act8号

●巻頭言
九鬼葉子 挑発的な問題提起を受けて[II]
●劇評
太田耕人 サブテクストを活かす
一深津篤史・演出『動員挿話』-
市川 明 『ダモイ』(帰還)
一友情が運んだ遺書-
松本和也 斬新な舞台表現、あるいは実験劇の臨界
一地点[Jericho]・『沈黙と光』-
中西理 個性の同時多発的展開
一KIKIKIKIKIKI 『プロポーズ』-
星野明彦 福岡女性劇団の暴挙
–座’・K2T3 『カズオ』-
●時評・発言
藤井康生 ドラマチック演劇の復権
菊川徳之助 演劇の教育と俳優の養成(7)
瀬戸宏 第33回大阪新劇フェスティバルから感じたこと
●演劇書評
林公子 戦後関西歌舞伎史
一権藤芳一『上方歌舞伎の風景」-
●雑報

 

PDF版をダウンロード>>

act7号

●巻頭言
九鬼葉子 挑発的な問題提起を受けて?
●劇評
市川 明  死のフーガ-『釈迦内柩唄』(しゃかないひつぎうた)-
柳井愛一 ペットボトルに思い出を詰めて鴉は空を舞う
-浪花グランドロマン『激情都市〜Song of Brds〜』-
正木喜勝 遊女・宮城野はどうあるべきか
-「宮城野プロデュース」の上演をみて-
松本和也 シャドウ・ベースボールとしての会話劇
一桃園会『paradise lost,lost 〜うちやまつり後日譚』
中西理  千日前青空ダンス倶楽部『夏の器 総集編』
●時評・発言
瀬戸宏  劇団大阪の『スピリッツ・プレイ』から考えたこと
椋平淳  「地域」演劇の地平
松尾忠雄 追悼 秋浜悟史先生の魅力一舞台人としての魅力
●海外演劇紹介
根岸理子 ロンドンの舞台- 『メアリー・スチュワート』-
●編集後記

 

PDF版をダウンロード>>

シアタークリティック・ナウ’05「演劇史の再考 田中千禾夫をめぐって」

シアタークリティック・ナウ’05

シンポジウム「演劇史の再考 田中千禾夫をめぐって」

2005年10月30日(日)夜6時30分開始
世田谷パブリックシアター・シアタートラム 料金 500円

本年度の第10回FAICT賞」受賞作品『祈りの懸け橋一評伝田中千禾夫』をめぐって、「演劇史の再考」をテーマにシンポジウムを開催します。著者の石澤秀二氏は、AICT前々会長であり、演出家としても活躍されていますが、演劇雑誌「新劇」の編集長も長年務められてきました。この著書の中には、そうした著者の多様な活動範囲が包み込まれています。
そこでこのシンポジウムでは、劇作家田中干禾夫に言及するとともに、彼を取り巻く近代演劇の巨人たちならびに近代演劇史についても言及したいと思います。

パネリスト石澤秀二(受賞者)
別役 実(劇作家)
渡辺美佐子(女優)
今村忠純(大妻女子大学教授・日本近代文学)
司  会 西堂行人(演劇評論家)

田中千禾夫(劇作家1905〜1995長崎生まれ1937年の文学座の創立に参加し、51年から俳優座。55年、『教育』ほかで読売文学賞受賞。59年『マリアの首』で芸術選奨受賞。66年より桐朋学園大学教授。代表作に『雲の涯』、『教育」、『千鳥』、『肥前風土記』、『おふくろ』、『三ちゃんと梨枝』ほか。

受賞者=石澤秀二 演劇評論・演出家。19.30年生。早大大学院演劇専攻修士課程終了。「新劇」編集長・桐朋学園短大演劇科教授・日本演劇学会理事・青年座文芸部長・日本演出者協会一理市長・AICT日本センター会長・BeSeTo演劇祭日本委員会会長・日韓演劇交流センター初代会長を歴任。現在は(財)舞台芸術財団演劇人会議理事・BeSeTo演劇祭日本委員会顧問。青年座文芸部に所属。

主催=国際演劇評論家協会(AICT)日本センター
財団法人せたがや文化財団
協力 世田谷パブリックシアター
問い合わせ= 090-2633-4258 (担当:川口)

第一部 午後六時半
第10回AICT賞受賞式
受賞作
石澤秀二『祈りの懸け橋-評伝田中千禾夫』

第9回シアターアーツ賞受賞式
受賞作
塚本知佳「『処女』の喪失と維持-『終わりよければすべてよし』におけるセクシュアリティの力学」
佳作
長岡彩子「何が歌舞伎か-串田版と野田版の『夏祭浪花鑑』
森井フスミ「救済という絶望-サラ・ケイン『渇望』を中心に

第二部 午後七時半
記念シンポジウム「演劇史の再考-田中千禾夫をめぐって」

IATCシンポジウム・プレゼンテーションのご案内

■巻頭言
統計に憂える
太田耕人
『演劇年鑑2005』に、地域別に2004年の上演回数が整理されている。際立つのは全国の上演回数30620のうち、東京が20,674(67.5%)を占めていることだ。
いや、東京の一人勝ちはつとに知られたことではある。ただしここ数年、東京への一極集中がさらに加速している。2002年の66.2%から1.3%伸び、実数では2000回近くも上演回数が増えた。東京から地方への巡演(歌舞伎・ミュージカル・商業演劇)も、1191(4.2%)→1709(5.6%)と増加している。

それに比して、大阪・京都は凋落し、2年前の上演回数を大きく割り込んだ。大阪が3,790(13.4%)→3,082(10.1%)、京都は716(2.5%)→566(1.8%)。かたや全国での総上演回数は、28262(02年)から30620(04年)へと伸びているのだ。
ちなみに分野別では、小劇場を中心とした現代演劇が、圧倒的に多い。2004年の上演回数は、現代演劇21,540(70.4%)、商業演劇3,914(12.8%)、ミュージカル3,000(9.8%)、歌舞伎1,758(5.7%)、文楽408(1.3%)。

ところが地域と分野を総合すると、喜んではいられない結果がでてくる。たしかに東京では、他のジャンル(歌舞伎・文楽・商業演劇)を合計した約4倍の上演回数を、現代演劇は誇っている。しかし大阪・京都では、現代演劇はその他のジャンルの総計とほぼ同数しか上演されていない。この数字をみるかぎり、関西は東京ほど現代演劇が盛んでないことになる。
関西の現代演劇の芸術的レベルが低くないことは誰の眼にもあきらかだろう。しかしメディアとの連携、ロングラン公演への取組みなど、観客のほうを向いた努力は大きく立ち後れている。人気タレントの客演があってもよいし、小劇場の劇作家や俳優をもっとTVや映画に積極的に売り込んでもよい。

タレントを客演させてまで観客動員はいりません、と頑なに考えるのは、あえて挑発的にいえば、クラブ活動の延長にすぎない。そう思う人がいるのは分る(じつはそうした人をわたしは愛する)が、劇団の主宰や制作はそれではいけないのではないか。芸術的成功も興行的成功も実現するのが、かれらの仕事のはずである。そういう人材が輩出しなければ、関西演劇の活性化はむずかしい。
OMSをはじめ数々の劇場の閉鎖は、私たちを打ちのめしそうになった。難解でも優れていれば、観客が集るというのは幻想だった。そして観客が来なければ、確実に演劇は衰退する。この現実を直視することが、いま必要ではないだろうか。
(おおた・こうじん/演劇批評家・京都教育大学教授)

■劇評
●迷子と唄-新国立劇場制作『その河をこえて、五月』
出口逸平

芝居のちょうど中程、在日韓国人の朴高男は「なんか変だな、今日は」と、恋人につぶやく。「みんな迷子になって、探しまわってるでしょ」。たしかに桜満開のこのソウル漢江沿いの公園には、迷子が数多く出没する。老母クッダンは次男夫婦にはぐれ、語学学校の仲間にいびられた林田は不意に姿を消し、新婚旅行中に奥さんに置いてけぼりを食った観光客桜井は助けを求めてあらわれ、果ては迷子探しのアナウンスが何度も流されるといった具合に。
さらにここでは迷子が、「自分がだれだか、わからなくなっちゃった」アイデンティティ-の動揺という比喩的な意味を帯びて描かれる。たとえば日本と韓国の狭間にいる在日韓国人、学校になじめず韓国にまで「逃避」してきた青年、韓国を捨てカナダに移住する次男夫婦、そしてそれを知ったクッダンの次のような嘆きが「迷子」の広がりを示している。

クッダン この嫁の赤ん坊が大きくなるころには、どこの国の人間かなんて、悩まな くなるの?
佐々木 さぁ、どうなんでしょう?
クッダン だって、そうしたら、うちの孫は、何人になるの?(略)私は、日本人だ って言われたよ、国民学校に入ったら、おまえは朝鮮人だけど、皇国臣民だから、 一生懸命勉強して、立派な日本人になれって言われたよ…。その言葉の意味がね、 よく判らなかった。だって、私は朝鮮人だもの。

これを日本批判の文脈だけで読むのは正しくないだろう。事情は異なれ、「迷子」の状況はいまや日韓共通の課題なのだから。
しかも迷子であることが、哀しくつらい体験だとは限らない。むしろはぐれることによって新たな出会いが生まれる。たとえばクッダンは韓国生まれの主婦佐々木を知り、「私と思い出が同じ」と「昔のお友達」のように語り合う。これは本作のもうひとつのテーマ、コミュニケーションの問題に通じている。もちろんそれも「異文化交流」などという題目通りには進まない。

林田 (韓)韓国語、好きです。面白いです。
クッダン (韓)面白い? (日)私は、日本語、面白くなかったよ。(略)
佐々木 面白い、好き。ごめんなさい。でも、面白い。

こうして語学学校の日本人たちと韓国人家族とは、日本語と韓国語の飛び交う中で行き違いやいさかいを繰り返しながら、互いの距離を少し縮める。そのコミュニケーションの手段は、必ずしも会話とは限らない。たとえばクッダンの唄う「浜辺の歌」。思えば『ソウル市民1919』(2000年)の「霧の滴」や「東京節」、『上野動物園再々々襲撃』(2001年)の「月の砂漠」のように、最近の平田オリザはじつに印象的に「唄」を用いている。ここでも「唄」は理解というより共感の想いで、佐々木たち、そして観客を包み込む。このような反発と理解・共感のプロセスをさりげなく、しかも周到に構成した台本のバランス感覚はやはり見事というほかはない。次男の嫁がクッダンに語る「木には根っ子があって、太い幹があって、枝が伸びれば空にも出会い、風にも出会う」の台詞は、まさにアイデンティティ(根・幹)とコミュニケーション(空・風)という2つのテーマの融合を物語る「名文句」だろう。

この「問題劇らしからぬ問題劇」の教科書的まっとうさに、物足りなさを感じない訳ではない。しかし本作は、作品のテーマがそのまま共同執筆、キャスト・スタッフでの共演、共同演出、日韓上演という形で実践されるという、稀有な演劇的事件であった。その意義と成果は十分に賞賛に値する。クッダン役の白星姫の凛としたたたずまいと、佐々木役の三田和代の受けの演技は対を成して、アンサンブルの核となっていた。照明(小笠原純)も風や雲のゆるやかな流れを感じさせた。 <戯曲の引用は「悲劇喜劇」2005年7月号による>
作=平田オリザ/金明和  演出=李炳2006-03-01 02:01:22″

act6号

●巻頭言
太田耕人 統計に憂える
●劇評
出口逸平  迷子と唄一新国立劇場制作『その河をこえて、五月』-
中西理   永遠なる未完成に向かって-CRUSTACEAの「GARDEN.——
イズミヤリュウヘイ 演劇村からの脱出のために-「LONG MAY YOU RUN. –
市川明   『新編・吾輩は猫である』
一三つのディメンションが織りなす男と女の世界一
星野明彦  博多のど真ん中にある小劇場から
●時評・発言
菊川徳之助 演劇の教育と俳優の養成(6)
●海外演劇紹介
根岸理子 ロンドンの舞台Kneehigh Theatre 「トリスタンとイゾルデ」
●演劇書評
瀬戸宏 宮川龍太郎著『近鉄劇場終演まで』を読む
永田靖 瀬戸宏著『中国話劇成立史研究』(東方書店)
●編集後記

act5号

●巻頭言  太田耕人
●劇評
中西理 狂気を内に抱える-WI’RE「CROSS2(⇔)」
粟田イ尚右 <さりげなさ>の中に潜む、その怖さ-舞台創造集団りゃんめんにゅーろん- み群杏子・作『ひめごと』
市川明 二人芝居の魅力——笑いと涙『父と暮らせば』——
柳井愛一 終わらない昭和の物語。死者をして語らせよ!——くじら企画『サヨナフ』
正木喜勝 妹と核兵器、ダンスホールと核戦争 ??ニットキャップシアター『美脚ルノ アール』??
●時評・発言
林公子 教養としての伝統芸能
堀江ひろゆき 「劇評シリーズ」を取り組んで
菊川徳之助  演劇の教育と俳優の養成(5)
●海外演劇紹介
永田靖 夢の回廊-頼聲川演出、表演工作坊『如夢之夢』を見る
●編集後記ほか
瀬戸宏

act5号

■巻頭言
海外に出る現代演劇
太田 耕人
昨年9月にソウルで演じられた松田正隆『海と日傘』(アルングジ小劇場)が、第41回東亞日報演劇賞・作品賞を受けた。前年に京都芸術センターで上演された同作韓国版と同じく、ソン・ソノが翻訳・演出。二千人の観客を集めた。
平田オリザは韓国で『ソウル市民』や『その河をこえて、五月』で名を馳せるが、フランスでも翻訳され、評価が高い。『東京ノート』が 2000年にパリ(フレデリック・フィスバック演出)で19日間公演された。ロシアでは三谷幸喜『笑の大学』が人気だ。99年夏、オムスクでの上演を機に、今年はサマラやモスクワ、ベラルーシのミンスクでも演じられている。

