もある。
くだくだしくなるので、この辺で打ち切るとして、振り返れば、私たちの50年は、政治・経済・社会・文化情況の流れのなかを漂いながら、何とか、発足の初志を貫きたいと、模索を続ける年月であったといえないだろうか。
演劇を愛する多くの人たちの協力と努力に関わらず、仕事は必ずしも順調に進んだとはいえないが、月一回の例会は50年間、続けられてきたし、或いは、労演主催でないと実現できなかった公演も、数々みられる。
因に、10周年の感想は”ほのぼのとした希望”であった。20年は自己変革、30年は観劇は”無用の用”であった。発足時、「労演の会員がせめて30代になれば」と劇団を嘆かせた現在の平均年齢は50歳後半、今、再び、若者が期待される、50年である。(岡田文江/大阪労演事務局長)

●365日の文化事業に向けてKyoto演劇フェスティバル、25年の軌跡と今後椋平淳
「演者」「戯曲」「観客」を演劇の3要素とする見方からすれば、必ずしも「劇場」は、演劇という営みが成立するための必須要件ではない。けれども、20世紀後半から今日まで、日本各地の自治体で幕を上げた「演劇祭」という催しについていえば、多くの場合、「公立ホール」というハードが前提となって初めて出現した演劇的ソフトだといえよう。高度成長期以降、バブルの終焉を経てもなお建設されつづける公立文化施設は、現在では全国で2,000館をはるかに超える。行政側にとって、施設の稼働率を数日から月単位で高める「演劇祭」は、‘箱物行政’に対する社会的批判を和らげるだけでなく、地域に対する文化施策の推進という行政上の評価を得る手段となる。一方、演じる側にとっても、自主公演よりもおおむね安価で芝居を打つ機会が得られたり、新たな観客の獲得や、さらなる創造に向けた交流の場となりうる。両者の思惑が一致するところに、「公立ホール」を主会場として、自治体主催の「演劇祭」が漠々と立案されていったのだ。
京都府などが主催するKyoto演劇フェスティバル(通称「演フェス」)も、京都府立文化芸術会館という公立ホールを拠点とする。会館のオープンが1970年、そしてフェスティバルの創設は1979年。「発表と交流の場を提供」し、京都における「創造活動に寄与」するという会館の設置趣旨を体現する形で、演フェスは毎年2月、このホールを舞台として催され、自治体関係の演劇祭としては今日までに全国有数の開催回数を重ねている。
もちろん、単年度予算が基本の自治体において、一つの事業が25年にわたって継続するには、時流に応じた企画や運営方法の改革が不可欠である。創設当初の演フェスは「公募プログラム」のみで実施され、全団体によるコンクール形式をとっていた。単一プログラムのなかに児童・青少年向きの演劇から一般成人対象の舞台まで、観客設定の異なる作品が混在していたため、第12回からは「児童・青少年部門」と「一般部門」に分割され、部門別に大賞を競う形式へと変更された。その後さらに、新参の劇団数が増加するにつれて、脚本賞や観客審査員賞など、大賞以外の各賞を再整備し、参加団体への励みとした。その成果か、徐々に上演内容も充実し、この時期の受賞者には、一般部門の大賞として「劇団八時半」(第16回)や「劇団パノラマ☆アワー」(第19回)、脚本賞に鈴江俊郎(第14・16回)や山岡徳貴子(第18回)、児童・青少年部門の大賞として人形劇の「ミニシアターまる」(第17回)など、後に全国的に活躍する面々が名を連ねている。一時、中堅劇団の参加が滞る時期もあったが、府内の劇団に対する演フェスの浸透や、こうした若き実力者たちと同じ舞台を踏めることが呼び水となり、開催規模は少しずつ拡大していった。
しかしながら、規模の拡大はやがて、会館職員を中心とする当時の運営組織を窮地に追い込んだのも事実だった。そのため第20回からは、民間の若手演劇関係者を中心に機動的な運営委員会を新たに設置し、企画立案と運営実務を会館と共同で行うことになった。この“民活”による運営方法の改良を機に、演フェスは大きく転換する。参加団体総出でフェスティバル本来の祝祭性を高めるため、基幹の「公募プログラム」は従来のコンクール形式を廃止。代わりに、将来有望な若手演劇人の舞台成果を競うコンクール部門「Kyoto演劇大賞」(第22・24回)を独立させた。