国際演劇評論家協会日本センター のすべての投稿

act3号・前半

■巻頭言 大阪のど真ん中に劇場ができる時瀬戸宏 この十月、大阪で劇場があいついでオープンした。インディペンデントシアター2nd、アリス零番館-IST、精華小劇場である。このほか、大阪では今年に入って、ウルトラマーケットも開場している。二〇〇二年に関西地区の小劇場演劇界に長く貢献してきた扇町ミュージアムスクエア、近鉄劇場・小劇場の閉鎖があいついで発表され、関西小劇場演劇界の危機意識が一挙に高まり、関西の演劇人によって「大阪のど真ん中に小劇場を取り戻す会」が作られるなど、大阪にふたたび小劇場を取り戻す運動が続けられてきたが、今回の開場ラッシュともいえる状況は、そうした運動の一つの帰結でもある。各劇場の場所は、歴史的地理的にみれば、文字通り大阪のど真ん中にある。
国際演劇評論家協会(AICT)日本センター関西支部は、この運動にいちはやく支持を表明した。私自身も、これらの運動をもちろん支持し「取り戻す会」の会員にもなった。しかし、今だから言うが、私がこの運動に一抹の疑問を感じていたことも事実である。
まず、閉鎖された劇場の関西小劇場演劇界での位置が極めて大きかったにせよ、大阪にはほかにも小劇場はある。そしてそれらの劇場のスケジュールが超過密で、新たに劇場を作らなければ上演活動自体が不可能という状況かというと、決してそんなことはない。 もう一つ、近年成果をあげている東京の小劇場は必ずしも東京のど真ん中にはない。今日では演劇のメッカになってしまった本多劇場も、開場当時はずいぶん遠い場所という印象だった。ベニサンピット、シアターΧなども、従来の観劇習慣からははずれた場所である。当初は辺鄙な印象を観客に与えても、強く記憶に刻まれる名作が繰り返し上演されれば、やがてそこが観客にとってなくてはならぬ場所になっていくのである。
精華小劇場で、オープニング記念に二つのシンポジウムが開催された。「関西演劇人会議’04『劇場の話をしよう』」(10.28)と「大阪のど真ん中に小劇場は取り戻せたか?」(10.31)である。前者では、各劇場の実情が担当者から直接語られ、たいへん参考になった。後者は、所用で最後の部分にまにあっただけだっが、そこで深津篤史が、これからだ、という発言をしているのを聞いて安心した。 大阪の各劇場の将来は、まさにこれからである。本誌も、演劇批評の立場からこれらの劇場と併走していきたい。
(せと・ひろし AICT日本センター関西支部事務局長、『あくと』編集長)

■劇評●また会うことの歓び    -劇団八時半『そこにあるということ』とマレビトの会『蜻蛉』出口逸平
歌舞伎や文楽ならともかく、現代演劇で同じ作品にもう一度巡り会うチャンスは、決して多くはない。それがつねに「新しさ」を求められる現代の宿命だといえばそれまでだが、どこかそのさまは息せき切った馬車馬のようでせわしない。私はなにも「新奇さ」を求めて劇場に足を向けはしない。むしろ以前見えなかったものが見えてくる、その「発見」の瞬間を楽しみたいと思うことがある。この夏は、そんな二つの舞台に出会った。
鈴江俊郎作・演出の『そこにあるということ』(8月25-29日 アトリエ劇研)は、96年2月(京都府文化芸術会館)と97年1月(ウイングフィールド、岡山県総合文化センター)に続く再々演となる。入ってまず劇場の様子に驚かされた(舞台美術 長沼久美子)。狭い舞台に何本もの柱が立ち並び、客席はその舞台を見下ろす急勾配の高さにしつらえられている。ミニ・コロセウム、あるいはリング場といえばいいのか。観客はこれから始まる闘いを間近に見物するという格好なのだ。そう、それはまさに男女の闘いの場となるはずであった。同時に三人の女性を妊娠させた男。当然男はそのだらしなさを糾弾される。しかし女性たちはただの被害者ではない。それぞれの女性と男との関わりが明らかになるにつれて、男を含めじつは皆が同じように空虚感を抱えており、だからこそ互いに「そこにある」ことを確かめようと関係をもってしまうという道筋が浮かび上がってくる。初演では男の前から女性たちが消え去り、一人残された男が「皆、同じなんだ。そうでもしないと、そこにはなにもないんだ」とつぶやくシーンで舞台は閉じられた。ところが今回は「なにもない」ことに耐えきれず、男が部屋じゅうに物をぶちまけ暴れまわる。ほかに空虚を埋めるすべを持たないその姿は、狂おしくもまたやるせない。そこに去っていった女性たちがもどってきて、今度は彼女たち全員で雑魚寝するという場面が付け加えられた。この新たな結末によって、「孤独であることの共感」とでもいうべき作品のモチーフがより一層印象付けられることになった。中村美保、金城幸子、加納亮子(桃園会)が三者三様の女性像を鮮やかに描き出して、劇のリズムを作った。
松田正隆作・演出の『蜻蛉』(9月15-20日 アトリエ劇研)もまた、99年1月(ピッコロ・シアター、新国立劇場小劇場)を受けた再演である。ただし初演が岩崎正裕(劇団太陽族)の演出であったのに対し、今回の舞台は作者自身の手による。そこにやはり大きな違いが生まれていた。題は『源氏物語』の巻名にもとづく。宇治十帖の世界から中君と浮舟の姉妹、匂宮と薫の四人を拉しきて、彼等が綾なす複雑な恋愛模様を現代に取り込んだ按配だが、細部はまったくの創作である。初演では、新たに付け加えられた女生徒とその兄、さらに姉の恋人須永の妻にそれぞれ劇団太陽族の役者を起用し、彼等に関西弁を使わせていた。それによって舞台に日常的なリアリティーの色合いが強まり、独身の姉の老いへの怖れなどはストレートに感じられるものの、失踪して亡霊となる妹といった作品の非日常的要素がうまくかみあわないきらいがあった。今回は装置も簡略化され、方形の舞台の周り四方がいわば能の橋掛りとなり、そこを登退場する役者が摺り足で歩むというように、全体が能舞台のイメージで統一されていた。台詞も初演に比べかなり刈り込まれ、役者の演技力にばらつきはあるものの、姉妹のありようを軸に、生と死、現在と過去、現実と非現実とが交錯する作品の夢幻能的構造が際立つ、じつに端正な舞台となっていた。
いうまでもなく再演はただの繰り返しではない。今回のように演技や作品の練り直し、あるいは演出への意欲など、観客のみならず劇作家や劇団にとっても、再演は刺激的な体験となりうる。
また経済的負担の面からいって、再演はむしろ小劇場でこそ実現可能な試みだといえよう。「新作」への強迫観念が薄れたいま、こうした試みが小劇場の果たす役割の一つとなるのではないか。むろんそのためには再演に値する演目を目利きし、上演をサポートする体制が必要だが、ウイング・フィールドやアトリエ劇研といった関西の小劇場にはその実績もある。これからの再演の試みに期待している。(でぐちいつへい/大阪芸術大学)