翻訳上演だけではない。青年団は03年10月、『東京ノート』をパリ日本文化センターで字幕上演した。燐光群は今年1月末から2月中旬、坂手洋二『屋根裏』(字幕)でニューヨーク、マイマミ、ピッツバーグを巡演。『神々の国の首都98』以来の米国公演を果たした。宮本亜門は日本語の『太平洋序曲』を02年、NYのリンカーンセンターとワシントンDCのケネディ・センターに掛けたが、昨秋から今年2月にかけて、今度は同作の原語上演をブロードウェイ(Studio 54)で演出した。
かつて演劇の海外進出は、ごく例外的な出来事だった。それが一般化しつつある。ことばの制約があるから国境を越えるのはムリ、というのは迷信だった。だいたい、日本では外国演劇が翻訳や字幕で演じられ、外国人演出家も活躍しているではないか?日本の現代演劇は、海外戯曲のみならずカフカやマルケスなど現代文学の養分も吸収して、世界の第一線にある。加えて、日本劇作家協会が『現代日本の劇作・英語版』を刊行し、さまざまな団体が日本戯曲を海外でリーディング上演するなど、地道な発信の努力がされてきた。アイホールがスコットランドのトラヴァース劇場で、鈴江俊郎や土田英生の作品をリーディングしたのも一例だ。

一方、日本の演劇批評が外国語に訳された例を聞かない。柄谷行人氏の文学批評が英語で通用しているのをみても、「ことばの制約」を言い訳にはできまい。『現代日本の演劇批評・英語版』のような出版物を望みたいが、代表的な演劇批評の選集自体、日本でそもそも編まれたことがないように思う。日本の演劇批評の水準を見極めるためにも、AICTが企てるべき事業ではないだろうか。
(おおた・こうじん/京都教育大学教授)

■劇評
●狂気を内に抱える-WI’RE「CROSS2(⇔)」
中西理
WI’RE「CROSS2(⇔)」(サカイヒロト構成・演出・美術)を大阪港・中央突堤2号上屋倉庫内の<仮設劇場>WAで観劇した。<仮設劇場>WAは昨年行われた「小劇場のための<仮設劇場>デザインコンペ」により大賞に受賞した作品を実際に製作したもので、これを大阪港の倉庫の中に設置して、今年の4月から6月の3ヵ月にわたって12団体が「大阪現代演劇際」として連続公演を行うのだが、このWI’REの公演が実質的にこけら落としとなった。
今回の公演は1年を通じて物語と演劇の可能性を探るという連続公演「スカリトロ」シリーズの一環として企画されたもので、この「C ROSS2」は全体として3つのフェーズに分かれたシリーズの2番目の段階。第1のフェーズはJUNGLE iNDPENDENT THEATEREで上演された「DOORDOOR」と題するリーディング公演。第2フェーズとしてはすでに昨年末、大阪芸術創造館の全館を使うインスタレーション(美術)&パフォーマンス公演として、「CROSS1」が上演されたが、この「CROSS2」は同じ物語と登場人物(キャラクター)、テキストを共用しながら、まったく異なったアプローチでの上演を試みたきわめて実験的な舞台となった。
「スカトリロ」シリーズはこの後、伊丹アイホールで予定されている「H●LL」でこれまでの集大成としての第3のフェーズへと続いていくことになる。

舞台を見るにあたって、この舞台がそういう位置づけの作品であること。そして、313本のポリエチレン性エアチューブと布のカーテンで区切られた円形劇場というきわめて特異な空間で上演されること。以上の2点から、この作品自体が演劇の普通の上演形態からするとかなり異色な内容となるのではないかという期待で公演に出かけたのだが、その期待は残念ながら裏切られた感があったことは否定できない。
まず、空間の使い方からすれば円形の劇場の壁側のところに観客席(それは通常の客席ではなくて、床にそれを敷いて座る座布団ではあるが)が設けられ、中央の開けた空間がアクティングエリアとなり、白い波状の壁の部分に映像が時折映し出されるという青山円形劇場などでも時折見られるようなきわめてオーソドックスな円形劇場の使用法でしかなかったこと。もちろん、そういう風に使うこと自体がだめだということではなくて、ラディカルな実験性が期待された公演だっただけに期待はずれだったのだ。

もうひとつはこちらの方が今回の舞台だけでなく、以前からこの集団の上演を見て感じていたことなのでより根源的な課題でもあるが、この集団にはまだ表現の核となっていくような独自の身体論、身体性がなされていないのではないかと思われたこと。サカイヒロトは関西では珍しく、むきだしの狂気をその内面にかかえている劇作家で、そこに彼に対する期待がある。この「CROSS2」もエピソードは断片に分解・分断されているが、その中心となるのは多重人格と思わせる「獏」と呼ばれる人格をそのうちに抱え、かつての連続殺人事件の犯人と思われる女とそれを追う被害者の父親と名乗る男というある意味、昨今の状況を反映したような人物たちである。
狂気を内に抱えたということでいえば関西では遊気舎時代の後藤ひろひと、クロムモリブデンの青木秀樹の名前が挙げられるが、サカイがこの両集団にかつて俳優として所属したことがあったということはけっして偶然ではない。これらの作家の持つ狂気とサカイがシンクロしていたということがあったに違いない。しかし、これらの両集団にはそれぞれその狂気を体現するような俳優がいて、それがある意味その舞台の演技の規範をつくっていたのに対して、残念ながらこの舞台ではそれを体現するような俳優は存在しなかった。

もっと正確にいえばいずれも客演である遊気舎の西田政彦、ZLVZXの久保亜紀子、BABY-Qの東野祥子といった俳優(パフォーマー)らはその資質や特異な身体性などからして、うまくところをえればそうした魅力を本来は発揮できる人たちなのだが、この舞台ではおそらくサカイヒロト個人ならびにWI’REという集団と彼(彼女)らの関係性(の薄さ)からそうした魅力を舞台で体現することはできなかった。
もっとも、こうしたことは集団のメンバーが体現すべきことであり、内部のパフォー
マーも過去に別の作品での演技を見た限りではそうした資質がないわけではないのにこの舞台ではあまりそれが見えてこないというもどかしさがあった。
それでもサカイの狂気の資質自体は得がたいものだと思うので、今回の公演は途中の段階として、狂気と集団としての身体性が次の「H●LL」でどのように立ち現れてくるのか。期待して待ちたいと思う。
(なかにし・おさむ/演劇舞踊評論家)

●<さりげなさ>の中に潜む、その怖さ
-舞台創造集団りゃんめんにゅーろん-み群杏子・作『ひめごと』

粟田イ尚右
夕暮れの夕日を浴びて杏の木の庭に立つ若い男女。仕事でアメリカに旅立つ男と、その男の子を宿す女。男が云う。『このまま?、俺たちは兄妹かも知れないんだぜ。』女が答える。『そうね。』男『いいのか、それで?』女『仕方ないじゃない。・・・この家で母さんと、私と、二人でえいえん(永遠)という名の花を植えて暮らして来たの。本当のことを知っているのはこの家だけ。花が咲いて、木が茂って、枯れて落ちて・・・「ひめごと」も時間と一緒に、母さんから私に、私の赤ちゃんに。輪廻のように・・・』男『赤ちゃん?まさか・・・』女は自分のおなかを愛しそうに撫でている-。明るさと静けさの中で交わされる会話。舞台はスッと突き放す様に、劇を〆括る。その切って捨てる様な劇の終わり方に、一瞬、息を呑み込む。この女性劇作家に男では考えられない、そして、書きづらい言葉がいとも簡単にとび出してくる其処に、女の強く、思い性(さが)を感じさせた舞台だった。

父を知らない娘・翠と、女手一人で娘を育て、この古い<家>で生きて来た教師の未散。そこに30年前に行方不明になった写真家・藤崎信の消息を調べているルポライターの青年が、未散と交流のあった事実を知り訪ねてくる。このルポライターと藤崎二役を南出謙吾が演じている。一時間半程の『小品』の感を抱かせる舞台だ。それは劇の内容とつながり、舞台が日常的なトーンで淡々と流れるからだろう。観終わって、劇を堪能した満足感が無い。だが、その「劇」の構造とストーリーは屈折し、頁が一枚一枚めくられて行く様に『劇』の思いが舞台に30年の時間が彷徨し、蘇っていく。
かつての時代、劇は対社会との関係、つながりの中で、人間の生きる姿や人生の、その行動を描き出すことだった。だが、30年の歴史的時間を持つ筈のこの劇には、そうした社会的背景や、劇の中の人々の行為から立ち上がる観客への問題提起などは全く無い。いや、必要としない。一見、このささやかな劇の世界は、その香り、肌合いで、それこそ「今」という現実の時間とは無関係に、彼独自の劇の時間、時空を存在させていく。そこに見えるのは、この古い家に生きる母娘の「今」と、そこにつながる30年前の時間であり、劇はその二重の時間を往き来するだけで、其処から何処にもつながり拡がらないのが、もどかしい。ドラマは動き出さない。

この作者の劇世界には、劇中人物の生きている《時代》《社会》の相は、どの作品にも見えてこない。在るのは、劇中人物と劇の其処に存在する『時間』だけだ。そして、この戯曲も同様に変わらない。
この作者は文化庁主催の『舞台芸術創作奨励賞』を1994年『心ごころのアドレス』、1995年『ポプコーンの降る町』で2年連続で受賞して以来、コンスタントに作品を書き続けている人だが、凡そ、時代や現実を越えた時空に浮遊する、取り留めのないメルヘンを夢見る少女を描いていた初期の作品と比して、この作品は確かに現実的日常には違いない。だがそれは、古びた日本家屋の中での<場>の設定によるにすぎない。舞台はこの劇を彩る人達固有の時間だけになっていく。この作品もまた、劇を外に向かって拡げないのが残念だ。必要なのは30年の時間を抱えた二重構造とも云える戯曲が、劇として、舞台の上で、どの様に役者連の演技を成立させ、劇の人間の絡み合う関係が《存在》として表現されたかーと云うことではなかっただろうか。だが、残念ながら、日常生活の風景の或る部分を切り取って、舞台に置かれただけの様な、何も起こらずに流れるだけの舞台からは、この“ひめごと”が秘めて来た人間の《性》は、各々の役の人物の表現の在り方と相俟って、立ち上がって来たとは云えない。

母・未散(林ゆかり)には、30年の人生が見えない。幕が上がった、その「今」だけで戯曲を追っていく。
翠とみちる(未散の30年前)の柏原愛も愛らしさと、相似性だけの存在で、この劇の時間の《量》の説明的存在でしかない。この古い家で、其処に生き続ける女の本性の強さを出し切れない。
南出もまた、本来の真面目さの延長で、即物的に二人の人物を行き来するだけで、まったく《顔》が変わらない。同一の舞台の場の中で、同じ顔でありながら、存在が異なる人物であってほしかった。そして、30年の昔を知る筈の下宿人・峠も、舞台を横切るだけのワンポイントの存在の鮮やかさに乏しい。唯一人、《ひめごと》の目撃者であったかも知れないのではなかったか。勿体ない。
作者の舞台への思いはどうだったのだろう。“ひめごと”という言葉自体が内包する『質感』が、結果的に舞台に息づいていかなかった様に思えた。

こうした舞台への思いと併せて、この戯曲(舞台)に限らず、その上演する戯曲にとっての《場》としてのホール(劇場)の選定の重要さも、改めて考えさせられる舞台だった。きっちり立て込まれた舞台の設えは気持ちがよかっただけに、「プラネット・パプリックホール」という劇空間は、この戯曲が要求する世界と時間を立ち上げるには無理があったのが残念だった。
(あわた・しょうすけ/演出者、演劇評論者)

●二人芝居の魅力——笑いと涙『父と暮らせば』——
市川 明
戦後60年。広島、長崎に原爆が投下され、28万人の人命が奪われてから60年たった。アメリカは第二次世界大戦を終結させるための正当な措置だったとして、一言も謝罪することはなかった。被爆した人が浴びた放射能は子孫にも影響を及ぼし、多くの人が白血病で亡くなっている。
アメリカはその後もベトナム戦争で大量の枯葉剤を散布したのをはじめ、90年の湾岸戦争以降、アフガニスタン、イラクと立て続けに無数の劣化ウラン弾を発射している。撒き散らされたダイオキシンや放射能は、現地住民やアメリカ帰還兵に深刻な影響を与え続け、白血病、癌、内臓障害から記憶喪失に至るまで「死の病」を生み出してきた。手足のない子や、身体機能に欠陥を持った子も多く誕生している。アメリカはそれでもまだ「正義の戦争」とやらを続けるのだろうか。ブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子どもたち』で従軍牧師が言う「戦争というものはいつでも逃げ道を見つけるものさ」という嘆きが、今もなんとリアルに響くことだろう。

『父と暮らせば』は井上ひさしが平和への願いを込めて書き上げた、原爆劇の第一章である。「あの二個の原子爆弾は、日本人の上に落とされたばかりではなく、人間の存在全体に落とされたものだ」と井上は考え、「おそらく私の一生は、ヒロシマとナガサキとを書きおえたときに終わるだろう」と述べている。広島の原爆で父や多くの友を失った娘が、幽霊として出没した父と会話を交わす、ユーモアあふれる二人芝居である。何気ない会話の中に、戦争の残した深い傷跡が感じられ、井上ならではの笑いと涙を呼ぶ。
今回は劇団未来の代表者、森本景文が演出し、読売テレビを退職した木田(ぼくだ)昌秀が「父」として役者デビュー、劇団大阪の岡部紀子が「娘」を演じる。会場は劇団未来のスタジオで、5〜60人入る小さな芝居小屋は満杯だ。板坂晋治のやや斜になったレトロ風の舞台装置が、芝居前から強烈に観客に語りかけてくる。

舞台が開くと、雷鳴がする中を娘、福吉美津江が家に飛び込んでくる。白い木綿のブラウスに青いかすりのモンペ姿。稲光りに「おとったん、こわーい!」押入れが開いて上段に父、竹造が姿を現す。白い開襟シャツのえりが見える国民服で、雷よけに座布団をかぶっている。「ドンドロ」や「ピカピカ」に娘は、原爆のトラウマを重ね合わせている。父が「おとったんと押入れと座布団を味方が三人もいるから大丈夫」と励ます。井上らしい巧みな出だしだが、演出はもっと誇張して光の明暗を示してもよかったのかも知れない。この時点では父親が幽霊であることはまだわからない。
娘が出す麦湯も饅頭も、父親は「わしゃよう飲めんのじゃけえ」「わしゃよう食えんのじゃ」と断り、娘も「あ、そうじゃった」と言う。このあたりから少しずつ娘と父親が異次元の世界に暮らしていることが明らかになっていく。原爆の資料を集めにやって来た木下という青年が話題になる。図書館で働く娘に思いを寄せる青年と、好きなのに飛び込めない娘。二人の出会いから、愛の告白までが、父と娘の会話によって再現されていく。