加えて、プログラムの多彩性を求めて新たに導入されたのが、公募によらず府内実力劇団・中堅劇団をピックアップした「実行委員会企画」(第20・21回)や、一般府民参加型の合同創作劇「創造公演プログラム」(第23・25回)など。同時に、幕間の会場を盛り上げる一種のフリンジ「ロビー・プログラム」(第20回〜)と、人材育成に向けて中学・高校演劇コンテストの優秀校を招く「招待公演」(第20回〜)を恒常化した。一方、舞台の外では、俳優や舞台スタッフの技術向上・古典芸能の実演体験・学校演劇指導者育成に関する各種ワークショップや、演劇史の講座なども、「プレイベント」(第20回〜)として毎年メニューを変えながら開催している。さらに近年は、「サポーター派遣」(第24回〜)と称し、本番の数ヶ月前から、府内各地の参加団体稽古場までアドバイザーが出向くアウトリーチ活動にも着手している。
確かに、参加劇団の多くがアマチュアのため、演フェス本番公演の水準については批判を甘受すべき余地がある。そのため今回、近畿一円の実力劇団を選りすぐって集結させるべく、コンクール部門を「新・Kyoto演劇大賞」(仮称)に刷新した(第26回以降隔年予定)。この企画は、これまであまり手が回らなかった観客の開拓も視野に入れる。元々貸し館である文化芸術会館の機能も加えれば、おそらくこれで、自治体が提供できる演劇関連の事業として、基本的な企画はほとんど網羅しているといえよう。
近年、本番開催中はもとより、年間を通してなんらかの演フェス関連行事が常に催され、会館に立ち寄る演劇創造者や愛好家が絶えることはない。すでに演フェスは、単に年に一度のイベントという「演劇祭」の域を超え、会館を拠点とする日常的で永続的な文化事業に変容しつつある。これが実を結び、また、その過程で蓄積される企画運営ノウハウが事業モデルとしてさらに精度を高めるなら、「公共ホール」を舞台として各地で繰り広げられる「演劇祭」や、「公共ホール」のあり方自体にも、新たな刺激を提供できるにちがいない。(むくひら・あつし/Kyoto演劇フェスティバル運営委員長・大阪工業大学)

●演劇の教育と俳優の養成 (3)菊川 徳之助
わが国には国立の演劇学校も俳優養成機関も設置されていないため、演技のレベルが他国より低く、魅力ある俳優も生まれない、という演劇関係者からの呟きがある。劇団の付属養成所や小規模の俳優学校の教育に頼らざるを得ない現状では、施設や講師陣の環境を十二分に整えることは難しいでことであろう。かつては、劇団俳優座の養成所から幾多の俳優が生まれ、幾多のスタジオ劇団がつくられ、新劇界の環境が活性化された時代があったが、一九六〇年代以降の演劇環境が、演劇表現それ自体と共に俳優の演技をも混沌とした状況の中に追いやって行ったためか、多種多様の、ナンデモありのカオスの状況に現在はあると言えようか。勿論、アングラ・小劇場演劇という新しい演劇の出現があったのは確かであるし、そして、受身の俳優の肉体ではなく、血が漲り躍動する肉体を求める俳優の出現もあったが、21世紀に来て混沌は質を変えながらも深みへ入って行っているようだ。それでも、俳優の養成機関については、今という時を見つめて、真剣に深刻に、心ある人は考え始めている。新国立劇場でも俳優養成のための試験的な試みが最近なされていた。
現況を深く考えれば、学校教育の中に演劇教育を入れる必要性を強く感じる。だが、現状は気の遠くなるような状況ではある。
周辺に眼を向ければ、例えば、高校の先生が学校で生徒に教えるためには、教員資格、つまり教員免許なるもの——教職が必要である。が、教職課程を修めて先生になる制度の中には、<演劇>の教員免許は無いのである。幼稚園や小学校などの教員を養成している大学である教育大学においても、音楽や美術などの教員養成課程はあっても、演劇に関係するものは設置されていない。また、私の勤務する大学においても、文芸学部という中に、文学科(英語英米文学専攻、日本文学専攻)、文化学科、芸術学科(演劇芸能専攻、造形芸術専攻)とあるが、これらの専攻の中で教職課程がない専攻は一つだけである。それが演劇なのである。他大学で演劇専攻の中に教職のある大学はある。しかし、その免許の種類は、国語の免許が主なものである。高校以下に演劇の授業を設置したくても、ドラマティチャーが存在しないのである。それ故、演劇科を設置していても、専任の演劇担当教諭は居らず、非常勤の先生で補われるということになる。