●樹霊がラフレシアに降りてきた/『耳水』柳井愛一
都市伝説に、アルカイックな語りの要素を持たせた形式の、いつもながらの楽市楽座の舞台。しかし今回は微妙な変化。これはちょっと注目に価する。余分なものが削ぎ落されていて、どうして彼らがこのシチュエーションをモチィーフにした作品にこだわり続けてきたのかがはっきりと見えてきた。そして、劇団のキャッチフレーズである“ゑんぎのサーカス”のサーカス的な部分を初めて個人的に楽しむことのできた記念碑的作品。
鏡板の老松の代わりに舞台後方に、樟の大木が鎮座している。樟の枝から神社の鰐口の紐のような鳴り物の付いた布が舞台の四方に垂らされている。野外円形劇場ラフレシアが大木に覆われていることが分かる。夜と樟に覆われた天井のない野外舞台。ロケーションはまず最高。
雑踏シーンからなし崩しに始まった舞台に紛れ込んできた男(西田政彦)が大した理由も無しに、その辺りに落ちていた鶴嘴で穴を掘り始める。どうやら廃ビルの中での出来事らしい。男を追いかけてきた女、ヒカル=クラシ(小室千恵)との会話で、女と喧嘩をした甲斐性なしの男がむしゃくしゃして意味もなく始めた行動だと分かる。男は塵芥と一緒に眠っていた物語まで掘り起こしてしまった。
夢とも現とも判別の着かない人々が闖入してくる。耳と口の不自由な老婆(北村チコ)、目の不自由な中年・ヒゲ男(雪之ダン)、巨大な女・マダム(南田吉信)や娼婦達が登場。彼らはこの時点ではまだ単なる頭のおかしなホームレスにしか見えないが、やがて暴力的な物語を語り出す、奇妙な、幽幻能の前シテ達だということが分かるだろう。
マダム達は突然男に襲いかかり、男の目や耳を奪い取る。ヒゲ男は目を、マダムは背骨を。しかし、老婆は耳を前にして躊躇する。-パントマイマー兼ギタリストの北村の演劇的でない芝居が印象的-。ヒカルはいつの間にか娼婦達の一員・クラシに変わっている。沈黙していた物語を再び始めるためには俗世的な身体を取り外すことが必要なのか、それとも畏しい大地母神の物語=供儀への捧げ物なのか、男は解体されてしまう。しかしここではまだ物語る口が登場していない。そして老婆が所有を保留した耳の所在も定かでない。
男の掘っていた穴から泥水が沁み出し、満ちてくる。マダムは泥水の溜まった穴にソープ・ランドのバスタブの様に浸かり、ヘルスセンターのジャグジーの様に寛ぐ。彼女?は娼婦達を観客に紹介し、幻を甦生させる。思い出に縋る初老のホームレスが曾ての女郎屋の女主人として甦える。南田の不明瞭な言葉が、何故か夜風の中で生き生きと輝ていた。 ここで口=詩人マルテ(佐野キリコ)が登場。老女が受け取るのを拒んだ耳=カタツムリ女=カタビラ(朧ギンカ)もやがて現れる。
マルテは吟遊詩人から語り部=口に変化していくことにより、その名前が指示する文学的な齟齬感を払拭することができた。-どこか垢抜けないバタ臭さが楽市楽座のウリなのかもしれないのだが-。カタビラ、巨大な貝殻=耳を背負って現れた女は語られる以前にナニカを聴いてしまう存在。口と耳が邂逅する時、幻の場所の記憶がやっと再生される。樟の枝に仕込まれたスプリンクラーから降り注ぐ雨の中での、文字通りの、濡れ場は妖しく魅惑的。-このシーン野外劇の醍醐味が満喫できる-。
当然のことながら、残酷で陳腐な日常が戻ってくる。目=ヒゲ男が登場し語られた物語の裏側を暴露する。視ることの残酷さ故にヒゲ男は盲目の放浪者として罰せられているのか?
カタツムリ女=カタビラは壊れてしまい、自らをヘビの化身だと主張する。娼婦達は巫女の様に舞台四方の鰐口?を鳴らす。語り部=マルテや巫女達=娼婦達の存在全てを受けて真のシャーマンとしての自己を主張する。ここで縄文のヘビ=神やドリームタイムの虹蛇=原初の創造神への回帰という作品のテーマが現れる。しかしそれは零落した神話、不可能な物語でしかない。かっての神話や芸能の様に語ることによってなにかを豊饒にし、救済することはできない。けれど語ることによって顕現するなにかがある。悪夢としてではなく、都市の底を流れる謎の水脈として語り続けられることを要求する物語。そんな水脈を楽市楽座はどうやら見つけたようだ。喝采。
ひとつの土地の持つ神話的な力を感じ、滅びた者達の幽けき声を聴く。そんな無謀な作業のために楽市楽座は悪戦苦闘を十数年間してきた。それを労って、樟の大木の樹霊が円形劇場ラフレシアに降りてきて、サーカス的祝祭を実現させた。と言ってしまえば彼らに叱られるか?。難を言えば、少し浪花節的なロマンが鼻に就くが、ま、サーカスはロマンティックなものだから、良しとしよう。
楽市楽座 作・演出/長山現中之島公園剣先広場・特設野外円形劇場ラフレシア・第四回大阪野外演劇フェスティバル参加作品、9月24日(金)所見(やない・あいいち/演劇ライター)