自分だけが生き残ったという負い目から、娘は「幸せになってはいけんのじゃ」と言い聞かせている。生まれてくる赤ん坊への心配もある。そんな娘を見るに見かねて「恋の応援団長」として、父親はあの世から戻ってきたのだ。「娘の青年へのときめきが、わしの胴体を作り」「娘のため息から手足が」「木下にまた来てほしいという娘の願いがわしの心臓を作った」と言う。岡部の透き通った明るい声と、木田の紗がかかったようなくぐった声が、二つの世界を表し、独特のハーモニーをかもし出している。
下手に台所、中央に押入れのある茶の間、上手に書き物机の置かれた部屋がある。三つの空間がそれぞれ重要な役割を果たしている。子どもたちに語り継がれた昔話をするために机に向かって準備する娘。木下のためにといって台所で「じゃこ味噌」を用意する父親。話は原爆投下の日のことになる。原爆の悲惨さが会話から浮き彫りにされる。昔話同様、語り継がねばならないことである。木下への結婚を勧める父親は、「幸せを勝ち取ろうとする」積極的な娘と、「幸せから身を引こうとする」消極的な娘という二つの分身の、前者を肩代わりしているのかもしれない。

木田はそんな父親を好演している。彼は静かに、かつ力強く第二バイオリンを引いている。「目立たぬように、気負わぬように」。岡部はやや単調だが、素直な明るさがすべてを打ち破り、素晴らしい舞台を作り上げている。観客席は笑いと涙に包まれた。娘の最後のせりふ「おとったん、ありがとありました」は深い余韻を残し、生きる力を与えてくれた。
ションディは「ルネッサンス以降に生まれた近代劇は、人間関係の再現を目指すものであり、それは対話劇によって作られる」と言う。対話が最も緊密な形で現れるのが二人芝居であり、井上の芝居は二人芝居の魅力を余すところなく発揮している。黒木和雄の映画では、青年木下が登場するがそれによって力点は二人の恋の会話に移ってしまう。父と娘の二人芝居のほうがはるかに重厚である。同じことはしりあがり寿のコミック・小説「真夜中の弥次さん喜多さん」を二人芝居にした天野天街(少年王者館)と壮大なスペクタクル映画に仕上げた宮藤官九郎にも言える。芝居のほうがクドカンより多くを語っているのだ。 〔3月31日、「未来」スタジオ。ボクとアナタの会プロデュース〕
(いちかわ あきら。大阪外国語大学教授、ドイツ演劇)

●終わらない昭和の物語。死者をして語らせよ!
くじら企画 『サヨナフ』-ピストル連続射殺魔ノリオの青春-
柳井愛一
2002年の10月にウイングフィールドで公演された作品の再演。
十三階段を昇る足音、床の板が外れる音。連続射殺魔、永山則夫の刑の執行が暗示され芝居は始まる。コロス達が犯罪現場の遺留品を子供のお遊戯の様に奪い合う。その場限りの犯罪の残滓。決して一人の男の持ち物だとは結びつかないガラクタ。そんなガラクタの中から一人の少年がやってきて、自分の人生も他人の人生も反古にしてしまうことを暗示するプロローグ。

永山則夫と思しき男(風太郎)のアパートに見知らぬ人たちが秘密集会のために集まってくる(石川真士・栗山勲・えび・飯島和敏)。物語が進み連続殺人事件の経過がはっきりしてくると、彼らは永山によって殺された警備員やタクシーの乗務員たちだということが分かる。しかし男=永山には彼らが誰か分からない。彼らが現れた理由も分からない。そしてこの部屋が、最後に借りていた東京中野区のアパートではなく死刑執行を待つだけの独房であることも分からない。彼らを追い出そうとする永山の前に、既に死んだはずの姉(藤井美保)や母親(後藤小寿枝)が現れ、集まった人たちをもてなそうとする。乾し饂飩を啜り合う貧しい奇妙な団欒。この物語は、団欒の風景を求める独りぼっちの心の遍歴の物語なのだ。死んだ人たちに囲まれた卓袱台が印象的。

少しずつ不幸な一家の歴史が明らかにされていく。少年・永山則夫(川田陽子)の物語と、中年死刑囚・永山則夫の物語が錯綜として展開され、孤独で不幸な人生に翻弄され、人殺しにしかなれなかった愚犯少年の哀しさが、自らの傷口を舐めながら被害者意識を肥大させていく哀れさへと変貌していく過程がリアルに描かれている。大竹野は(いや役者たち全員が)永山の愚かさから目を背けない、背ける権利など誰にもないと云っている様だ。直視すること、文学者でも自称革命家でもない永山から目を背けないことが重要。難しい役を風太郎が好演。勿論実際の永山は文学者として甦生したのかもしれないのだが、それで連続射殺魔としての過去が清算できる筈もない。取り返しの就かないことが起こってしまったことを直視することが重要なのだ。
大竹野作品にはいつも帰る事のできない「オウチ」が出て来ていた。しかしこの作品ほど「帰りたいオウチ」が切実に求められたことはない。この芝居で描かれた永山は「オウチ」を求めて何度も家出をする少年なのだ。冒頭の刑務所内で幻の一家団欒が、彼の居場所が結局そこにしかなかったことを表していると思う。お客さんをもてなす母や姉がいるオウチを彼は多分一度だって持ったことがない筈だ。憎悪と思慕が交じり合う。酷く惨めな家族の物語を通じて『オウチ』のテーマがより深く追求されて行く。

オウチを探す旅の最期は、幼い頃に過ごした網走の港の夢、狂い死にした姉と過ごしたある日の出来事。母親は姉弟を置き去りにして青森に行ってしまった。カタカナしか書けない母の置き手紙の最後の言葉『サヨナフ』。ぎこちない字のせいか、カタカナも満足にかけなかったのか、サヨナラではなくサヨナフ。おかしい、笑えないくせにおかしい。
少年永山が流氷の上からサヨナフを叫びながら自らの遺骨を網走の海に播くラストシーンは遺灰がキラキラ輝き美しい。そして実に切ない。川田陽子が演じる少年・永山は哀しさと純情さが混じりあい印象的。-汚れつちまつた悲しみに-という中原中也の有名なフレーズがふと浮かんできた。再び十三階段を昇る音と床が外れる音が響く。
ところで犯罪を描いた作品では殺された人たちの悲しさが置き去りにされてしまう傾向があるのだが、大竹野は巧くそんな悲しみを汲み取っている。ひょうひょうと死者たちは自分たちの日常を語る、その後で彼らの理不尽な死が描かれる-初演の時よりも繊細で真摯な表現がなされていたと思う-。殺された男達が永山をセンセイと呼んでいる。永山のその後の言動によって、勝手にプロレタリアートの同志予備軍にされてしまった被害者たちの、たとえ永山の悪夢・妄想の中であっても、精一杯の復讐なのだろう。彼らの宙ぶらりんになって終わってしまった生の悲しさが見えてくる。死刑執行の前日、暗い部屋の中で彼らがクスクス笑い出すシーンは不気味でやるせない。このあたり台本の力だけでは表現できない、役者の技量の問われるところ、芝居の醍醐味だと思う。

くじら企画は本当に役者に恵まれている。
公演後に4月に急逝した高田渡がが唄う、永山則夫の詩「みみず」と「手紙」が流れていた。死者たちに黙祷。「昭和の日」というのが出来るそうだが、くじら企画が描く「昭和の犯罪シリーズ観劇の日」にしたほうが良いと思うのだが、いかがなものか?。
〔くじら企画 『サヨナフ』 作・演出/大竹野正典 ウイングフィールド 3月26日(土)〕
(やない・あいいち/演劇ライター)

●妹と核兵器、ダンスホールと核戦争-ニットキャップシアター『美脚ルノアール』-
正木喜勝
数年前に相次いだ閉鎖ラッシュから一転、今大阪はちょっとした新劇場ブームとなっている。「<仮設劇場>WA」もその一つで、海遊館のすぐ近く、港区海岸通1丁目中央突堤2号上屋倉庫内に現れた。これはコンペを勝ち抜いた建築家五十嵐淳の設計によるもので、円形劇場である。劇場と外を区切るのはポリエチレン製エアーチューブとオーガンディーのカーテンだけで、境界が曖昧なのが一つの売りとなっている(といってもこの円形劇場は倉庫内にあるため、境界の曖昧さが少なからず失われているように思われる)。この劇場を使って4月から6月まで、大阪現代演劇祭の一環として12団体の公演が連続上演されるのだが、その2番目、ニットキャップシアターの『美脚ルノアール』をみてきた。

ニットキャップシアターは1999年に旗揚げされた若手劇団である。京都での活動が中心だが、最近は大阪での公演も増えている。劇作・演出・俳優をつとめる劇団代表のごまのはえは現在28歳で、昨年『愛のテール』でOMS戯曲賞大賞を、今年初め『ヒラカタ・ノート』で新・KYOTO演劇大賞演出賞を受賞(大賞はニットキャップシアターが受賞)した、今のりにのっている演劇人である。そんな彼の新作『美脚ルノアール』を見逃すわけにはいかない。
観客が取り囲む円形舞台の床には、極東の地図が描かれている。開演までの間、東京の上を天井からぶら下がった大きな金属球が振り子のように揺れている。劇が始まるといきなり、東京に原爆が落とされたことが告げられる。先に北朝鮮が核保有宣言をしたが、その後、日本の経済制裁発動、北朝鮮の宣戦布告、アメリカや日本などの連合軍の攻撃(日本は例によって「後方支援」という形式)、北の政権崩壊、連合軍占領、反米・日デモ、ゲリラ、義勇軍、泥沼化、そして東京への核投下、という極東の事件が軽快な音楽とともに語られる。

その投下直後の2006年4月の第三週つまり現在から一年後の、日本海に浮かぶ小島「猫またぎ島」が舞台だ。金子家は父母と三兄妹の五人家族で、祖母はつい最近死んで葬儀が終わったばかり。長男正浩は町役場の島民生活安全課主任として働く公務員であるが、法律改正で拳銃の携帯を許されている。次男春彦は行方不明だったが、新潟での目撃情報のあと実家に戻ってきたところである。彼は「北の工員」たちのリーダーをつとめており、この兄弟は敵同士となる。妹桜は大阪の専門学校に通っていたが、祖母の介護のために三年前に戻ってきており、現在は家事手伝いである。この妹が文字通りの「核」となる。
彼女は母から自分が「マイカク」であることを知らされる。マイカクとは、体内に核を埋められた人間兵器のことらしい。安っぽいSFのような設定といってしまえばそれまでだが、このマイカクには実は奇想天外な秘密が隠されている。マイカクは今や全世界に広がっているのだが、その宿主はみな妹で、妹としての理不尽性をどれだけ経験しているかに核兵器としての威力が比例するという。すなわち、「我慢強い」「気だてがよい」「疑問を持っても声には出さない」というような強い責任感と不満をもっていればもっているほど、攻撃力が増すのである。

このあまりにもばかばかしい設定のおかげで、核の危機という地球規模の問題が、家族内の妹の立場という極小的な問題とすりかえられながら、そのギャップによって笑いだけでなく、意外な効果も生まれていた。彼女は妹らしい犠牲の精神から日本のために核として戦うことを受け入れようとするが、反旗を翻して「連帯せよ、妹たち!」をスローガンとして、自分たちマイカクの脅威を武器に「世界同時武装解除」を全世界に求める。しかしその革命家としての姿に、妹という束縛からの解放を求める極めてドメスティックな姿を見事にダブらせ、核の抑止力を用いた世界平和などばかげていてありえないということが、シニカルな笑いの隙間から染み渡ってくる。結局、彼女はよりを戻しにやってきた恋人によって投降する。
エピローグでは、冒頭と同じようにその後の極東の状況が語られる。北朝鮮とアメリカの和解、アメリカ・中国・ロシアによる日本列島の分割統治、福岡・静岡・札幌を首都に三国家が誕生、ゲリラ、泥沼化……。これは二年後の日本の姿であるが、興味深いのは、これらが、軽快な音楽、美しい照明、男女のダンスを伴って語られることである。開演前東京の上を行ったり来たりしていた金属球は核爆弾を表しているが、開演中は常に舞台の頭上にぶら下がっており、核の危機を常に匂わせていた。だが、ここではその核爆弾がミラーボールのようにみえ、円形舞台がダンスホールかのような印象を、少なくとも私には残した。妹と核兵器、ダンスホールと核戦争、異質なものどうしをつなげる斜に構えた戦争の描き方は、ともすれば戦争の危機を軽視していると批判されるかもしれないが、私には同世代の日本人として、この戦争に対する一種の距離感が非常にリアルなものだと感じた。それがたとえ今の切迫した状況においても、である。戦争に無関心というのではない。あまりにもばかげた現代の閉塞した状況に対して、シニカルな態度をとる以外にどうすればよいのかわからない、そんなことを痛感した舞台であった。
[2005年4月24日〈仮設劇場〉WA]
(まさき・よしかつ/ 大阪大学大学院文学研究科博士後期課程)
■時評・発言
●教養としての伝統芸能
林 公子
大学という場で10数年間、能・狂言・歌舞伎・文楽といった主に演劇的な伝統芸能についての複数の講義を担当してきた。その過程で、私はこれらの伝統芸能は今日の多くの学生たちにとっては異文化の世界であると思うに至った。
極端なことを言えば、伝統芸能を知らなくとも日常になんの支障なく生きてゆける。自ら足を運ばなければ触れることもない世界。能=小面の写真、歌舞伎=隈取りした顔、のイメージ、言葉としては知っていても、頭の中に、人物が物を言い、動く像は結ばない。いざ実際に見てみれば、言葉はわからず、見慣れない着物を着て不自然な姿勢で立って歩き、音楽にはついていけず、時間は引き延ばされたようにゆっくりと進む。まさしくそれは遠い知らない異文化との遭遇にほかならない。

伝統芸能は、担い手にとっては間違いなく綿々と受け継がれてきた伝統なのであるが、哀しいことながら、今日の日本社会においては、学生のみならず実は多くの人にとって異文化なのではないだろうか。伝統芸能はいまやエスニックな「和」のテイストの世界に属しているのである。学生たちは、むしろそちらの「伝統」を受け継いでいるに過ぎない。
四半世紀前に書かれた今尾哲也氏の『歌舞伎を見る人のために』には、「二口村」の幕開きの梅川・忠兵衛のシーンをみた一人の観客が「あの二人、雪の中にはだしで立ってるわ」と叫んだというエピソードが引かれている。歌舞伎の虚構が表現として感じられなかったこの観客にとって、歌舞伎は理解を超えた異文化の世界に思えただろう。