幸いにしてというのか、大学の先生は無免許で教授になれる。大学の先生の資格は、本人の教養力や教育力を学問(専門分野)の業績でみることになっている。ところが、演劇大学がないのだから、演劇教育の業績を持った先生候補者はほとんどいない。学問的に業績のある人は少しいても、実践的に(実技を)教えられる人は皆無に近い。この十年あまりマスコミにも話題として大きく取り上げられたことであるが、演劇専攻を設置する大学に、現場の演劇人、多くは現役の劇作家や演出家が続々と大学の教員に採用されていった。専門分野の業績は充分ある人たちであるが、学問・教育には必ずしも業績と実績があるわけではない。ただ、近年は劇作家、演出者、劇団のリーダーを兼ねている人が多いから、結構指導力はある。学生も現場の演出者などに身近に触れ、指導を受けられるのであるから、授業の充実感は少なからずあるだろう。
しかし、演劇人と教育者という二重の立場がうまく融合できるかどうか——個人差があるとしても——という問題もある。それよりも、現場から迎えられた人が、大学の教育に時間を取られて、現場の仕事が出来にくくなる。大学は一人の優秀な演出家の才能を現場から奪ってしまう結果を招くこともある。演劇教育をする大学の教員像とはいかような姿を持ったものが理想なのか、を追い求める必要があるであろうし、また、教員の養成をする教育大学に何故に演劇教員を養成する教育課程が設置されないのか、文部科学省に問いかけることも必要であろうが、国立の演劇大学が存在しないこと、国立劇場に俳優養成機関がないこと自体に驚きをおぼえなければならないだろう。しかし、演劇とは、もともと、制度の外にあるものであり、ハングリー精神こそ演劇芸術を育てるエネルギーの源であるという考え方に立てば、大学のような教育機関は余分なものであるということになる。ましてや、高い授業料の払える選ばれた学生だけが行けるような場所(大学)では、演劇を欲する人間がある範囲に限られてしますという危険性がある。俳優養成はやはり劇団付属の養成所などに任せた方がよいということになりそうである。が、大学は広く学問が出来る環境にあり、ただ専門的な俳優の技術のみをマスターするのではなく、教養を見に付け、語学や外国文化を学び、人間としての深い知力を養い、培える上で演劇の知を獲得できる場所である。真の心深い人間を描き出せる俳優なり演劇人を育成出来るのは、大学の演劇教育が最適に思われるのだが、・・・だが、大学の演劇教育にも問題はまだまだ山済みにある。 (きくかわ・とくのすけ 近畿大学演劇専攻教授)

■海外演劇紹介●三代目の北京人芸『雷雨』瀬戸宏 北京人民芸術劇院が今年曹禺『雷雨』を再演した。1954年の初演以来三代目になる『雷雨』上演である。報道によれば、7月22日から上演が始まっている。私はこの夏も北京を訪ね、8月7日にこの『雷雨』を観ることができた。満席ではなかったが、約八割の入りで、北京人芸『雷雨』が今日も一定の観客吸引力をもっていることがみてとれた。
1934年発表の『雷雨』は、周家という裕福だが封建的要素が色濃く残る資本家家庭の崩壊を描いている。ある夏の日の午前から劇が始まり、劇の進行過程で周家をめぐるさまざまの問題がしだいに明らかになっていく。そしてその日の深夜、劇の最後で矛盾が爆発し登場人物のうち三人が死に二人が発狂するという悲劇で幕がおりる。イプセンに代表される近代劇と同質の作品である。『雷雨』は中国話劇の成熟を示す指標的作品として扱われ、今日まで上演回数が最も多い劇でもある。
北京人民芸術劇院は1954年に『雷雨』を初演している。演出は夏淳。夏淳演出の特徴は、登場人物の個性の表現に重点を置き、写実に徹したことである。舞台装置は1920年代の資本家や下層庶民の家庭を忠実に再現したものを用い、照明・効果音も自然状態に近い。中国の話劇によくある劇のクライマックスで情緒的な音楽が流れたり原色の派手な照明があたったりするあざとさは、この夏淳演出『雷雨』にはない。演出家の自己主張を抑え、戯曲の内容を忠実に舞台で再現しようとする演出手法の典型的な例である。 この『雷雨』上演は成功し、以来北京人芸は夏淳演出によって『雷雨』を上演し続けている。夏淳演出『雷雨』は、老舎『茶館』(焦菊隠演出)とともに北京人芸の上演風格形成に重要な役割を果たした。1979年5月の『雷雨』再演は、文革終結直後の名作劇上演の最も早い例の一つとなった。しかし、この時の俳優は基本的に一九五四年以来の俳優が演じていた。二代目の『雷雨』上演は1989年10月で、俳優が一新している。夏淳は1996年に逝去したが、北京人芸はその後も夏淳演出による『雷雨』上演を続けている。そして、2004年が『雷雨』発表70周年、北京人芸『雷雨』上演50周年にあたるため、北京人芸は再び俳優を一新して『雷雨』を上演することにしたのである。今回も演出は夏淳とされ、顧威が再演演出としてプログラムに名を連ねている。