●ガラスの靴が砕けた後は—— 劇団青い鳥「シンデレラ・ファイナル」畑 律江
今さらだな、と思う人がいるかも知れない。それを承知で今一度、書き留めておこうと思う。80年代、女性たちの集団創作から生まれ、多くの小劇場ファンに支持された劇団青い鳥の「シンデレラ」である。今年9月、この作品が再び舞台に上った。82年に初演、85年に再演されて以来ずっと封印されてきたが、劇団が30周年を迎えたのを機に、実に19年ぶりに上演することになったという。しかし今回のタイトルは「シンデレラ・ファイナル(最終章)」である。なぜか。その理由が知りたくて、MIDシアターに足を運んだ。
骨格は同じだ。1人でアパートに住む哲子が、突然姿を消す。行方を捜すためにやって来た友人の考子が、哲子の部屋にあったぬか床をかき回すと1本のクギが抜け、なぜかそこにミステリーゾーンが現れる。その世界で、考子は哲子によく似たシンデレラに出会う。シンデレラはガラスの靴を大切にしていて、床を磨きながら「何か」を待っている。だが「あんまり長いこと待っていたものだから、それが何だかよくわからない」と言う。 アパートの一室とシンデレラの部屋、宮沢賢治の童話のカエルたちの世界、事件を捜査する刑事たちの部屋。これらを行き来する構成も同じ。だが大きく変わった点が一つある。
80年代のシンデレラは最後に、自分はみすぼらしいシンデレラなのだと舞踏会で正直に打ち明けるべきだったと話す。そして彼女がガラスの靴にまさに足を入れようとする、その瞬間で物語は終わる。だが、21世紀のシンデレラは違う。ガラスの靴を投げ捨ててしまうのだ。靴の破片は、きらきらと輝きながら世界中に散らばっていく。
誰かが探しに来るのを待つうちに、人生は刻々と過ぎてしまうんだよ。80年代のシンデレラは、そう告げた。ガラスの靴は「女性が自ら外に出て行く自由」の象徴とも解された。だが21世紀のシンデレラは、ガラスの靴自体を砕いてしまう。ガラスの靴さえあれば再び王子の待つ舞踏会へ自分から出かけられたのかも知れないのに、その可能性をも捨てる。誰かに依存する幸せそのものを捨てたのだ。彼女はもはやシンデレラではない。つまり、この最終章は「シンデレラ的なるもの」への、最後の決別のメッセージだったのだ。
自分は本当は何がしたいのか。何が欲しいのか。劇団青い鳥のテーマはよく「自分探し」だと言われた。役割に縛られ、他者の事情に振り回され、自分の中からわきあがる素直な欲望にさえ耳を傾けることができなかったかつての女性たちにとって、それは切実なテーマであった。だが現在はどうか。「自分探し」は当時の新鮮さを失いつつあり、今やそれは、失業やリストラで自分の居場所を見失いがちな中高年男性のテーマとしてよく語られる。そして若者の方はというと、その心の大部分を占めているのは「自分探し」よりむしろ、生きていくことへの不安のように見える。望んだところで世界は変わらない。そう考える若者も多い。
80年代、「シンデレラ」に感動した観客の多くは、「個人的なことは政治的だ」という発想——家庭や職場で起こる悩みは、個人的なもののように見えて、実は社会の権力構造と分かち難く結びついているという認識——を、大なり小なり共有していたように思う。だからこそ、自分の心の内側へ入っていくことは、同時に自分を取り巻く外部を考えることでもあり得たのだ。だが、たとえば精神科医の香山リカ氏が指摘しているように、最近の人々が「自分にかかわりのある身近な問題への関心のみに基づく実用主義(ネオリアリズム)」に急激に傾斜しているとするなら、「自分探し」も、「シンデレラ・ファイナル」が見せた潔い決別のメッセージも、かつてのような広がりを持っては受け止められにくいかも知れない。そんな思いにとらわれた。時代は、確かに変わってしまった。
だが、それならば「シンデレラ・ファイナル」に輝きを感じなかったというと、そうではない。むしろ、この劇団の表現手法の心地よさを、改めて発見することができた。女性の役者が男装したり、華やかに踊る若手小劇団など、今や少しも珍しくない。だがそれらが多くの場合、「あなたにこんなことができる?」と誇示する姿勢を感じさせるのに対し、青い鳥の演技やダンスには、「きっとあなたにもできるはず」と、見る者を静かに支え、立ち上がらせる優しさがある。楽しいが、媚びていない。優雅で、毅然としている。
劇団青い鳥は30年続いた。長く続けることが小劇場の目的だとは決して思わないが、それでも、しばらく芝居から離れていた人も含め、今回、初演メンバー3人が再び舞台に上がったことはやはり貴重だ。彼女らも観客も年齢を重ね、ガラスの靴はついに粉々になった。そして閉塞感の漂う2004年。粗末なアパートの一室から、裸足の哲子は再び歩き出したのだ。青い鳥の表現が、また新たな文脈を与えられて輝くことを期待したい。    (はた・りつえ/毎日新聞学芸部編集委員)