このエピソードは最初の「約束ということ」という章に出てくる。どんな演劇にも「約束事」がある。舞台は虚構の世界であるからだ。しかし、ふつう舞台を見ている時に、これは演劇の約束事だと思いながら見るということは稀だろう。約束事と意識されることなく一つの表現として感得できなければ舞台の世界は享受できない。
ところが、歌舞伎に限らず伝統芸能の場合、どのジャンルであれ、初心な観客が舞台を見るために約束事が解説されることは半ば当然とされている。これは観客の側の享受の伝統が断絶しているからに他ならない。今尾氏はそのような観客を「見方の伝承から断ち切られた観客」と呼んだ。表現への理解が受け継がれていないのだから、それは観客にとっては「伝統」芸能ではなく、むしろ異文化だと言わざるを得ないだろう。
だが、異文化は知り、理解することが可能な世界でもある。だからこそ、『歌舞伎をみる人のために』は続けて歌舞伎の世界を形作る基本的な約束について説いてゆくのである。

ところで、教室で異文化である伝統芸能と向き合う学生たちは、授業という枠組みの中で、異文化理解の過程を見せてくれる。伝統芸能作品のVTRを、ほとんど初めてきちんと見る学生たちの享受の程度は、いわゆる約束事をあまり意識せず作品世界を感得する者から、言葉がほとんど聞き取れず、物語についていけない者まで、最初はまことに様々である。しかし、作品の内容を理解した学生でも、その表現に対しては内心ではなんらかの違和感を感じている場合が多い。曰く、狂言の登場人物のあの中腰で前屈みの姿勢は可笑しい。これは笑いを取ろうとしているのだろうか? 曰く、文楽の人形は顔が小さくてプロポーションが不自然で、少し怖い、等々。
しかし、何本かの作品を見ていくうちに、こうした最初に感じた違和感は消えてゆき、やがて表現としての巧拙までが見分けられるようになっていく。言葉に関しても、授業でVTRを1年間見続けていけばだいたい聞き取れるようになる。私はできるだけ表現上の約束事を約束事として解説しないようにしている。学生たちの享受の程度が様々なので、彼らのVTRを見てのミニレポートを公開にすることで、たいがいのいわゆる約束事が何を表現しているのかは明らかになって、次第に表現としての理解が進む。こうして学生たちは、異文化は少しずつ分かるようになることを体験するのである。

このような経験は、知らない世界に対し自らを開いていくことへの端緒を開くと同時に、分かるということには主体的な関心と時間をかけることが必要であることをも認識させる。その意味で私は一人でも多くの学生に伝統芸能を見て欲しいと思う。今日、そこに伝統芸能を知ることの教養としての意味のひとつがあると思う。
(はやし・きみこ/近畿大学助教授・演劇専攻)

●「劇評シリーズ」を取り組んで
堀江ひろゆき
日本演出者協会関西ブロックが3回に渡って「劇評シリーズ」のシンポジウムを開催した。第1回目は昨年7月26日に会員同志が劇評について論じ合った。第2回目は11月13日に、国際演劇評論家協会(AICT)日本センター関西支部と提携して、「劇評はどうあるべきか—トークバトル」と題して、劇評家と造り手の8人のパネラーに討論してもらった。第3回目は今年2月16日に、「メディアと劇評」と題して、3名の若手演劇担当記者の方に忌憚なく語ってもらった。
演出者協会関西ブロックが「劇評」について問題意識を持ったのは、関西発信の演劇誌、評論誌があまりにも少ないこと、未だに新劇と小劇場に隔たりがある中で、マスメディア、評論家が小劇場に片寄っている点などの意見が寄せられたことが切っ掛けである。相次ぐ劇場の閉鎖、鑑賞団体を含め、観客減員の危機感もあり、関西演劇界の活性化のために何を為すか、その1つが「劇評シリーズ」の取り組みとなった。

1回目は会員同志の内輪の討論会で、このシリーズの方向性を話し合った。関西では感想程度で劇評がない。まして時評や演劇評論は皆無に等しい。ベルリンなどはレパートリー制をとっているので、劇評を見て観客が選ぶことができる—日本では可能だろうか。書店から演劇コーナーが消えているのに。誰が劇評を読むのか。30年前、朝日新聞社の演劇担当記者、清水三郎氏は劇評は激励だと云った。貶すのは簡単、いい所を探すことに徹すること。良い意味での御用評論家が必要ではないか。扇田昭彦氏と状況劇場、長谷部浩氏と夢の遊眠社、清水三郎氏と人形劇団クラルテのように密着した関係。その意味ではマスコミの在り方が昔とは全然違って来た。劇評を書ける記者はいないのでは。テアトロの編集方針では新劇の劇評は載せないという。マスコミでも小劇場が主流で、新劇は芝居をしていないと思われたら困る—13年間続いてきた「劇場通い」の神沢和明氏は記録性を強調する。

2回目はAICT関西支部長の市川明氏の司会で、評論家としてAICT関西支部事務局長の瀬戸宏氏、評論家であり造り手でもあるのだが、粟田 右氏、菊川徳之助氏、今泉修氏、作・演出家の深津篤史氏、棚瀬美幸氏、土橋淳志氏の若手の造り手が加わり、各々の立場から発言してもらった。関西の演劇事情については、高齢化に伴う世代交代の混乱期。限られた客がその中で動いているだけで拡がりが求められている。関西の場合、古典芸能と繋がりの無い所で現代演劇が存在している。創造面での拡がりを考える必要がある。劇評の発表の場があまりにも少ない。大阪現代演劇祭が発行している「劇の宇宙」、「劇場通い」、AICT関西支部発行の「act」の3つしかない。最近新しい劇場が4つできた。精華小劇場、ウルトラ・マーケット、ジャングル・インディペンデント、2など。少し前の劇場閉鎖問題の時は先が読めたが、いざ出来てくると先が読めない。全体的には客が減っている中で、客の分散化、パイの取り合いが生じるかも知れない。その対策としてロングランや、マチネーの公演など、劇場の色を出していく必要がある。ここ1.2年は大変だと思う—劇場問題、世代交代、創造の限界、発信の場数、観客減の問題など、関西演劇界の抱える諸問題が列挙された。その中で、「劇評」の位置付けを巡って突っ込んだ意見が交された。討論会で気になるのは観客不在だということ、評論家のために造っているのではない。劇評家から刺激を受けることは少ない。劇評は文章力が要求される。今あるのは感想でしかない。劇評を必要だと思わない。必要とする劇評がないということだ—その他マスコミの問題、2ヶ月遅れで載る雑誌の問題、ヨーロッパとの違いなど忌憚ない意見交換ができた。

3回目の「メディアと劇評」は日本経済新聞社の林隆之氏、毎日新聞社の河出伸氏、朝日新聞社の桝井政則氏の若手記者3人に語ってもらった。昔と違ってマルチ化が要求される仕事の中で、演劇を必死に受け止めようとしているが限界があるのかも知れない。欧米のメディアと違って発行部数が圧倒的に多い日本の新聞社にとって演劇はマイノリティであり、東京の情報が溢れる中で関西発信を心懸けているという。
「劇評シリーズ」を終えた今、次のステップを考えている。通して云えることは関西発信の意味、劇評、時評、評論がその記録性も含め演劇史になるということである。同時に創造の底上げと観客の拡大に繋がる意味でも劇評の重要性を痛感する 。だとすれば劇評家の育成が急務だ。万歳一座の内藤裕敬氏が云うように、「演出家も劇評を書いたらいい。書かれた方は甘んじて受けるべきだ。」また菊川氏も云うように、「劇評家はもっと討論すべきということも必要だ。」シアター・アーツの誌上で石澤秀二氏が書いてる。「批評家同士の交流とは、個性のぶつかり合い、論争による他者の認識であり、自己発見である。」
新しいシリーズを始めよう。
(ほりえ・ひろゆき/日本演出者協会関西ブロック事務局長)

●演劇の教育と俳優の養成(5)
菊川 徳之助
ある時、竹内銃一郎氏(劇作家・演出家・大学教授)が、「毎日のように、学生を、1日4時間超、じっと見つめている。こんな授業をやっている先生がいるだろうか。大学において演劇専攻とは恵まれたところだ」といった意味のようなことを言った。これは、学生の稽古に立ち会っていて、演出者という立場であり、指導教員という立場であるのだが、1日4時間超、学生をじっと見つめている作業なのであり、教育をしている現場なのである。しかも、この時間は、正規の授業時間をはみ出た、多くは夜の時間帯(夕方6時〜夜10時)なのである。日中は授業があるから大学に居る滞空時間が実に長い。勿論、このようなところがないわけではない。実験系の学部にも学校に居る時間が長いものもある。ただ、実験系は自分自身が行なう時間が多いと思うが、演劇専攻は、演出の先生がずっと付いての稽古である。学生主体で学生が演出することもあるが、同じ年齢の者だけの作業はなかなかむつかしいところがあるので、教員が付くことになる。だが、夜働いても、残業手当は付かない。1週間の授業時間におけるカリキュラム範囲内で収めることが普通であるが、そのように行かないところに演劇というもののやっかいな要素が埋まっている。演劇には長い稽古時間が要る。即興劇でも、稽古を積んで即興劇を作るのである。演劇は、生きた人間の生身の身体で、手作りの原始的な創造法による芸術作業である。映画のようにカット割りで作って、複写したフイルムでの世界同時上映、というわけにはいかない。1つのキャスティングによるものは、1つの劇場で、その1日、1つの公演しかないのである。世界に1つ、コピーができないのである。

演劇は人間を描く芸術である。しかも、人間社会を再現ではあるが、直接描写的に表現する。人間のことを楽しく考察できる芸術であり、このことは教育には、最高に適する要素を持っている。だが一方、演劇は学校教育としては、全く適さないのではないかとも思われる。1週間1回の授業で成り立たせるには無理があるからである。授業時間を十分にとってカリキュラムを<専門科目>のみで組める「演劇大学」が必要なのである。文学部の中の演劇専攻では、施設においても、普通学部の中に演劇専攻があるわけだから、充分なものを造らなくてよい(法的規制外になるから経営者が造ってくれない)。例えば、演劇には劇をする場所、空間が必要である。一般的には劇場(ホール)と言われるものが要る。しかし、普通学部では普通の教室があればよいわけであるから、ということは、文科省の認可も、劇場がなくても通ることになる——同じことを繰り返すが——日本には<演劇大学>がなく、いや、演劇大学どころか、総合大学の中に<演劇学部>も設置されていないのである。条件のゆるやかなもの、言ってしまえば、現在の演劇専攻は曖昧な形で存在していることになる。そんなものは、ナンセンスではないかと、という言い方も出来るが、それでも、日本の芸術や文化環境の貧しい中にあって演劇教育を為す大学があることは貴重なことだと思われる。さらには、以前に触れたことではあるが、演劇の教員を養成する機関もないのである。現在、大学での演劇関係の教員の多くは、現場の演劇人(演出家、劇作家)である。僅かに、演劇学科を卒業した人たちが、幾人か演劇教員になってはいるが、教員養成大学からの教員は居ない。演劇教育をする教員養成コースがないから当然である。このように、実習(実技)を伴った演劇教育は、非常に困難な状況にあり、困難な条件がある。しかし、俳優養成に暗い影を漂わせている日本の現状においては、早急に環境(設備やカリキュラム)を整えた「演劇大学」の設立が望まれるところである。・・・あるが、そのようなものができる可能性は皆無に近い。現状では、いまある演劇コースを設置している大学が、困難な条件の中で、工夫を凝らして如何に素敵な教育をするかであろう。しかし、演劇教育と一口に言っても、その内容がどうあるべきか、これまた深く考えていかなければならない問題なのであるが・・・。課題を残したまま、可能性のパーセンテージが高いことで言えば、実習(実技)を伴わない演劇教育をしている大学における演劇研究のほうかもしれない。教員においても、演劇研究をしている学者が多数いるからである。施設も大きな空間や劇場があることが絶対条件ではなく、教室(それと、ビデオやDVDなどの機械装置)があれば、授業は可能であるし、カリキュラムも1週間1時間の授業で成立する。ただ、俳優養成という観点からは、どのように考えたらよいのか、研究(理論)からも俳優が生まれないとは言えないが、条件的には、勿論充分とは言えないだろう。

俳優養成を第一に考えなければ、全大学に演劇入門のような<演劇の知>を学生たちが知る「演劇」の授業が設置されることを実現させたい。教養としての演劇教育と言ったらよいのか。演劇というプレイゲームの中から人間の知が学べるのだ。
俳優になることは、今の日本社会では、金メダルを取るくらいに難しいことである。とすれば、大学における演劇教育は、俳優養成のみにとどまらず、演劇教育を受けたけた学生が演劇の知でもって、地域や社会に広く活躍する人材を輩出する演劇教育をも為すことが大切なのではないか。演劇教育はイコール人間教育である。大学の多くの学問は全て人間教育であるから、なんの特徴にもならないと言われそうであるが、演劇教育は人間や人間社会を、人間の営みを直接に扱う芸術であるところの演劇を学ぶものであるから、最適な教育と言えるのである。
ということは、俳優養成は今ある劇団の附属養成所に委ねればならないのか?
(きくかわ とくのすけ  近畿大学演劇専攻教授)

■海外演劇紹介
●夢の回廊-頼聲川演出、表演工作坊『如夢之夢』を見る
永田靖
このたび台北で8時間の芝居が上演される、ついては見に来てくれないか、と連絡を貰いました。時間を共有するという演劇固有の経験をするには長時間の芝居に如くはなく、梅雨入り近い台北に出かけてきました。劇団は表演工作坊、1985年に設立されたいわゆる小劇場ですが、いまや実力人気ともに兼ね備えた台湾第1の劇団と聞きます。その20年周年記念作で、劇団主宰者の頼聲川の作品。この劇団は、劇の大枠を頼聲川が作り、俳優たちとの共同制作という方法をとっています。今回もその成果が存分に発揮され、個々の場面はよくできていて、8時間は決して長いものには感じさせませんでした。