今回の三代目『雷雨』上演の意義はどこにあるのか。
まず、北京人芸という劇団が五十年前の演出スタイルを基本的に保持し、今後もそれに従って『雷雨』上演を続けることを宣言したことである。これは、北京人芸が自己の上演伝統を今後も保持し続けるという宣言でもある。日本演劇界では、一人の俳優が同一演目を上演し続けることは、森光子『放浪記』などいくつか例があるが、代を越えての同一演目、同一演出上演は文学座『女の一生』しか思い浮かばない。中国話劇界でも極めて珍しい。北京人芸では、同じ例として老舎作、焦菊隠演出『茶館』があったが、1999年の首都劇場リニューアルオープンを機に演出家が林兆華に変わり、演出処理も当然変化している。
もう一つは、現在の中国演劇界は八十年代の実験演劇以来さまざまな手法の上演がおこなわれているが、その中で純写実による「伝統話劇」上演をおこなう意義である。私は、中国の一部の演劇人がいまだに持ち続けている話劇がすべてという発想には同意しないが、逆に話劇の伝統を完全に放棄してもいいとも思わない。伝統があるからこそ、実験が可能になるのである。北京人芸は今日中国最高の劇団という栄誉を獲得しているが、それはこの「伝統」の存在と不可分であると思われる。
もっとも、夏淳演出踏襲といっても、細部の手直しは夏淳健在中から行われてきた。今回は、開演直前や休憩時間に雷鳴の効果音を流し、幕切れを一人立ちすくむファンイーの姿で終わらせた。これは、ファンイーを演じたのが第二代からただ一人残ったコン麗君であることとも関係があろうが、まるでファンイーが主人公のようになった。第二代『雷雨』では自殺する周萍のピストルの音を聞いて皆が駆けだし無人の舞台で終わらせ、第一代では一人呆然とソファに崩れ落ちる家長の周朴園の姿で終わっていた。資本家家庭の崩壊としてみれば、第一代の処理が最もよく、ファンイーが主人公というのは、劇構造からいってやや無理があると思う。
率直に言って、私が観た日の上演成果は決して理想的なものではなかった。特に魯貴(王大年)、四鳳(白薈)、侍萍(王斑)がよくない。まだ俳優が不慣れなのか、別の原因があるのか。純粋な話劇、近代劇上演であるこの北京人芸『雷雨』は、今日の中国演劇界で貴重である。今後、より練り上げた舞台を作ってほしい。
(せと・ひろし/摂南大学・演劇評論・中国現代演劇研究)*カタカナ人名は活字版では漢字だが、ネット上で示せないためカタカナで代用

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●編集後記 『あくと』3号をお届けする。非会員の岡田文江、椋平淳両氏からは、大阪労演、京都演劇フェスティバルについての貴重な原稿をいただいた。すでに記したように、『あくと』は二号以降は、発行後まず目次をAICT日本センターのサイトに掲載し、少し間を置いてから本文全文を掲載している。サイトにはアクセス解析機能があって、どのページに一日何人アクセスしたかがわかるのだが、『あくと』は連日コンスタントにアクセス数を確保している。六月一日のサイト再開と同時に全文掲載した創刊号の読者はすでに千人近くに達し、現在もアクセスがやまない。『あくと』に対する関心の強さをみる思いがした。 今号は、藤原央登氏の投稿劇評を掲載することができた。近畿大学三年在学中という。私と市川明支部長が目を通し掲載を決定した。『あくと』は、新しい批評才能も積極的に応援していくので、関心のある人は別項の投稿規定に基づき力作を寄せていただきたい。 私事だが、元新宿梁山泊・金久美子氏の急逝に衝撃を受けた。日本小劇場演劇系初の中国公演となった『人魚伝説』上海公演でのジェニーが今も目に浮かぶ。一昨年近鉄小劇場での扉座『ハムレット』にガートルートで出演し好演していたのが、私の観た最後の舞台になってしまった。もっと活躍してほしい人が突然いなくなってしまうのは、なんとしても哀しい。(瀬戸宏)