●光る男優陣の健闘 ——劇団大阪『日暮町風土記』——                       市川 明
永井愛は旬(しゅん)の作家だ。一日に2本彼女の作品を鑑賞することができた。昼に大阪労演で俳優座の『僕の東京日記』を、夜に劇団大阪の『日暮町風土記』を見た。『東京日記』のほうは71年の東京が舞台。学生運動が華やかだった時代を、アパートの住人の生活から垣間見させる。ジョーン・バエズやボブ・ディランの歌声もなつかしい。永井愛はなんと女性をうまく描いていることか。主人公は自立を求める大学生、原田満男(蔵本康文)なのだが、教育ママの母親(片山万由美)や下宿のおばさん(中村たつ)、生活と芸術の間を揺れ動く新劇女優(美苗)などが縦横に活躍する。おばさんたちを通して「神田川」のにおいがよみがえってくるのだ。
『日暮町風土記』はかつての繁栄の面影もない町が舞台。百四十年続いた本通りの菓子屋「大黒屋」が取り壊されようとしている。まず石野実の装置が目を引く。大きな柱を渡した木組みの家、格子戸から漏れる光と井戸。観客はまるでこの古い民家に座って芝居を見ているような感覚になる。
生活のために店を売り払い、国道沿いに新しい店舗をオープンしようとする清家夫妻。「日暮町の歴史を残す」家の解体に反対する「町並みくらぶ」のメンバー。開発か文化財の保護か、それはエコノミー(経済)かエコロジー(環境)かという常に問い直され、論争され続けてきた人類永遠のテーマである。だが永井はこの作品をシリアスな社会劇ではなく、庶民が織り成す喜劇として描いている。演出の熊本一も軽いタッチのラブコメディに仕上げている。すべての登場人物がどこかでカップルになっており、それが笑いの原点なのだ。
「町並みくらぶ」の代表、堀江波子(中村みどり)が大黒屋に直談判に押しかけるところから芝居は始まる。そこへカメラを抱えた旅行者の山倉(北尾利晴)が現れ、「ただものではない」この家を写真に収めたいというので、波子はいっそう発奮する。彼女は家の取り壊しを一ヶ月伸ばし、実測調査をさせてほしいと主の清家勝年(斉藤誠)に頼み込む。しっかり者の妻(和田幸子)と強引な波子の間をピンポン玉のように浮遊する勝年。彼はどうやら町役場のすみれ(名取由美子)とも恋仲らしく、二人の女性の間を揺れ動いている。斎藤誠が弱くてお人好しな主人公を好演している。この人物だけが古い家か新しい店かという葛藤を見せてくれる。
与えられた一週間という期間内に、家屋の間取り図を完成させようと「くらぶ」のメンバーが集まってくる。ミカン農家の不二男(高尾顕)や事務員の明日香(梅田優子)。明日香が恋する勝年の息子光太(中村暢宏)、明日香に思いを寄せる不二男の息子力也(熊谷次朗)などがからんで、日々の生活、この町の暮らしがさりげなく語られていく。旅行の日程を変更して町に残った一彦や、東京から駆けつけた波子の姪の涼(岡部紀子)らも加わり作業は続けられる。家への思いいれを断ち切れない勝年も姿を見せ、町や家の歴史・歳月が浮かび上がる。このあたりは永井愛の優れた作劇術を感じさせる。
やがて一彦の正体が明らかになる。建設会社のバリバリの営業マンで、古い木造建築を見つけては建て替えを勧め、町の再開発のために奔走してきたというのだ。最終場面は波子と一彦の会話である。波子は「あなたはここで別の心に、もう一つの自分に迷い込んだのだ」と慰める。一彦は「日暮町は開発に適さないと報告する」と言い残し去る。波子が「帰ってきなはいや!あんたは迷い子になったんじゃけん!」と呼びかけ、一彦の作業ノートを胸に押し当てるところで幕となる。それにしてもなんとセンチメンタルでメロドラマ的な幕切れだろう。ここまで歌い上げられるとどうも寒くなってしまうのだ。ブレヒトだったらまったく違う結末にしていたろうなとふと思った。
男優陣は勝年をはじめ全員が大健闘である。不二男を演じた高尾は素朴でひょうひょうとした味を出していたし、息子力也の熊谷も振られ役の青年の息遣いが感じられ、ともに大きな笑いを得ていた。これに対して女優陣はベテランの芸達者を揃えているが、パターン化され、誇張された人物になりがちだ。笑いのポイントが先に見えてしまい、笑いの振幅が狭められたのは残念だった。そんな中で梅田のストレートな演技が印象に残った。
この間数々の優れた作品・上演でヒットメーカーとして不動の地位を確立した永井だが、『日暮町』は作品としては弱いように感じる。作品にも人物にも大きな葛藤は見られず、みんなが古い家の解体という逃れられない運命を了解し、懐旧の情を述べ合うドラマのように思えるのだ。一彦の存在もお涙頂戴的な結末を引き出すためだけのように見える。作品の大きなテーマは後景に退き、庶民の生活臭だけが前面に出てくる。それはそれで見所があり、笑いもあるのだが、どこか物足りなさを感じてしまうのだ。[劇団大阪。谷町劇場、10月16日]               (いちかわ・あきら/大阪外国語大学教授、ドイツ演劇)
●売込隊ビーム「13のバチルス」知的パズルコメディという種類                                 藤原 央登 都市開発が進行するニュータウンそこの隔離シェルターが舞台である。シェルター体験として入ってきた男女。しばらくすると女性の一人(小山茜)が症状を訴える。まさかシェルター内にウイルスが侵入したのでは。誰が持ち込んだのか。ウイルス研究所の職員を交えてトリックと笑いと人間模様がひしめき合う。
コメディを主に上演する「売込隊ビーム」だが、今回の作品は今までとは同じように見えてちょっと違う。笑いの精度は上がったなという印象だ。もう少しストーリーを追っていくと、犯人探しをしている際中、突然、B(山田かつろう)が咳をしだす。芝居中なのに。役者の体調管理不足のせいだ。舞台袖でBは休憩を取り、また復帰する。すると、また違う役者も咳をしだしてしまう。そう、伝染してしまったのだ。咳をしているのは小山茜だけのはずが、いつしか役者全員に風邪がうつってしまう。舞台を中断し、舞台稽古の映像を流して、何とかその場をしのぐ。最後は、役者全員フラフラで無理矢理芝居を終わらせ、舞台監督の謝罪で舞台は終わる。
長くなってしまったが、役者たちは本当に風邪を引いていたわけではなく、それも芝居なのである。いわゆる二重構造の仕掛けになっている。
この「売込隊ビーム」や「ヨーロッパ企画」といった若い劇団の特徴としては知的パズルを取り込んだコメディと上演する事が多い。「ヨーロッパ企画」はずっとそのスタンスを続けている。その中に、「売込隊ビーム」が知的パズルコメディに参加した、といった方がいいかもしれない。
日本の現代演劇はその時代を代表する笑いの種類があった。70年代、つかこうへいを代表とするブラックユーモア、80年代、野田秀樹、鴻上尚史の疾走する軽やかな笑いといったのがそれである。彼らは決してただ単純に笑いという手法を採ったのではない。社会や風俗を半ばあきらめを持って見ていた。それゆえに批判する方法としてパロディ的な笑いを用いたのだと思う。パロディは、笑えば笑うほど、観客は虚無感を感じずにはおれない。なぜなら笑っていた対象はそっくりそのまま自分自身や、今の社会への批判となって帰ってくるからなのである。悲しみや真面目さをもって訴えるよりも、その方が、何倍にも生々しくリアルに世相を反映する写し鏡の効果を持っている。先人達はその事に気づいていたのかどうかは分からないが、70年代の政治の白熱した時代への「白け」ムードや80年代の終末感、絶望感といった世相もあって、抜群に支持されたのである。
それでは今現在はどうなのだろうか。笑いの部分で言えば明らかに頭打ちの状態であることは確かである。90年代「静かな演劇」といった言葉が使われた事によって、芝居の上演スタイルが派手さとは逆に、どんどん世界が縮小化した。その縮小化された世界から、世界へ発信されるメッセージを発するという上演スタイルが定着してしまった。笑いもそれほど過大にならず、添え物程度になってしまった。
それと、もう1つ、三谷幸喜の影響が大きいだろうと思う。彼によって、密室で起こる人間の刻々と変化していく心理と行動を描写するというシチュエーションコメディが同じく90年代に台頭する。三谷の劇世界も、縮小化されている。演出家の山田和也による「子供から老人にまで受け入れられるディズニーランドのような演劇」ということからも分かる。
この作品も典型的な三谷的コメディなのだが、知的パズルの要素があることによって、観客は、クイズをしているかのように楽しめる要素がある。いささか役者の演技が過剰なためおもしろいところが駄目になってしまったのは残念である。映像との対比を見せるアイデアはギャップがあればあるほど面白いので良かった。
開演前、後ろの女子高生が、友達に「今日風邪気味だから咳をしないように」と話していた。芝居の内容はおそらく知らないであろう。いざ本番になると、その人は我慢できずに何回か咳をしていた。面白いとはこういうことなのだと思う。偶然が偶然でなくなる時、この人の場合なら、咳をしてはいけない事をわが事の様に感じたはずである。そして、その事に気づいた私もすっかりこの世界にはまっていた。
今の時代、何事か積極的に事を起こすことが少なくなっている中、何かを向こうから仕掛けてもらうのを希望しているという事はないだろうか。わざわざ劇場に足を運んでいるのだから、楽しませて欲しいと思う観客が増えているような気がする。そういう観客は、こういうクイズ的な芝居はどう思うのだろうか。食い付くだろうか。食い付く行為すら面倒くさいと感じるのだろうか。犯人は「13のバチルス」の13を合わせたBというオチ。私は好きなのだが、どうなんだろう。(7月20日・HEPHALL) (ふじわら・ひさと/近畿大学文芸学部3回生)