物語は、冒頭から4人の患者の死に立ち会う新人医師の物語かと思わせますが、そうではなく、一人の患者の昔話になっていきます。妻との出会いとその失踪、傷心のままのパリ旅行へと。パリで出会った画学生と愛し合い、同棲。画学生は1989年天安門事件の当事者でもあり、現代の中台関係の複雑さを想起させずにはおきません。ある日、彼は幻想で見た中国女性に興味を持ち、30年代上海の娼婦だったその彼女の素性を上海に赴いて確かめたくなります。上海で今は老いたその女性に出会うと、劇は今度はこの女性の昔話になっていきます。舞台は一気に30年代上海になり、娼館での生活や、フランス人実業家と結婚してパリに移住する場面が展開します。徐々に夫婦仲に溝ができ始めますが、時は第2次世界大戦、ナチスのパリ占領はすぐそこです。そんな時その夫は列車事故で行方不明になり、彼女は家政婦に身を落とします。二人の子供のあるアフリカ女性の幸福な家庭で働くことになりますが、その家の主人こそが、死んだと思っていたかつての夫でした。失意の彼女を救うのが、かつて上海で自分を愛した若者でした。話を聞き終えた彼が、パリに戻ってももう画学生の彼女は去っており、手紙だけが残されていました。

最初は新人女医の話と感じさせ、次には患者の妻とその失踪の真相を究明する話かと思わせ、さらには、天安門事件の当事者の画学生との物語かと思えば、上海の娼婦の話となっていく、物語は4つの大きな入れ子構造をしています。この「夢のような夢」というタイトル以上に、8時間という長い上演時間は、一人の人間の叙事的な一代記かという期待を抱かせます。一代記は長時間の芝居に親和性を持つ物語様式ですが、ここではこの入れ子の物語の構造が、観客のこの仄かな期待を裏切っていく、そんな面白さを感じさせます。
入れ子の構造は、舞台構造にもうまく反映しています。劇場は、国立中正文化中心という巨大な劇場ですが、舞台中央の奈落に客席を作る風変わりなものでした。客席の周りを舞台が回廊風に四方を取り囲んでいて、観客はまるで釣堀の中から廻りを見渡すように観劇します。俳優たちは、この四方の回廊舞台を繰り返し、廻りながら演じて、というよりは、物語とは無関係に、時には幻想の人物が、時には過去の人物が、また時には同時代の人物が廻り続けます。例えば、その娼婦と愛を営む若者の場面では、回廊を歩き続ける足の悪い老人がいるのですが、彼はその若者の老いた姿です。フランス人実業家について行く彼女との恋に破れ、飛び降り自殺を企てたのです。つまり、ここでは場面に対して回想のフラッシュ・バックではなく、未来を先取りするフラッシュ・フォワードの手法のように見えるのですが、そもそも劇全体は現代の患者の回想なので、過去に向かう時間と、現代に向かう時間が、同時に流れる幻想性を生み出しています。この双方向的な時間を幻想的に共存させているところに、この上演の最大の美質があると思われました。

舞台奥に向かって上手と下手には、やぐらが組まれ2階建ての舞台となっています。頻繁にあちこちに場面が移るので、後ろか前か、上か・・と、観客は今どこで劇が演じられているのか、探さなければなりません。それは観客がただ受身に劇を享受するのではなく、参与的に劇に関わる効果のある方法であると同時に、上演の幻想性を高めるのに役立っていました。そのため客席が回転椅子であったことは記しておくべきでしょう。
メロドラマに傾きすぎた傾向もあるが、喜劇的色調も織り交ぜられ、観客は大いに喜び、大いに涙していました。この劇団が20年続いてきた理由がよくわかりました。この演出家の力量には並々ならぬものがあり、時に息を呑むような美しさを醸し出していました。それは劇全体の、人生とは夢のまた夢、というちょうどスペイン黄金時代の劇を彷彿とさせる主題にふさわしいものでした。同時にその主題が現代の台北の、そして1930年代以後の、必ずしも幸福なことばかりではなかったこの国の歴史を背景に感じさせて、ナショナルな輝きを放つものへと見事に修正されていたと思われました。
(ながた・やすし/演劇学・大阪大学)

●定期購読のお願い
『あくと』は一般の書店では販売していません。大阪の小劇場ウィングフィールド(電話 06-6211-8427)でも購入することができますが、『あくと』を確実に入手するには、定期購読が一番です。購読料は一年間1000円(送料含む)です。
申し込み先
553-0003 大阪市福島区福島6丁目22番17号 松本工房気付
国際演劇評論家協会(AICT)日本センター関西支部
電話 06-6453-7600 ファックス 06-6453-7601
郵便振替口座 00950-4-277707 (口座名:国際演劇評論家協会関西支部)

●投稿規定
『あくと』三号より、下記の要領で一般読者からの投稿を募集しています。編集部で審査のうえ、優れたものを『あくと』に掲載します。
・投稿内容は劇評、時評・発言、海外演劇紹介、書評などジャンルを問いませんが、関西地区上演の舞台対象の劇評を歓迎します。
・枚数は5枚(2000字)が基準です。
・原稿料はお出しできません。
・投稿締切は以下の通りです。
『あくと』六号(05年8月初め発行)掲載・・05年6月20日締切
『あくと』七号(05年11月初め発行)掲載・・05年9月20日締切
・投稿は電子メールでのみ受け付けます。タイトルに【『あくと』投稿原稿】と明記してください。原稿には、氏名(筆名使用の場合は本名も)、連絡先、職業(所属先)を明記してください。
・投稿宛先 ir8h-st@asahi-net.or.jp 瀬戸宏

●編集後記
今号から『あくと』は二年目に入る。何度も書いていることだが、このような小雑誌でも続けるとなると相当な負担がかかる。今号は諸般の事情で発行が少し遅れてしまった。早々に原稿を寄せていただいた執筆者にはお詫びしたい。次号は定期の発行をめざす。
今号には、新人として正木喜勝氏の劇評を掲載することができた。大阪大学大学院博士課程在学中である。これからも若い世代の寄稿を求めていきたい。
最近、劇団青い森から「活動停止のご報告」が届いた。四月末日ですべての活動を停止したという。「近年は『集団』としての成長ができず、個々の力を存分に発揮できる場を作れなくなりました。『表現者』として個々に目指すものを今一度確認するためにも、劇団員合意の上で『劇団青い森』の幕を閉じることに致しました。」とある。1980年創立というから、ちょうど四半世紀の活動歴である。神戸市を拠点に「学校公演を主たる活動」とした地味な劇団だったが、阪神大震災で劇団事務所や劇団員が被災し関心を集めた。被災による危機は乗り切れたと思われたが、十年にして力が尽きたのか。各劇団員は今後も演劇を続けるとのことなので、これからの健闘を祈りたい。(瀬戸宏)

act4号

●巻頭言
瀬戸宏  阪神大震災は演劇を変えたか
●クロス劇評
中西理  「祝祭からハイアートに変容する維新派」
藤原央登 維新派『キートン』-飛び出す絵本のような舞台
●劇評
市川明   プレイ(芝居)はプレイ(遊び)
-劇団往来『名探偵VS霊媒師 英国少女殺人事件』
太田耕人  初々しさと鮮やかさと-TBS/ホリプロ『ロミオとジュリエット』
粟田イ尚右 《・・な「ワタシ」》-ある、マイナーな若い女優の一人芝居で
●時評・発言
松尾忠雄  演劇で教育=「人間」教育
平川大作  「2004年、兵庫県発の舞台を回顧して」
菊川徳之助 演劇の教育と俳優の養成(4)
●演劇書評
瀬戸宏   歌舞伎の笑いの原質-荻田清『笑いの歌舞伎史』
●定期購読のお願い・投稿規定・編集後記

act3号・後半

■時評・発言●大阪労演の活動から岡田文江
一九三七年、新劇の大衆化を目指して発足した新築地劇団の趣意書のなかに、「独立」した演劇運動を続けるには、観客の”会員制度を基礎とする、劇団の計画的経済樹立へ”という言葉があるという。
敗戦の年、一九四五年十二月に、中断されていた新劇公演が復活した。その翌年、予約会員制を目指した「FOT新劇友の会」が、文学座、俳優座の共通観客組織として誕生する。「自分たちの希望する演目を選び、自分たちの経営する劇団を支持、観劇する」という趣旨の、観客主体の組織を目指したが、戦後の猛烈なインフレのため、その仕事が緒につかないまま、一年余りで解散している。大阪での新劇公演は四六年六月から始まる。当初、朝日会館、毎日会館–今はない–、の昼夜二回の一週間公演、どの芝居にも、文化に飢えていた二万人の人たちが集まった。自立劇団の発表会も、一週間、朝から夜まで、満席の状況であった。
一九四八年、東京で、勤労者演劇共同組合が、新劇団協議会が中心になって発足。優秀演劇の共同観賞会–料金割引及び座席券の優先的獲得–、自立演劇への援助–講師の派遣–などの仕事を始めるが、1953年に解散する。
しかし、この時期、朝鮮戦争を前にしてのアメリカの占領政策の急転回、こうした状況の下で、私たちを取り巻いていたのは、相次ぐ大ストライキと弾圧、物価騰貴とインフレ政策による生活の苦しさ。観客は急激に減少してゆく。観客の減少は、現実に生きる観客と、劇団によって創り出される演劇の齟齬を語るものでもあった。このままでは、新劇が衰退してゆく。演劇公演を活発にするには、まず、観客を増やさなければならない。それも、出来得れば、決まった観客が、続けて観ることによって、経済的にも安定するし、内容的にも深く関われるのではないかというところから、広汎な、勤労者層を基盤とした、会員制の観賞組織なるものが考えられた。機関誌一号の見出しは、「労演–演劇を守り育てる組織」である。「演劇を正しく発展させるためには、単に、創造者だけの解決の努力だけでは不充分である。新劇・自立劇団が正しく発展するには、当然、観賞組織との交流がなされなければならない」と。参画したのは、新劇人協会、関西自立劇団協議会、そして、戦前からの劇団後援会、新劇愛好者たちである。会費は月70円、毎月一回芝居を観る、10名以上のサークルつくり加盟する。世話役1名を選び、月1回会議を開いて全てを協議する。そんな取り決めで仕事が始まった。発足時の会員数は1500名。そして、50余年–。
しかし、時代の流れに抗しての出発であるので、当然、すぐ様々な困難にぶつかる。50年代初頭、レッドパージ旋風によるサークルの壊滅、50年5月再組織して500名で再出発となる。実際、混沌とした時代であった。下山事件、三鷹事件、松川事件、物価騰貴は続く。その頃、東京の新劇団公演は朝日、毎日新聞事業団主催だったので、その内の何回かを買い取る形だったが、それが年四・五回、月一回の例会の取り決めでは、残りは独自に組み立てねばならない。それには5000名の会員が必要になる。会員を増やそうと呼びかけても思うようにはゆかない。やっと拡大に向かったのは、「もはや、戦後ではない」という言葉が巷に見え始めた55年頃、爾来、順調に増え続けた会員数は、「所得倍増計画」なるものの影響を受けた六五年、24000名に達する。それを頂点に、徐々に減少傾向へ。70年代に入って、大劇団の分裂、若者劇団の台頭、価値観の多様化の流れのなかで、会員数は急速に減少。80年代、経済優先、総財テク化、演劇の世界も例外でなく、さまざまな形態、場所での公演が華やかに展開される。私たちの例会にも、新しい劇団、演劇座、泉座、早稲田小劇場、冥の会、睦月の会、五月舎、木六会、四季、立動舎、文楽と歌舞伎による”恋飛脚大和往来”といった演目もある。
くだくだしくなるので、この辺で打ち切るとして、振り返れば、私たちの50年は、政治・経済・社会・文化情況の流れのなかを漂いながら、何とか、発足の初志を貫きたいと、模索を続ける年月であったといえないだろうか。
演劇を愛する多くの人たちの協力と努力に関わらず、仕事は必ずしも順調に進んだとはいえないが、月一回の例会は50年間、続けられてきたし、或いは、労演主催でないと実現できなかった公演も、数々みられる。
因に、10周年の感想は”ほのぼのとした希望”であった。20年は自己変革、30年は観劇は”無用の用”であった。発足時、「労演の会員がせめて30代になれば」と劇団を嘆かせた現在の平均年齢は50歳後半、今、再び、若者が期待される、50年である。(岡田文江/大阪労演事務局長)

●365日の文化事業に向けてKyoto演劇フェスティバル、25年の軌跡と今後椋平淳
「演者」「戯曲」「観客」を演劇の3要素とする見方からすれば、必ずしも「劇場」は、演劇という営みが成立するための必須要件ではない。けれども、20世紀後半から今日まで、日本各地の自治体で幕を上げた「演劇祭」という催しについていえば、多くの場合、「公立ホール」というハードが前提となって初めて出現した演劇的ソフトだといえよう。高度成長期以降、バブルの終焉を経てもなお建設されつづける公立文化施設は、現在では全国で2,000館をはるかに超える。行政側にとって、施設の稼働率を数日から月単位で高める「演劇祭」は、‘箱物行政’に対する社会的批判を和らげるだけでなく、地域に対する文化施策の推進という行政上の評価を得る手段となる。一方、演じる側にとっても、自主公演よりもおおむね安価で芝居を打つ機会が得られたり、新たな観客の獲得や、さらなる創造に向けた交流の場となりうる。両者の思惑が一致するところに、「公立ホール」を主会場として、自治体主催の「演劇祭」が漠々と立案されていったのだ。
京都府などが主催するKyoto演劇フェスティバル(通称「演フェス」)も、京都府立文化芸術会館という公立ホールを拠点とする。会館のオープンが1970年、そしてフェスティバルの創設は1979年。「発表と交流の場を提供」し、京都における「創造活動に寄与」するという会館の設置趣旨を体現する形で、演フェスは毎年2月、このホールを舞台として催され、自治体関係の演劇祭としては今日までに全国有数の開催回数を重ねている。
もちろん、単年度予算が基本の自治体において、一つの事業が25年にわたって継続するには、時流に応じた企画や運営方法の改革が不可欠である。創設当初の演フェスは「公募プログラム」のみで実施され、全団体によるコンクール形式をとっていた。単一プログラムのなかに児童・青少年向きの演劇から一般成人対象の舞台まで、観客設定の異なる作品が混在していたため、第12回からは「児童・青少年部門」と「一般部門」に分割され、部門別に大賞を競う形式へと変更された。その後さらに、新参の劇団数が増加するにつれて、脚本賞や観客審査員賞など、大賞以外の各賞を再整備し、参加団体への励みとした。その成果か、徐々に上演内容も充実し、この時期の受賞者には、一般部門の大賞として「劇団八時半」(第16回)や「劇団パノラマ☆アワー」(第19回)、脚本賞に鈴江俊郎(第14・16回)や山岡徳貴子(第18回)、児童・青少年部門の大賞として人形劇の「ミニシアターまる」(第17回)など、後に全国的に活躍する面々が名を連ねている。一時、中堅劇団の参加が滞る時期もあったが、府内の劇団に対する演フェスの浸透や、こうした若き実力者たちと同じ舞台を踏めることが呼び水となり、開催規模は少しずつ拡大していった。
しかしながら、規模の拡大はやがて、会館職員を中心とする当時の運営組織を窮地に追い込んだのも事実だった。そのため第20回からは、民間の若手演劇関係者を中心に機動的な運営委員会を新たに設置し、企画立案と運営実務を会館と共同で行うことになった。この“民活”による運営方法の改良を機に、演フェスは大きく転換する。参加団体総出でフェスティバル本来の祝祭性を高めるため、基幹の「公募プログラム」は従来のコンクール形式を廃止。代わりに、将来有望な若手演劇人の舞台成果を競うコンクール部門「Kyoto演劇大賞」(第22・24回)を独立させた。加えて、プログラムの多彩性を求めて新たに導入されたのが、公募によらず府内実力劇団・中堅劇団をピックアップした「実行委員会企画」(第20・21回)や、一般府民参加型の合同創作劇「創造公演プログラム」(第23・25回)など。同時に、幕間の会場を盛り上げる一種のフリンジ「ロビー・プログラム」(第20回〜)と、人材育成に向けて中学・高校演劇コンテストの優秀校を招く「招待公演」(第20回〜)を恒常化した。一方、舞台の外では、俳優や舞台スタッフの技術向上・古典芸能の実演体験・学校演劇指導者育成に関する各種ワークショップや、演劇史の講座なども、「プレイベント」(第20回〜)として毎年メニューを変えながら開催している。さらに近年は、「サポーター派遣」(第24回〜)と称し、本番の数ヶ月前から、府内各地の参加団体稽古場までアドバイザーが出向くアウトリーチ活動にも着手している。
確かに、参加劇団の多くがアマチュアのため、演フェス本番公演の水準については批判を甘受すべき余地がある。そのため今回、近畿一円の実力劇団を選りすぐって集結させるべく、コンクール部門を「新・Kyoto演劇大賞」(仮称)に刷新した(第26回以降隔年予定)。この企画は、これまであまり手が回らなかった観客の開拓も視野に入れる。元々貸し館である文化芸術会館の機能も加えれば、おそらくこれで、自治体が提供できる演劇関連の事業として、基本的な企画はほとんど網羅しているといえよう。
近年、本番開催中はもとより、年間を通してなんらかの演フェス関連行事が常に催され、会館に立ち寄る演劇創造者や愛好家が絶えることはない。すでに演フェスは、単に年に一度のイベントという「演劇祭」の域を超え、会館を拠点とする日常的で永続的な文化事業に変容しつつある。これが実を結び、また、その過程で蓄積される企画運営ノウハウが事業モデルとしてさらに精度を高めるなら、「公共ホール」を舞台として各地で繰り広げられる「演劇祭」や、「公共ホール」のあり方自体にも、新たな刺激を提供できるにちがいない。(むくひら・あつし/Kyoto演劇フェスティバル運営委員長・大阪工業大学)

●演劇の教育と俳優の養成 (3)菊川 徳之助
わが国には国立の演劇学校も俳優養成機関も設置されていないため、演技のレベルが他国より低く、魅力ある俳優も生まれない、という演劇関係者からの呟きがある。劇団の付属養成所や小規模の俳優学校の教育に頼らざるを得ない現状では、施設や講師陣の環境を十二分に整えることは難しいでことであろう。かつては、劇団俳優座の養成所から幾多の俳優が生まれ、幾多のスタジオ劇団がつくられ、新劇界の環境が活性化された時代があったが、一九六〇年代以降の演劇環境が、演劇表現それ自体と共に俳優の演技をも混沌とした状況の中に追いやって行ったためか、多種多様の、ナンデモありのカオスの状況に現在はあると言えようか。勿論、アングラ・小劇場演劇という新しい演劇の出現があったのは確かであるし、そして、受身の俳優の肉体ではなく、血が漲り躍動する肉体を求める俳優の出現もあったが、21世紀に来て混沌は質を変えながらも深みへ入って行っているようだ。それでも、俳優の養成機関については、今という時を見つめて、真剣に深刻に、心ある人は考え始めている。新国立劇場でも俳優養成のための試験的な試みが最近なされていた。
現況を深く考えれば、学校教育の中に演劇教育を入れる必要性を強く感じる。だが、現状は気の遠くなるような状況ではある。
周辺に眼を向ければ、例えば、高校の先生が学校で生徒に教えるためには、教員資格、つまり教員免許なるもの——教職が必要である。が、教職課程を修めて先生になる制度の中には、<演劇>の教員免許は無いのである。幼稚園や小学校などの教員を養成している大学である教育大学においても、音楽や美術などの教員養成課程はあっても、演劇に関係するものは設置されていない。また、私の勤務する大学においても、文芸学部という中に、文学科(英語英米文学専攻、日本文学専攻)、文化学科、芸術学科(演劇芸能専攻、造形芸術専攻)とあるが、これらの専攻の中で教職課程がない専攻は一つだけである。それが演劇なのである。他大学で演劇専攻の中に教職のある大学はある。しかし、その免許の種類は、国語の免許が主なものである。高校以下に演劇の授業を設置したくても、ドラマティチャーが存在しないのである。それ故、演劇科を設置していても、専任の演劇担当教諭は居らず、非常勤の先生で補われるということになる。
幸いにしてというのか、大学の先生は無免許で教授になれる。大学の先生の資格は、本人の教養力や教育力を学問(専門分野)の業績でみることになっている。ところが、演劇大学がないのだから、演劇教育の業績を持った先生候補者はほとんどいない。学問的に業績のある人は少しいても、実践的に(実技を)教えられる人は皆無に近い。この十年あまりマスコミにも話題として大きく取り上げられたことであるが、演劇専攻を設置する大学に、現場の演劇人、多くは現役の劇作家や演出家が続々と大学の教員に採用されていった。専門分野の業績は充分ある人たちであるが、学問・教育には必ずしも業績と実績があるわけではない。ただ、近年は劇作家、演出者、劇団のリーダーを兼ねている人が多いから、結構指導力はある。学生も現場の演出者などに身近に触れ、指導を受けられるのであるから、授業の充実感は少なからずあるだろう。
しかし、演劇人と教育者という二重の立場がうまく融合できるかどうか——個人差があるとしても——という問題もある。それよりも、現場から迎えられた人が、大学の教育に時間を取られて、現場の仕事が出来にくくなる。大学は一人の優秀な演出家の才能を現場から奪ってしまう結果を招くこともある。演劇教育をする大学の教員像とはいかような姿を持ったものが理想なのか、を追い求める必要があるであろうし、また、教員の養成をする教育大学に何故に演劇教員を養成する教育課程が設置されないのか、文部科学省に問いかけることも必要であろうが、国立の演劇大学が存在しないこと、国立劇場に俳優養成機関がないこと自体に驚きをおぼえなければならないだろう。しかし、演劇とは、もともと、制度の外にあるものであり、ハングリー精神こそ演劇芸術を育てるエネルギーの源であるという考え方に立てば、大学のような教育機関は余分なものであるということになる。ましてや、高い授業料の払える選ばれた学生だけが行けるような場所(大学)では、演劇を欲する人間がある範囲に限られてしますという危険性がある。俳優養成はやはり劇団付属の養成所などに任せた方がよいということになりそうである。が、大学は広く学問が出来る環境にあり、ただ専門的な俳優の技術のみをマスターするのではなく、教養を見に付け、語学や外国文化を学び、人間としての深い知力を養い、培える上で演劇の知を獲得できる場所である。真の心深い人間を描き出せる俳優なり演劇人を育成出来るのは、大学の演劇教育が最適に思われるのだが、・・・だが、大学の演劇教育にも問題はまだまだ山済みにある。 (きくかわ・とくのすけ 近畿大学演劇専攻教授)

■海外演劇紹介●三代目の北京人芸『雷雨』瀬戸宏 北京人民芸術劇院が今年曹禺『雷雨』を再演した。1954年の初演以来三代目になる『雷雨』上演である。報道によれば、7月22日から上演が始まっている。私はこの夏も北京を訪ね、8月7日にこの『雷雨』を観ることができた。満席ではなかったが、約八割の入りで、北京人芸『雷雨』が今日も一定の観客吸引力をもっていることがみてとれた。
1934年発表の『雷雨』は、周家という裕福だが封建的要素が色濃く残る資本家家庭の崩壊を描いている。ある夏の日の午前から劇が始まり、劇の進行過程で周家をめぐるさまざまの問題がしだいに明らかになっていく。そしてその日の深夜、劇の最後で矛盾が爆発し登場人物のうち三人が死に二人が発狂するという悲劇で幕がおりる。イプセンに代表される近代劇と同質の作品である。『雷雨』は中国話劇の成熟を示す指標的作品として扱われ、今日まで上演回数が最も多い劇でもある。
北京人民芸術劇院は1954年に『雷雨』を初演している。演出は夏淳。夏淳演出の特徴は、登場人物の個性の表現に重点を置き、写実に徹したことである。舞台装置は1920年代の資本家や下層庶民の家庭を忠実に再現したものを用い、照明・効果音も自然状態に近い。中国の話劇によくある劇のクライマックスで情緒的な音楽が流れたり原色の派手な照明があたったりするあざとさは、この夏淳演出『雷雨』にはない。演出家の自己主張を抑え、戯曲の内容を忠実に舞台で再現しようとする演出手法の典型的な例である。 この『雷雨』上演は成功し、以来北京人芸は夏淳演出によって『雷雨』を上演し続けている。夏淳演出『雷雨』は、老舎『茶館』(焦菊隠演出)とともに北京人芸の上演風格形成に重要な役割を果たした。1979年5月の『雷雨』再演は、文革終結直後の名作劇上演の最も早い例の一つとなった。しかし、この時の俳優は基本的に一九五四年以来の俳優が演じていた。二代目の『雷雨』上演は1989年10月で、俳優が一新している。夏淳は1996年に逝去したが、北京人芸はその後も夏淳演出による『雷雨』上演を続けている。そして、2004年が『雷雨』発表70周年、北京人芸『雷雨』上演50周年にあたるため、北京人芸は再び俳優を一新して『雷雨』を上演することにしたのである。今回も演出は夏淳とされ、顧威が再演演出としてプログラムに名を連ねている。
今回の三代目『雷雨』上演の意義はどこにあるのか。
まず、北京人芸という劇団が五十年前の演出スタイルを基本的に保持し、今後もそれに従って『雷雨』上演を続けることを宣言したことである。これは、北京人芸が自己の上演伝統を今後も保持し続けるという宣言でもある。日本演劇界では、一人の俳優が同一演目を上演し続けることは、森光子『放浪記』などいくつか例があるが、代を越えての同一演目、同一演出上演は文学座『女の一生』しか思い浮かばない。中国話劇界でも極めて珍しい。北京人芸では、同じ例として老舎作、焦菊隠演出『茶館』があったが、1999年の首都劇場リニューアルオープンを機に演出家が林兆華に変わり、演出処理も当然変化している。
もう一つは、現在の中国演劇界は八十年代の実験演劇以来さまざまな手法の上演がおこなわれているが、その中で純写実による「伝統話劇」上演をおこなう意義である。私は、中国の一部の演劇人がいまだに持ち続けている話劇がすべてという発想には同意しないが、逆に話劇の伝統を完全に放棄してもいいとも思わない。伝統があるからこそ、実験が可能になるのである。北京人芸は今日中国最高の劇団という栄誉を獲得しているが、それはこの「伝統」の存在と不可分であると思われる。
もっとも、夏淳演出踏襲といっても、細部の手直しは夏淳健在中から行われてきた。今回は、開演直前や休憩時間に雷鳴の効果音を流し、幕切れを一人立ちすくむファンイーの姿で終わらせた。これは、ファンイーを演じたのが第二代からただ一人残ったコン麗君であることとも関係があろうが、まるでファンイーが主人公のようになった。第二代『雷雨』では自殺する周萍のピストルの音を聞いて皆が駆けだし無人の舞台で終わらせ、第一代では一人呆然とソファに崩れ落ちる家長の周朴園の姿で終わっていた。資本家家庭の崩壊としてみれば、第一代の処理が最もよく、ファンイーが主人公というのは、劇構造からいってやや無理があると思う。
率直に言って、私が観た日の上演成果は決して理想的なものではなかった。特に魯貴(王大年)、四鳳(白薈)、侍萍(王斑)がよくない。まだ俳優が不慣れなのか、別の原因があるのか。純粋な話劇、近代劇上演であるこの北京人芸『雷雨』は、今日の中国演劇界で貴重である。今後、より練り上げた舞台を作ってほしい。
(せと・ひろし/摂南大学・演劇評論・中国現代演劇研究)*カタカナ人名は活字版では漢字だが、ネット上で示せないためカタカナで代用