act3号

●巻頭言
瀬戸宏 大阪のど真ん中に小劇場ができる時
●劇評
出口逸平 また会うことの歓び
-劇団八時半『そこにあるということ』とマレビトの会『蜻蛉』
柳井愛一 樹霊がラフレシアに降りてきた/『耳水』
畑律江 ガラスの靴が砕けた後は—— 劇団青い鳥「シンデレラ・ファイナル」
市川明 軽やかなラブコメディ——劇団大阪『日暮町風土記』——
藤原央登 売込隊ビーム「13のバチルス」
●時評・発言
岡田文江 大阪労演の活動から
椋平淳 365日の文化事業に向けて Kyoto演劇フェスティバル、25年の軌跡と今後
菊川徳之助 演劇の教育と俳優の養成 (3)
●海外演劇紹介
瀬戸宏 三代目の北京人芸『雷雨』
●投稿規定・編集後記ほか

act4号掲載記事

■ 巻頭言  阪神大震災は演劇を変えたか
瀬戸宏
さる一月十七日は、阪神大震災十年であった。一月十七日前後、関西地区では神戸を中心に鎮魂のさまざまな行事がおこなわれ、十年を回顧する出版物が多数刊行された。しかし、そこには演劇の姿はほとんど目につかない。
十年前は、逆であった。大震災直後から、関西演劇界では創作面でも実際の行動でも、震災に立ち向かうさまざまな動きがみられた。それについて、かつて『阪神大震災は演劇を変えるか』(晩成書房、共編)という本にまとめたことがある。出版経験のある人ならわかるだろうが、一冊の本が世に出るには多大なエネルギーを必要とする。震災直後の状況は、私を無償で編集出版活動に駆り立てさせるものが確かにあったのだ。

それから十年、『阪神大震災は演劇を変えるか』というタイトルを思い起こすと、いささかほろ苦い思いがする。震災は演劇を変えたか。演劇は変わったのか。震災直後こそ、深津篤史『カラカラ』(桃園会)、内藤裕敬『夏休み』(南河内万歳一座)など震災の現実を直視し、それを題材でも感性でもとりこんだ作品が生まれた。上演以外でも、さまざまな動きがあり、関西演劇人会議ではジャンルを越えた演劇人が集まり熱い議論が闘わされた。しかし、それはどの程度長続きしたのか。
昨年晩秋から暮れ、中越地震やスマトラ沖大地震津波など大災害が起きた。しかし、これに対応しようとする動きも、関西演劇界では私の知る限りほとんどなかった。

十年前と今との違いの背景には、関西演劇界の勢いの相違もあるのかもしれない。当時は、松田正隆、鈴江俊郎らの岸田戯曲賞受賞に至る、関西演劇界特に小劇場演劇界の上り坂状況があった。いま、関西演劇界には、明らかに当時の熱気はない。

もっとも、まるで何もなかったわけではない。前号でも取り上げた「大阪のど真ん中に小劇場を取り戻す会」の活動は、明らかに震災直後の関西演劇人会議の活動の延長にあるものであろう。昨年十月のピッコロ劇団『神戸 わが街』も、震災を具体的にみすえた数少ない上演である。別の場で劇評を書いたので重複は避けるが、特に第三幕は死者への鎮魂の思いがこもり、見応えがあった。今の私に見えないだけで、関西演劇界の深部では、変化の可能性が密かに流れていると思いたい。
阪神大震災は演劇を変えたか。こうつぶやいてみること自体に、今は意味があるのかもしれない。
(せと・ひろし 国際演劇評論家協会日本センター関西支部事務局長)
■クロス劇評
●「祝祭からハイアートに変容する維新派」
中西理
維新派「キートン」(構成・演出松本雄吉)を大阪南港ふれあい港館駐車場の特設野外舞台で見た。サイレント映画時代の喜劇王キートンへのオマージュとして作られた作品である。台詞はほとんどなく、すべてが身体の動きと美術も含めたビジュアルプレゼンテーションの連鎖により進行していく。「キートン」にふさわしく、冒頭からキートンをイメージさせる場面やキートン映画からの引用(「セブンチャンス」の花嫁のシーン、「キートンの探偵学」の映画に入っていくシーンなど枚挙にいとまがない)が次々と舞台上で展開される。不思議なのはここではそれに加えて、入れ子構造のようにシュルレアリスム絵画(デ・キリコやルネ・マグリット)を思わせる場面や構図がそこここに「見立て」のように展開されることだ。さらにシュルレアリスムに加えてパフォーマーが途中で背中に背負って登場する便器(「泉」)のようにマルセル・デュシャンからの引用も散見される。

舞台は絵画が動く巨大なインスタレーションとさえ見てとることができるほどで、全体の印象としても「ハイアート」感が強く、その分、お祭り的な祝祭感は後退した。維新派の野外劇ならではの祝祭性をこれまで愛好してきたものとしては若干の寂しさを感じたことも確かだが、クオリティーの高さ、オリジナリティー、いずれをとっても文句のつけようがないレベルの高い舞台であった。
特筆すべきなのはキートン役を演じた升田学が「笑わん殿下」の再来とでも言いたくなるようなはまり役であったこと。維新派の場合こういう形で特定の役者がクローズアップされるということはめったにないのだが、今回ばかりはぜひ触れておかなければならない好演ぶりであった。

ヂャンヂャン☆オペラという維新派独自の音楽劇のスタイルは内橋和久の音楽にのせた「大阪弁ラップ」のような役者の群唱(ボイス)によって構成され、野外ならではの巨大な美術とも相まって、ここでしか見られない祝祭空間を演出してきた。実はそれが変わりつつあることが新国立劇場の前作「nocturne」で感じられたのだが、今回の「キートン」で変化は一層露わになった。
ただ、これはヂャンヂャン☆オペラが放擲されたというよりは次のフェーズに移行したという風に解釈した方が正確かもしれない。内橋の音楽は多くの場合5拍子、7拍子といった変拍子によって構成されていて、そこにボイスが加わるのがヂャンヂャン☆オペラ元来のスタイルだが、今回は多くのシーンで変拍子に合わせてのパフォーマーの群舞的な動きのアンサンブルがそれまでのボイスの群唱に置き換えられている。これを「動きとしてのヂャンヂャン☆オペラ」と呼ぶとすると、今回の作品ではこれまであった言葉の羅列ではなく、こちらが舞台を構成するメインの要素となっている。

ここでの「動き」は変拍子に合わせて動くということだけでも、バレエやモダンダンス、コンテンポラリーダンスといった既存のダンスジャンルとは明確に異なるアスペクトを持つものではあるが、それぞれのパフォーマーの動きは過去の維新派の舞台よりも数段洗練され、精度の高いものとなっていて、これはもう「ダンス」と呼んでも間違いではない水準に高められていた。
その分、これまでのヂャンヂャン☆オペラにあったお囃子(下座音楽)的な気分はこの作品ではあまりなくなっていて、傾斜舞台に電柱が立ち並び、照明効果によってその影が幻想的に浮かび上がるシーンなどいくつかの場面では静謐な雰囲気のなかで舞台は絵画的に展開していく。

巨大な舞台セットはこの公演でも健在。ただ、これまでの作品とは若干異なる性格付けがなされていた。これはひとつには舞台美術に今回、黒田武志が参加していて、そのテイストによるところもあろうが、その以上に今回黒田に美術を委嘱することになったことも含めて、大阪教育大学で美術を専攻していた松本雄吉の美術家としての側面が色濃く出てきていることにあるのではないかと感じられた。松本は学生時代に「具体美術協会」に共感するなど演劇以前に日本の前衛美術に憧れた美術青年でもあった。
実はキートンが活躍した二十世紀初頭(1910-20年代)は欧米において、ダダイズム、シュルレアリスム、表現主義といった前衛芸術が百家争鳴の輝きを見せた時代でもある。直接は関係のないキートン、デ・キリコ、デュシャンがひとつの舞台で出会うことで美術家としての松本がこの作品に込めたのは前衛芸術が輝いていた時代への限りない憧憬だったと思われる。そして、そこには前衛演劇の旗手として彼らを受け継ぐのは自分であるという自負も込められていたかもしれない。
(なかにし・おさむ/演劇評論家)

 

●維新派「キートン」

ー「飛び出す絵本」のような舞台ー
藤原 央登
「ナガセシネマ」という映画館。雨の中、一人の少年がやって来てスクリーンの中へと冒険の旅に出る。
冒頭のシーンをこうして文字で記述するとあっけないが、野外の広い舞台空間で、場面転換の度に出現する巨大な舞台装置。そしてその中を大勢の役者があるリズムとテンポでもって動き回る。2時間30分、休みなく続くこれらの光景はまさに圧巻の一言に尽きる。

今まで観てきた舞台のほとんどは台詞を話したり行動する俳優に観客はどうしても注目してしまう。そして物語を追う等の意味内容を理解する作業を強いられてしまう。しかし、維新派の舞台ではその一連の作業はなくなる。それは台詞がほとんどないという事もあるのだろうが、しかし、最初いつも舞台を観るように役者を観ているのだが、同時にはるか後方で同じく何人もの役者が動いている。だから2ヶ所を同時に見るのだが左右からまた役者が駆け抜ける。すると自然に観客の視野はどんどん広がっていき、全体を見渡す視野を得れる仕組みを持っている。そこに加えて巨大なセットが左右からやって来るので、意味内容の理解よりも、視覚で観るといった感じなのである。
意味内容の理解から開放された視点で目の前で起こる事を半ばぼんやりを見ていく内に私はこれと似たような体験をどこかでしたような気がしていた。巨大な舞台装置の中を役者が駆け回るさまを小人の様に見えた時、私は子供の頃に読んだ飛び出す絵本を思い出していた。読んだというよりもやはり見たという印象がある。ページをめくる度に動物や建物が立体的に飛び出すあの絵本。わくわく感は二つとも相通じるものがある。つまり私は客席で童心に戻り、白塗りの人が面白おかしく逃げたり騒いだりしている姿におかしさを感じ、大きなお家が出てくると「わあー」っと心動かされていたのである。

童心の目を持った瞬間、目の前で繰り広げられるセリフのない会話やリズムパターンにはまった動き、そしてジャンジャンオペラと呼ばれる歌のようなものも、心地よく体に入ってきた。子供は意味内容の解釈をしない様に、童心に帰った私はただ関心していたのである。外国人の観客が多かったのもおそらくここら辺にあるのかもしれない。セリフがないので了解しやすいという短略的な理由ではなく、言いようのない懐かしさみたいなものが含まれているからではないだろうか。
維新派はこの「キートン」が初見であるが、事前の情報としてかなり芸術性が高い劇団というように思っていたのだが、全然違った。維新派はかなり娯楽性の高い、飛び出す絵本のような劇団なのである。

芸術と娯楽、これはかなり紙一重なのではないか。理解しがたく、社会と拮抗したものが芸術で、ただ楽しませるものが娯楽といった二原論では芸術と娯楽は定義できないであろう。作品が芸術作品であったり娯楽作品であったりするのではなく受け取り手の観客が判断するのである。だから誰もが芸術作品か娯楽作品かで一致するはずはなく、浸透膜のようなものが2つの間にあり、そこを行ったり来たりするのではないだろうか。
「キートン」に関して言えば、バスターキートンを題材にしているので、役者のおもしろさに注目すると、娯楽ともいえる。はたまた絵画のような視覚的な美しさを観るためには全体的視野を持たなければないらないので、芸術ともとれる。私は直感的に子供の頃の記憶が浮かんで、娯楽寄りに観たのだが、そうではない人ももちろんいるだろう。

しかしここまで考えてきて、この作品は芸術的要素と娯楽的要素がうまく溶け合っているような気がする。浸透膜のちょうど間のような。先ほど娯楽作品と述べたが、芸術要素が多分に含まれているので、私が感じた事も、芸術のような気もする。こんなに自分の中で判断が付きにくい作品は他に知らない。舞台を観て童心に返った経験も始めてだ。やはりこの作品に限っては無理な解釈は必要ではないのだ。
カーテンコールの事についても触れておこう。キートンが高台に立ち望遠鏡を覗き込む。ここでも何を覗いているのかという詮索は無用だ。キートンの無表情さと、硬質なビルとがうまく合わさっていて、はるか彼方にいるので空に浮かんでいるように見えた。この不思議な体験の終りに寂しさをおぼえた。舞台上の街と本物の街とが調和するのも野外劇ならではである。

今回の「維新派」公演で、私は舞台内容で童心に戻ったことは今まで述べてきたが、開演前の屋台村で、焚き火を囲んだこともその要素の一つであったことを付け加えておく。長らく火を見る事も忘れていたことを思い出していた。演劇は舞台を観て思想するだけでは十分ではないだ。まさに体全体で演劇を体験したのである。
(10月21日・ふれあい南港野外特設会場)
(ふじわら・ひさと/近畿大学文芸学部3回生)
■劇評
●プレイ(芝居)=プレイ(遊び)
——劇団往来『名探偵vs霊媒師 英国少女殺人事件』——
市川 明

劇団往来が20周年記念のラストを飾るものとして上演したのが、今回の『英国少女殺人事件』である。「観客参加型」の本格ミステリーと銘打っている。とはいえこの上演が劇評に取り上げられることに、演出の鈴木健之亮や台本の小鉢誠治は複雑な思いをしているのかもしれない。劇団往来には産廃問題を扱った『青空のピコ』(2001)のように阪本雅信の優れた舞台美術とあいまって代表作と言えるような舞台があるし、自衛隊の海外派遣に疑問を投げかけるジェイムス三木作の『安楽兵舎VSOP』(2003)もインパクトの強いものだったからだ。今回劇評にとりあげたのは「プレイ(芝居)=プレイ(遊び)」という原点を、この上演が教えてくれたように思えたからだ。