●定期購読のお願い『あくと』は一般の書店では販売していません。大阪の小劇場ウィングフィールド(電話 06-6211-8427)でも購入することができますが、『あくと』を確実に入手するには、定期購読が一番です。購読料は一年間1000円(送料含む)です。申し込み先553-0003 大阪市福島区福島6丁目22番17号 松本工房気付 国際演劇評論家協会(AICT)日本センター関西支部 電話 06-6453-7600 ファックス 06-6453-7601郵便振替口座 00950-4-277707 (口座名:国際演劇評論家協会関西支部)
●投稿規定『あくと』三号より、下記の要領で一般読者からの投稿を募集します。編集部で審査のうえ、優れたものを『あくと』に掲載します。・投稿内容は劇評、時評・発言、海外演劇紹介、書評などジャンルを問いませんが、関西地区上演の舞台対象の劇評を歓迎します。・枚数は5枚(2000字)が基準です。・原稿料はお出しできません。・投稿締切は以下の通りです。『あくと』四号(05年2月初め発行)掲載・・04年12月20日締切『あくと』五号(05年5月初め発行)掲載・・05年3月20日締切『あくと』六号(05年8月初め発行)掲載・・05年6月20日締切・投稿は電子メールでのみ受け付けます。タイトルに【『あくと』投稿原稿】と明記してください。原稿には、氏名(筆名使用の場合は本名も)、連絡先、職業(所属先)を明記してください。・投稿宛先 ir8h-st@asahi-net.or.jp 瀬戸宏
●編集後記 『あくと』3号をお届けする。非会員の岡田文江、椋平淳両氏からは、大阪労演、京都演劇フェスティバルについての貴重な原稿をいただいた。すでに記したように、『あくと』は二号以降は、発行後まず目次をAICT日本センターのサイトに掲載し、少し間を置いてから本文全文を掲載している。サイトにはアクセス解析機能があって、どのページに一日何人アクセスしたかがわかるのだが、『あくと』は連日コンスタントにアクセス数を確保している。六月一日のサイト再開と同時に全文掲載した創刊号の読者はすでに千人近くに達し、現在もアクセスがやまない。『あくと』に対する関心の強さをみる思いがした。 今号は、藤原央登氏の投稿劇評を掲載することができた。近畿大学三年在学中という。私と市川明支部長が目を通し掲載を決定した。『あくと』は、新しい批評才能も積極的に応援していくので、関心のある人は別項の投稿規定に基づき力作を寄せていただきたい。 私事だが、元新宿梁山泊・金久美子氏の急逝に衝撃を受けた。日本小劇場演劇系初の中国公演となった『人魚伝説』上海公演でのジェニーが今も目に浮かぶ。一昨年近鉄小劇場での扉座『ハムレット』にガートルートで出演し好演していたのが、私の観た最後の舞台になってしまった。もっと活躍してほしい人が突然いなくなってしまうのは、なんとしても哀しい。(瀬戸宏)

act3号・前半

■巻頭言 大阪のど真ん中に劇場ができる時瀬戸宏 この十月、大阪で劇場があいついでオープンした。インディペンデントシアター2nd、アリス零番館-IST、精華小劇場である。このほか、大阪では今年に入って、ウルトラマーケットも開場している。二〇〇二年に関西地区の小劇場演劇界に長く貢献してきた扇町ミュージアムスクエア、近鉄劇場・小劇場の閉鎖があいついで発表され、関西小劇場演劇界の危機意識が一挙に高まり、関西の演劇人によって「大阪のど真ん中に小劇場を取り戻す会」が作られるなど、大阪にふたたび小劇場を取り戻す運動が続けられてきたが、今回の開場ラッシュともいえる状況は、そうした運動の一つの帰結でもある。各劇場の場所は、歴史的地理的にみれば、文字通り大阪のど真ん中にある。
国際演劇評論家協会(AICT)日本センター関西支部は、この運動にいちはやく支持を表明した。私自身も、これらの運動をもちろん支持し「取り戻す会」の会員にもなった。しかし、今だから言うが、私がこの運動に一抹の疑問を感じていたことも事実である。
まず、閉鎖された劇場の関西小劇場演劇界での位置が極めて大きかったにせよ、大阪にはほかにも小劇場はある。そしてそれらの劇場のスケジュールが超過密で、新たに劇場を作らなければ上演活動自体が不可能という状況かというと、決してそんなことはない。 もう一つ、近年成果をあげている東京の小劇場は必ずしも東京のど真ん中にはない。今日では演劇のメッカになってしまった本多劇場も、開場当時はずいぶん遠い場所という印象だった。ベニサンピット、シアターΧなども、従来の観劇習慣からははずれた場所である。当初は辺鄙な印象を観客に与えても、強く記憶に刻まれる名作が繰り返し上演されれば、やがてそこが観客にとってなくてはならぬ場所になっていくのである。
精華小劇場で、オープニング記念に二つのシンポジウムが開催された。「関西演劇人会議’04『劇場の話をしよう』」(10.28)と「大阪のど真ん中に小劇場は取り戻せたか?」(10.31)である。前者では、各劇場の実情が担当者から直接語られ、たいへん参考になった。後者は、所用で最後の部分にまにあっただけだっが、そこで深津篤史が、これからだ、という発言をしているのを聞いて安心した。 大阪の各劇場の将来は、まさにこれからである。本誌も、演劇批評の立場からこれらの劇場と併走していきたい。
(せと・ひろし AICT日本センター関西支部事務局長、『あくと』編集長)

■劇評●また会うことの歓び    -劇団八時半『そこにあるということ』とマレビトの会『蜻蛉』出口逸平
歌舞伎や文楽ならともかく、現代演劇で同じ作品にもう一度巡り会うチャンスは、決して多くはない。それがつねに「新しさ」を求められる現代の宿命だといえばそれまでだが、どこかそのさまは息せき切った馬車馬のようでせわしない。私はなにも「新奇さ」を求めて劇場に足を向けはしない。むしろ以前見えなかったものが見えてくる、その「発見」の瞬間を楽しみたいと思うことがある。この夏は、そんな二つの舞台に出会った。
鈴江俊郎作・演出の『そこにあるということ』(8月25-29日 アトリエ劇研)は、96年2月(京都府文化芸術会館)と97年1月(ウイングフィールド、岡山県総合文化センター)に続く再々演となる。入ってまず劇場の様子に驚かされた(舞台美術 長沼久美子)。狭い舞台に何本もの柱が立ち並び、客席はその舞台を見下ろす急勾配の高さにしつらえられている。ミニ・コロセウム、あるいはリング場といえばいいのか。観客はこれから始まる闘いを間近に見物するという格好なのだ。そう、それはまさに男女の闘いの場となるはずであった。同時に三人の女性を妊娠させた男。当然男はそのだらしなさを糾弾される。しかし女性たちはただの被害者ではない。それぞれの女性と男との関わりが明らかになるにつれて、男を含めじつは皆が同じように空虚感を抱えており、だからこそ互いに「そこにある」ことを確かめようと関係をもってしまうという道筋が浮かび上がってくる。初演では男の前から女性たちが消え去り、一人残された男が「皆、同じなんだ。そうでもしないと、そこにはなにもないんだ」とつぶやくシーンで舞台は閉じられた。ところが今回は「なにもない」ことに耐えきれず、男が部屋じゅうに物をぶちまけ暴れまわる。ほかに空虚を埋めるすべを持たないその姿は、狂おしくもまたやるせない。そこに去っていった女性たちがもどってきて、今度は彼女たち全員で雑魚寝するという場面が付け加えられた。この新たな結末によって、「孤独であることの共感」とでもいうべき作品のモチーフがより一層印象付けられることになった。中村美保、金城幸子、加納亮子(桃園会)が三者三様の女性像を鮮やかに描き出して、劇のリズムを作った。
松田正隆作・演出の『蜻蛉』(9月15-20日 アトリエ劇研)もまた、99年1月(ピッコロ・シアター、新国立劇場小劇場)を受けた再演である。ただし初演が岩崎正裕(劇団太陽族)の演出であったのに対し、今回の舞台は作者自身の手による。そこにやはり大きな違いが生まれていた。題は『源氏物語』の巻名にもとづく。宇治十帖の世界から中君と浮舟の姉妹、匂宮と薫の四人を拉しきて、彼等が綾なす複雑な恋愛模様を現代に取り込んだ按配だが、細部はまったくの創作である。初演では、新たに付け加えられた女生徒とその兄、さらに姉の恋人須永の妻にそれぞれ劇団太陽族の役者を起用し、彼等に関西弁を使わせていた。それによって舞台に日常的なリアリティーの色合いが強まり、独身の姉の老いへの怖れなどはストレートに感じられるものの、失踪して亡霊となる妹といった作品の非日常的要素がうまくかみあわないきらいがあった。今回は装置も簡略化され、方形の舞台の周り四方がいわば能の橋掛りとなり、そこを登退場する役者が摺り足で歩むというように、全体が能舞台のイメージで統一されていた。台詞も初演に比べかなり刈り込まれ、役者の演技力にばらつきはあるものの、姉妹のありようを軸に、生と死、現在と過去、現実と非現実とが交錯する作品の夢幻能的構造が際立つ、じつに端正な舞台となっていた。
いうまでもなく再演はただの繰り返しではない。今回のように演技や作品の練り直し、あるいは演出への意欲など、観客のみならず劇作家や劇団にとっても、再演は刺激的な体験となりうる。
また経済的負担の面からいって、再演はむしろ小劇場でこそ実現可能な試みだといえよう。「新作」への強迫観念が薄れたいま、こうした試みが小劇場の果たす役割の一つとなるのではないか。むろんそのためには再演に値する演目を目利きし、上演をサポートする体制が必要だが、ウイング・フィールドやアトリエ劇研といった関西の小劇場にはその実績もある。これからの再演の試みに期待している。(でぐちいつへい/大阪芸術大学)

●樹霊がラフレシアに降りてきた/『耳水』柳井愛一
都市伝説に、アルカイックな語りの要素を持たせた形式の、いつもながらの楽市楽座の舞台。しかし今回は微妙な変化。これはちょっと注目に価する。余分なものが削ぎ落されていて、どうして彼らがこのシチュエーションをモチィーフにした作品にこだわり続けてきたのかがはっきりと見えてきた。そして、劇団のキャッチフレーズである“ゑんぎのサーカス”のサーカス的な部分を初めて個人的に楽しむことのできた記念碑的作品。
鏡板の老松の代わりに舞台後方に、樟の大木が鎮座している。樟の枝から神社の鰐口の紐のような鳴り物の付いた布が舞台の四方に垂らされている。野外円形劇場ラフレシアが大木に覆われていることが分かる。夜と樟に覆われた天井のない野外舞台。ロケーションはまず最高。
雑踏シーンからなし崩しに始まった舞台に紛れ込んできた男(西田政彦)が大した理由も無しに、その辺りに落ちていた鶴嘴で穴を掘り始める。どうやら廃ビルの中での出来事らしい。男を追いかけてきた女、ヒカル=クラシ(小室千恵)との会話で、女と喧嘩をした甲斐性なしの男がむしゃくしゃして意味もなく始めた行動だと分かる。男は塵芥と一緒に眠っていた物語まで掘り起こしてしまった。
夢とも現とも判別の着かない人々が闖入してくる。耳と口の不自由な老婆(北村チコ)、目の不自由な中年・ヒゲ男(雪之ダン)、巨大な女・マダム(南田吉信)や娼婦達が登場。彼らはこの時点ではまだ単なる頭のおかしなホームレスにしか見えないが、やがて暴力的な物語を語り出す、奇妙な、幽幻能の前シテ達だということが分かるだろう。
マダム達は突然男に襲いかかり、男の目や耳を奪い取る。ヒゲ男は目を、マダムは背骨を。しかし、老婆は耳を前にして躊躇する。-パントマイマー兼ギタリストの北村の演劇的でない芝居が印象的-。ヒカルはいつの間にか娼婦達の一員・クラシに変わっている。沈黙していた物語を再び始めるためには俗世的な身体を取り外すことが必要なのか、それとも畏しい大地母神の物語=供儀への捧げ物なのか、男は解体されてしまう。しかしここではまだ物語る口が登場していない。そして老婆が所有を保留した耳の所在も定かでない。
男の掘っていた穴から泥水が沁み出し、満ちてくる。マダムは泥水の溜まった穴にソープ・ランドのバスタブの様に浸かり、ヘルスセンターのジャグジーの様に寛ぐ。彼女?は娼婦達を観客に紹介し、幻を甦生させる。思い出に縋る初老のホームレスが曾ての女郎屋の女主人として甦える。南田の不明瞭な言葉が、何故か夜風の中で生き生きと輝ていた。 ここで口=詩人マルテ(佐野キリコ)が登場。老女が受け取るのを拒んだ耳=カタツムリ女=カタビラ(朧ギンカ)もやがて現れる。
マルテは吟遊詩人から語り部=口に変化していくことにより、その名前が指示する文学的な齟齬感を払拭することができた。-どこか垢抜けないバタ臭さが楽市楽座のウリなのかもしれないのだが-。カタビラ、巨大な貝殻=耳を背負って現れた女は語られる以前にナニカを聴いてしまう存在。口と耳が邂逅する時、幻の場所の記憶がやっと再生される。樟の枝に仕込まれたスプリンクラーから降り注ぐ雨の中での、文字通りの、濡れ場は妖しく魅惑的。-このシーン野外劇の醍醐味が満喫できる-。
当然のことながら、残酷で陳腐な日常が戻ってくる。目=ヒゲ男が登場し語られた物語の裏側を暴露する。視ることの残酷さ故にヒゲ男は盲目の放浪者として罰せられているのか?
カタツムリ女=カタビラは壊れてしまい、自らをヘビの化身だと主張する。娼婦達は巫女の様に舞台四方の鰐口?を鳴らす。語り部=マルテや巫女達=娼婦達の存在全てを受けて真のシャーマンとしての自己を主張する。ここで縄文のヘビ=神やドリームタイムの虹蛇=原初の創造神への回帰という作品のテーマが現れる。しかしそれは零落した神話、不可能な物語でしかない。かっての神話や芸能の様に語ることによってなにかを豊饒にし、救済することはできない。けれど語ることによって顕現するなにかがある。悪夢としてではなく、都市の底を流れる謎の水脈として語り続けられることを要求する物語。そんな水脈を楽市楽座はどうやら見つけたようだ。喝采。
ひとつの土地の持つ神話的な力を感じ、滅びた者達の幽けき声を聴く。そんな無謀な作業のために楽市楽座は悪戦苦闘を十数年間してきた。それを労って、樟の大木の樹霊が円形劇場ラフレシアに降りてきて、サーカス的祝祭を実現させた。と言ってしまえば彼らに叱られるか?。難を言えば、少し浪花節的なロマンが鼻に就くが、ま、サーカスはロマンティックなものだから、良しとしよう。
楽市楽座 作・演出/長山現中之島公園剣先広場・特設野外円形劇場ラフレシア・第四回大阪野外演劇フェスティバル参加作品、9月24日(金)所見(やない・あいいち/演劇ライター)