会場は京橋にあるMIDシアター。前回の近松の生涯を描いた『バガボンド・ララバイ』は一心寺倶楽という、作品にぴったりな会場を選んでいたが、今回も大いに期待が持てた。上演は30分のシンキングタイムを挟んで、問題編と解決編に別れている。会場に着くとロンドン警察の制服に身を包んだ警官が「少女殺人事件」の号外をまいている。京橋の河辺の風景がテムズ河畔に変わったような印象だ。ほぼ正方形のフラットな観客席の正面に、横長の舞台があり、左右にアーチ型の門をあつらった邸宅の部屋の入り口がある。
最初の舞台は1910年のニューヨーク。死者の霊と交信する降霊会が流行していた時代である。タイトルにあるとおり名探偵と霊媒師の対決がまず始まる。まずはマジシャンのハリー・フーディニ(大佐古剛史)が登場。彼は懐中時計の中に小麦粉を入れておくが、時刻をひそかに覗き見しようとした霊媒師(染次郎)の顔に粉がかかり、霊感が大嘘であることを暴く。ここは大切な場面なのだがハリーには今イチ元気と切れがないし、霊媒師にも笑いを誘うほどのすごさや入魂がない。暗転するとスクリーンが下りて、タイトルが映し出され、キャストが画面で紹介されていく。映画館の大画面を見ているようで、ぐんとスピードアップする。楽しいが映画に芝居が圧倒され、残念だ。

第2場では場面は英国に移り、エルシード邸の夕暮れ。大広間の中央に大きなテーブルが置かれている。アンソニー・エルシード(要冷蔵)はオナシスのような大富豪で、船舶のみならず紅茶や石炭などの貿易で巨万の富を成し、若いアメリカ人の後妻を迎えている。この妻ローズとの間にできた娘ベネットが三年前に殺害されたが、迷宮入りしており、霊媒師を呼んで犯人を捜そうというのだ。ベネットは七歳で亡くなっているが、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』のパック役で、天才子役として有名だったという。余談になるが昔ベルリンの劇場でこの作品を観たとき、パック役がプロレスラーのデストロイヤーのように覆面をつけた大きなおじさんだったのでびっくりしたことを覚えている。パックが「俺こそ愉快ないたずら者。/オベロンの道化役で笑わせるのが商売」と言うとき、可愛い女の子の妖精を想像していた僕は、あまりにもイメージが違うので思わず笑ってしまった。

さて舞台に戻ろう。アンソニーはお金に物を言わせ、邸宅のすべての女性に関係を強要しているらしく、彼を恨む人は多い。執事ロバートの妻はそれが原因で自殺している。(桂春駒は陰影のある男の役を好演している。)先妻の子リブ(嶋田光希)も後妻とその娘の存在により、父親の愛を失い、オフィーリアのように気がふれている。家の元の持ち主で、夫が自殺したあとベネットの教育係として雇われたヘレナ(山本やす華)。後妻の元恋人でアメリカから来て庭師として働いていたケビン(山本直匡)。メイドのクリスティナ(沢木れいか)。愛もなく、不幸で狂った虚栄の城、誰もが殺害の動機を持つように思える。本当はもう少しどろどろした愛憎が描かれるはずだが、舞台は淡白で物足りない。霊媒師オラクル(具志堅まり)が霊を呼び出し、ハリーと現れた名探偵ドイル(乃木貴寛)が殺害の行われた一時半から三時までのアリバイを探る。ここで休憩となる。

30分の休憩時間を利用して証言用紙が配られ、近くのビル、ツイン21にあるアストロビジョンを見に行く。たくさんの観客がすでに来ており、映像からスペシャルヒントを得ようとしていた。第二幕では装置は大きく転換し、観客席の中央に大きなテーブルが置かれ、法廷の傍聴席のような感じがする。犯人は日替わりみたいで、第一発見者のアンソニー以外は知らないはずの地下室でのベネットの様子を漏らした者が犯人となる。私が見たときはリブが犯人だったが、複雑で怪しげな心情を嶋田がうまく表現していた。アンソニーを演じた要冷蔵はせりふも重厚で、その存在感を十分に示したが、名探偵も霊媒師もそれに対抗するだけの重みがなく、芝居全体のバランスが崩れているのは惜しまれる。
終演後、投票用紙により犯人を当てた人に抽選で賞品が手渡されるという番外編までついて、最後までにぎやかな舞台だった。イベント性の強い上演だったが、私はむしろ芝居にはこうした遊び心が必要だと考えているので、大いに楽しませてもらった。
[2004年12月17日、MIDシアター]
(いちかわ・あきら/大阪外国語大学教授。ドイツ演劇)
●初々しさと鮮やかさと——TBS/ホリプロ『ロミオとジュリエット』
太田耕人

蜷川幸雄が『ロミオとジュリエット』を演出するのは、これが四度目だという(シアターコクーン、12月/ドラマシティ、1月)。この劇のこれほど清新な上演を、わたしは正直知らない。
三層を成す馬蹄形の装置(中越越)は、ローマの闘技場をおもわせた初演(74年)・再演(79年)の美術(朝倉摂)と、構造だけはそっくりだ。ただしその白い壁は、数多のカップルの顔写真で埋め尽くされている。

装置の底辺となる広場に雑多な人びとがいきかい、死の結末を仄めかすように葬列も通る。モンタギュー、キャピュレット両家の下僕の諍いがはじまる。深紅のローブを着た大公が三階中央に現れて、厳しい宣告を言い渡す。
衣裳(小峰リリー)は、モンタギュー家に黒、キャピュレット家に白を振り分けた。とくにジュリエット(鈴木杏)の身を包む白は、彼女の純粋さを観客の目に灼きつける。〈-オ〉の語尾(ロミオ/ベンボーリオ/マーキューシオ)と〈-ト〉の語尾(ジュリエット/キャピュレット/ティボルト)による聴覚的な区別が、鮮やかに視覚で置き換えられたのだ。黒の革ズボンに白のセーターで現れるロミオ(藤原達也)は、出会う前からジュリエットの白にすでに半ば侵されていることになる。

なによりの見どころは、キャピュレット家の宴からバルコニー・シーンへのすばやい展開と、それ以降に恋人たちがみせる初心な恋の歓びだろう。バルコニーの場では第三層からジュリエットが駆け下り、第一層からロミオがよじ登る初演以来の着想が保存され、疾走感を生む。中・高生がはじめて異性と交際して経験するような胸の高鳴り、だれもが覚えのある幼いけれど純粋な気持ちが、すなおにつたわってくる。
一般に『ロミオとジュリエット』の上演のむずかしさは、この初々しさが表現できないことにある。なるべく若い俳優を起用したいが、それでは演技力が不足し、息の長いせりふがこなせない。22歳のロミオと17歳のジュリエットがみごとな演技を見せたのは、こころよい驚きだった。

一昨年のハムレット以来、藤原竜也のセリフ回しが好調だ。歯切れよく明瞭な細部がつながれて長い文となり、なめらかに流れて、力に富む。当時のシェイクスピアは先輩作家リリーの美文の影響下にあった。その厄介な対句表現や比喩を、軽々とこなす。さながら天才少年バイオリニストの技巧をみるようだ。
長ぜりふだけではない。たとえばピーターに頼まれ、招待客のリストをロミオが読んでやる場がある。藤原は片思いの相手ロザリンドの名に息をのみ、親友マキューシオ(高橋洋/鈴木豊)の名は嬉しげに読み、ティボルトの名に言いよどむ。