●ガラスの靴が砕けた後は—— 劇団青い鳥「シンデレラ・ファイナル」畑 律江
今さらだな、と思う人がいるかも知れない。それを承知で今一度、書き留めておこうと思う。80年代、女性たちの集団創作から生まれ、多くの小劇場ファンに支持された劇団青い鳥の「シンデレラ」である。今年9月、この作品が再び舞台に上った。82年に初演、85年に再演されて以来ずっと封印されてきたが、劇団が30周年を迎えたのを機に、実に19年ぶりに上演することになったという。しかし今回のタイトルは「シンデレラ・ファイナル(最終章)」である。なぜか。その理由が知りたくて、MIDシアターに足を運んだ。
骨格は同じだ。1人でアパートに住む哲子が、突然姿を消す。行方を捜すためにやって来た友人の考子が、哲子の部屋にあったぬか床をかき回すと1本のクギが抜け、なぜかそこにミステリーゾーンが現れる。その世界で、考子は哲子によく似たシンデレラに出会う。シンデレラはガラスの靴を大切にしていて、床を磨きながら「何か」を待っている。だが「あんまり長いこと待っていたものだから、それが何だかよくわからない」と言う。 アパートの一室とシンデレラの部屋、宮沢賢治の童話のカエルたちの世界、事件を捜査する刑事たちの部屋。これらを行き来する構成も同じ。だが大きく変わった点が一つある。
80年代のシンデレラは最後に、自分はみすぼらしいシンデレラなのだと舞踏会で正直に打ち明けるべきだったと話す。そして彼女がガラスの靴にまさに足を入れようとする、その瞬間で物語は終わる。だが、21世紀のシンデレラは違う。ガラスの靴を投げ捨ててしまうのだ。靴の破片は、きらきらと輝きながら世界中に散らばっていく。
誰かが探しに来るのを待つうちに、人生は刻々と過ぎてしまうんだよ。80年代のシンデレラは、そう告げた。ガラスの靴は「女性が自ら外に出て行く自由」の象徴とも解された。だが21世紀のシンデレラは、ガラスの靴自体を砕いてしまう。ガラスの靴さえあれば再び王子の待つ舞踏会へ自分から出かけられたのかも知れないのに、その可能性をも捨てる。誰かに依存する幸せそのものを捨てたのだ。彼女はもはやシンデレラではない。つまり、この最終章は「シンデレラ的なるもの」への、最後の決別のメッセージだったのだ。
自分は本当は何がしたいのか。何が欲しいのか。劇団青い鳥のテーマはよく「自分探し」だと言われた。役割に縛られ、他者の事情に振り回され、自分の中からわきあがる素直な欲望にさえ耳を傾けることができなかったかつての女性たちにとって、それは切実なテーマであった。だが現在はどうか。「自分探し」は当時の新鮮さを失いつつあり、今やそれは、失業やリストラで自分の居場所を見失いがちな中高年男性のテーマとしてよく語られる。そして若者の方はというと、その心の大部分を占めているのは「自分探し」よりむしろ、生きていくことへの不安のように見える。望んだところで世界は変わらない。そう考える若者も多い。
80年代、「シンデレラ」に感動した観客の多くは、「個人的なことは政治的だ」という発想——家庭や職場で起こる悩みは、個人的なもののように見えて、実は社会の権力構造と分かち難く結びついているという認識——を、大なり小なり共有していたように思う。だからこそ、自分の心の内側へ入っていくことは、同時に自分を取り巻く外部を考えることでもあり得たのだ。だが、たとえば精神科医の香山リカ氏が指摘しているように、最近の人々が「自分にかかわりのある身近な問題への関心のみに基づく実用主義(ネオリアリズム)」に急激に傾斜しているとするなら、「自分探し」も、「シンデレラ・ファイナル」が見せた潔い決別のメッセージも、かつてのような広がりを持っては受け止められにくいかも知れない。そんな思いにとらわれた。時代は、確かに変わってしまった。
だが、それならば「シンデレラ・ファイナル」に輝きを感じなかったというと、そうではない。むしろ、この劇団の表現手法の心地よさを、改めて発見することができた。女性の役者が男装したり、華やかに踊る若手小劇団など、今や少しも珍しくない。だがそれらが多くの場合、「あなたにこんなことができる?」と誇示する姿勢を感じさせるのに対し、青い鳥の演技やダンスには、「きっとあなたにもできるはず」と、見る者を静かに支え、立ち上がらせる優しさがある。楽しいが、媚びていない。優雅で、毅然としている。
劇団青い鳥は30年続いた。長く続けることが小劇場の目的だとは決して思わないが、それでも、しばらく芝居から離れていた人も含め、今回、初演メンバー3人が再び舞台に上がったことはやはり貴重だ。彼女らも観客も年齢を重ね、ガラスの靴はついに粉々になった。そして閉塞感の漂う2004年。粗末なアパートの一室から、裸足の哲子は再び歩き出したのだ。青い鳥の表現が、また新たな文脈を与えられて輝くことを期待したい。    (はた・りつえ/毎日新聞学芸部編集委員)

●光る男優陣の健闘 ——劇団大阪『日暮町風土記』——                       市川 明
永井愛は旬(しゅん)の作家だ。一日に2本彼女の作品を鑑賞することができた。昼に大阪労演で俳優座の『僕の東京日記』を、夜に劇団大阪の『日暮町風土記』を見た。『東京日記』のほうは71年の東京が舞台。学生運動が華やかだった時代を、アパートの住人の生活から垣間見させる。ジョーン・バエズやボブ・ディランの歌声もなつかしい。永井愛はなんと女性をうまく描いていることか。主人公は自立を求める大学生、原田満男(蔵本康文)なのだが、教育ママの母親(片山万由美)や下宿のおばさん(中村たつ)、生活と芸術の間を揺れ動く新劇女優(美苗)などが縦横に活躍する。おばさんたちを通して「神田川」のにおいがよみがえってくるのだ。
『日暮町風土記』はかつての繁栄の面影もない町が舞台。百四十年続いた本通りの菓子屋「大黒屋」が取り壊されようとしている。まず石野実の装置が目を引く。大きな柱を渡した木組みの家、格子戸から漏れる光と井戸。観客はまるでこの古い民家に座って芝居を見ているような感覚になる。
生活のために店を売り払い、国道沿いに新しい店舗をオープンしようとする清家夫妻。「日暮町の歴史を残す」家の解体に反対する「町並みくらぶ」のメンバー。開発か文化財の保護か、それはエコノミー(経済)かエコロジー(環境)かという常に問い直され、論争され続けてきた人類永遠のテーマである。だが永井はこの作品をシリアスな社会劇ではなく、庶民が織り成す喜劇として描いている。演出の熊本一も軽いタッチのラブコメディに仕上げている。すべての登場人物がどこかでカップルになっており、それが笑いの原点なのだ。
「町並みくらぶ」の代表、堀江波子(中村みどり)が大黒屋に直談判に押しかけるところから芝居は始まる。そこへカメラを抱えた旅行者の山倉(北尾利晴)が現れ、「ただものではない」この家を写真に収めたいというので、波子はいっそう発奮する。彼女は家の取り壊しを一ヶ月伸ばし、実測調査をさせてほしいと主の清家勝年(斉藤誠)に頼み込む。しっかり者の妻(和田幸子)と強引な波子の間をピンポン玉のように浮遊する勝年。彼はどうやら町役場のすみれ(名取由美子)とも恋仲らしく、二人の女性の間を揺れ動いている。斎藤誠が弱くてお人好しな主人公を好演している。この人物だけが古い家か新しい店かという葛藤を見せてくれる。
与えられた一週間という期間内に、家屋の間取り図を完成させようと「くらぶ」のメンバーが集まってくる。ミカン農家の不二男(高尾顕)や事務員の明日香(梅田優子)。明日香が恋する勝年の息子光太(中村暢宏)、明日香に思いを寄せる不二男の息子力也(熊谷次朗)などがからんで、日々の生活、この町の暮らしがさりげなく語られていく。旅行の日程を変更して町に残った一彦や、東京から駆けつけた波子の姪の涼(岡部紀子)らも加わり作業は続けられる。家への思いいれを断ち切れない勝年も姿を見せ、町や家の歴史・歳月が浮かび上がる。このあたりは永井愛の優れた作劇術を感じさせる。
やがて一彦の正体が明らかになる。建設会社のバリバリの営業マンで、古い木造建築を見つけては建て替えを勧め、町の再開発のために奔走してきたというのだ。最終場面は波子と一彦の会話である。波子は「あなたはここで別の心に、もう一つの自分に迷い込んだのだ」と慰める。一彦は「日暮町は開発に適さないと報告する」と言い残し去る。波子が「帰ってきなはいや!あんたは迷い子になったんじゃけん!」と呼びかけ、一彦の作業ノートを胸に押し当てるところで幕となる。それにしてもなんとセンチメンタルでメロドラマ的な幕切れだろう。ここまで歌い上げられるとどうも寒くなってしまうのだ。ブレヒトだったらまったく違う結末にしていたろうなとふと思った。
男優陣は勝年をはじめ全員が大健闘である。不二男を演じた高尾は素朴でひょうひょうとした味を出していたし、息子力也の熊谷も振られ役の青年の息遣いが感じられ、ともに大きな笑いを得ていた。これに対して女優陣はベテランの芸達者を揃えているが、パターン化され、誇張された人物になりがちだ。笑いのポイントが先に見えてしまい、笑いの振幅が狭められたのは残念だった。そんな中で梅田のストレートな演技が印象に残った。
この間数々の優れた作品・上演でヒットメーカーとして不動の地位を確立した永井だが、『日暮町』は作品としては弱いように感じる。作品にも人物にも大きな葛藤は見られず、みんなが古い家の解体という逃れられない運命を了解し、懐旧の情を述べ合うドラマのように思えるのだ。一彦の存在もお涙頂戴的な結末を引き出すためだけのように見える。作品の大きなテーマは後景に退き、庶民の生活臭だけが前面に出てくる。それはそれで見所があり、笑いもあるのだが、どこか物足りなさを感じてしまうのだ。[劇団大阪。谷町劇場、10月16日]               (いちかわ・あきら/大阪外国語大学教授、ドイツ演劇)
●売込隊ビーム「13のバチルス」知的パズルコメディという種類                                 藤原 央登 都市開発が進行するニュータウンそこの隔離シェルターが舞台である。シェルター体験として入ってきた男女。しばらくすると女性の一人(小山茜)が症状を訴える。まさかシェルター内にウイルスが侵入したのでは。誰が持ち込んだのか。ウイルス研究所の職員を交えてトリックと笑いと人間模様がひしめき合う。
コメディを主に上演する「売込隊ビーム」だが、今回の作品は今までとは同じように見えてちょっと違う。笑いの精度は上がったなという印象だ。もう少しストーリーを追っていくと、犯人探しをしている際中、突然、B(山田かつろう)が咳をしだす。芝居中なのに。役者の体調管理不足のせいだ。舞台袖でBは休憩を取り、また復帰する。すると、また違う役者も咳をしだしてしまう。そう、伝染してしまったのだ。咳をしているのは小山茜だけのはずが、いつしか役者全員に風邪がうつってしまう。舞台を中断し、舞台稽古の映像を流して、何とかその場をしのぐ。最後は、役者全員フラフラで無理矢理芝居を終わらせ、舞台監督の謝罪で舞台は終わる。
長くなってしまったが、役者たちは本当に風邪を引いていたわけではなく、それも芝居なのである。いわゆる二重構造の仕掛けになっている。
この「売込隊ビーム」や「ヨーロッパ企画」といった若い劇団の特徴としては知的パズルを取り込んだコメディと上演する事が多い。「ヨーロッパ企画」はずっとそのスタンスを続けている。その中に、「売込隊ビーム」が知的パズルコメディに参加した、といった方がいいかもしれない。
日本の現代演劇はその時代を代表する笑いの種類があった。70年代、つかこうへいを代表とするブラックユーモア、80年代、野田秀樹、鴻上尚史の疾走する軽やかな笑いといったのがそれである。彼らは決してただ単純に笑いという手法を採ったのではない。社会や風俗を半ばあきらめを持って見ていた。それゆえに批判する方法としてパロディ的な笑いを用いたのだと思う。パロディは、笑えば笑うほど、観客は虚無感を感じずにはおれない。なぜなら笑っていた対象はそっくりそのまま自分自身や、今の社会への批判となって帰ってくるからなのである。悲しみや真面目さをもって訴えるよりも、その方が、何倍にも生々しくリアルに世相を反映する写し鏡の効果を持っている。先人達はその事に気づいていたのかどうかは分からないが、70年代の政治の白熱した時代への「白け」ムードや80年代の終末感、絶望感といった世相もあって、抜群に支持されたのである。
それでは今現在はどうなのだろうか。笑いの部分で言えば明らかに頭打ちの状態であることは確かである。90年代「静かな演劇」といった言葉が使われた事によって、芝居の上演スタイルが派手さとは逆に、どんどん世界が縮小化した。その縮小化された世界から、世界へ発信されるメッセージを発するという上演スタイルが定着してしまった。笑いもそれほど過大にならず、添え物程度になってしまった。
それと、もう1つ、三谷幸喜の影響が大きいだろうと思う。彼によって、密室で起こる人間の刻々と変化していく心理と行動を描写するというシチュエーションコメディが同じく90年代に台頭する。三谷の劇世界も、縮小化されている。演出家の山田和也による「子供から老人にまで受け入れられるディズニーランドのような演劇」ということからも分かる。
この作品も典型的な三谷的コメディなのだが、知的パズルの要素があることによって、観客は、クイズをしているかのように楽しめる要素がある。いささか役者の演技が過剰なためおもしろいところが駄目になってしまったのは残念である。映像との対比を見せるアイデアはギャップがあればあるほど面白いので良かった。
開演前、後ろの女子高生が、友達に「今日風邪気味だから咳をしないように」と話していた。芝居の内容はおそらく知らないであろう。いざ本番になると、その人は我慢できずに何回か咳をしていた。面白いとはこういうことなのだと思う。偶然が偶然でなくなる時、この人の場合なら、咳をしてはいけない事をわが事の様に感じたはずである。そして、その事に気づいた私もすっかりこの世界にはまっていた。
今の時代、何事か積極的に事を起こすことが少なくなっている中、何かを向こうから仕掛けてもらうのを希望しているという事はないだろうか。わざわざ劇場に足を運んでいるのだから、楽しませて欲しいと思う観客が増えているような気がする。そういう観客は、こういうクイズ的な芝居はどう思うのだろうか。食い付くだろうか。食い付く行為すら面倒くさいと感じるのだろうか。犯人は「13のバチルス」の13を合わせたBというオチ。私は好きなのだが、どうなんだろう。(7月20日・HEPHALL) (ふじわら・ひさと/近畿大学文芸学部3回生)

舞台評論家たちによるユネスコ傘下の国際組織の日本支部です。