劇の後半になると、ロミオは影が薄くなる。マンチュアへ追放され、舞台からほとんど姿を消すためだ。アクションの中心は、ジュリエットに取って代わられる。そもそも初登場のとき、ジュリエットは大きな人形を抱えた男を追って、走り出てきた。まだ召使に遊んでもらっている少女だった。その13歳が、ロミオと出会って、またたく間に“成長”する。ティボルトの死、ロミオの追放、パリスとの結婚の強要と、次々に試練をうけることによるのだろう。ロミオへの愛をつらぬくため、危険を顧みず劇薬を飲む行為はほとんど英雄的といってよい。追放の沙汰に、身もだえするロミオと比すと、いっそう果敢にみえる。
残念ながら、ことセリフ回しとなると、鈴木杏には藤原ほどの切れ味はない。だが、きらめきを放つ演技はいくらもあった。ロレンス神父(瑳川哲朗)の庵でパリスと偶然出会ったあと、神父から仮死の薬を受け取るとき、狂喜の表情をみせる。嫌な男と結婚しなくて済む、というわけだ。また、母や乳母が去り、寝室の扉が霊廟の扉のように、恐ろしい音を立てて閉まったあと、「いつ…また会えるかしら」というセリフには、観客を惹きこむ万感の思いがあった。

霊廟の場は、さながらカタコンベの底にジュリエットが横たえられている感じがする。貼り巡らされた無数のカップルの写真が、恋を成就できずに死んだ恋人たちの遺影にみえる。息絶えたロミオをみつけた神父は、ジュリエットをつれだそうとする。しかし彼女は決然と、「私は行きません!」と言う。このことばを発すため、ジュリエットは成長してきたのだ、とわたしはおもった。

恋人たちには心中する高校生のような生々しさがあるが、いっぽうで周囲の人物は原作どおり類型化されている。リアルな現代性をあたえられていない。たとえばキャピュレット夫妻とジュリエットとの間には、世代間のギャップというより、ルネサンスと現代との感覚のずれが感じられる。ルネサンスの背景に現代的な生身の恋愛をおいて、浮き立たせること。それがどこまで計算された演出なのか、わたしには判断できない。
これが世界水準の『ロミオとジュリエット』であることは間違いない。主役二人が「大人」になるまえに、おなじ配役で再演されて、さらに多くの観客にみてもらいたいとおもう。
(おおた・こうじん/京都教育大学教授)
●《・・・な「ワタシ」》
ーある、マイナーな若い女優の一人芝居でー
粟田イ尚右
半球形のホール。そのフロア全面に、無数の白い紙が敷き詰められている。いや、ぶちまけられた様にばらまかれている。歩けば白い紙はバサバサと音を立てて動き、舞い上がる。すべてが、成り行きまかせの設えで、その舞台は始まった。客席は無い。観客も、その空間・フロアの中の何処で観ても自由という。坐りたければ椅子を好きな所に勝手に運び坐ればいいらしい。この演出過剰の目論見は、逆に観客の其処での存在の仕方を完全に自己規制させていく。観客は舞台(演技エリア)も客席エリアの区別も無いホールのしつらい、演出の企みに戸惑い円形の壁を背にして立ちつくして劇を眺めている。観客は球形の内側にいるのだから、もたれることも出来ない。

応典院ホールの半球型(円形)の、白い紙に埋まるその空間は、観客にも同等の「場」(劇空間)への自由を与えられているのだが、実際は、観客の自由な空間、場にはならない。そこは『ワタシ』の空間であり観客の恣意的な存在、占有体にはならない。事実、結果的には、『ワタシ』と共有する自由な空間にすることは出来なかったのだが、そんな空間の中で観客は、むしろ自分を何処に存在させるかに思いあぐね、『ワタシ』に邪魔をしないことに心を配り、内側に逆傾斜を描くホールの壁に身を寄せることも出来ず、足の疲れの中で、折角の若い女優の一人舞台、『ワタシ』の劇の世界に自由に遊べない。さて、その舞台、『ワタシ』も、そうした劇の場、ホールの中で、『ワタシ』である若い女優自身も、立ちんぼの観客との距離が気になるのだろう、『ワタシ』に自由になれない。女優の素顔がちらつくのが気にかかる。『ワタシ』が女優自身と混在し、曖昧になる。自問自答し、見えない相手に話しかける『ワタシ』。その若い女優は自分の思いの丈を気怠げに、或いは、目の前にいるかの様に男に言葉を投げかけ、ぶち当て、フロアー一面の白い紙を蹴とばし、放り投げ、寝転び、歩き、手に取り、抱きしめ、話しかけ、語っていく。「ワタシ」にまとわりつく白い紙。この無数の白い紙が息づき始める。白い紙の一枚一枚が『ワタシ』になっていく。『ワタシ』の手、足、耳、思い・・・『ワタシ』の総ての断片になっていく。白い紙は心のかけらなのだ。そして『ワタシ』は『ワタシ』としゃべり始める。誰かに、或る男に話しかける。劇の構造は単純だ。若い女性が自分の思いの丈を語っていくだけの舞台だ。だが、囲むように立って『ワタシ』を眺める観客に、『ワタシ』は『ワタシ』の動きを自己規制していく。我々、観客とは常に一定の距離をはかり存在し、決して交わらない。噛んでこない。勿論、挑発して来ない。『ワタシ』を演じる『ワタシ』。『ワタシ』の《存在》を台詞という「言葉」で、白い紙の一枚一枚を小道具にして話していくだけで、『ワタシ』が実態として立ち上がってこない。書かれた言葉、意味としての言葉に頼りすぎる。『ワタシ』を見詰めようとする作者の表現への若い、ナイーブな試みは爽やかで、その思いは判る。

だが、小一時間の舞台は、一人の女性を実体化するには重すぎたようだ。繰返しと『ワタシ』の説明になっていく。『ワタシ』の何か、部分である《白い紙》を次々と手に『ワタシ』を確かめながら、その繰返しの中で『ワタシ』が『ワタシ』を失っていく。『ワタシ』が実体化しないまま、立ち上がらず、劇が終わってしまったのは残念だ。何故、台本に書かれた『ワタシ』の言葉を、言葉だけでなく、『ワタシ』の体全体を使って表現に出来なかったのだろうか。「音」としての言葉だけに頼りすぎ、身体自身が殆ど何も表現していかない。劇は、白い紙の中で、『ワタシ』が説明になっていく。何よりも残念なのは、女優という存在体が質的に変わっていかなかった、その事がもどかしい。『ワタシ』という女優という生身の存在が、言葉で説明されつつ存在したにすぎない。「役者体」として自己を追いつめていかない。言葉でなぞっているだけ、と言っては酷だろうか。

この舞台の前(6月)、梅田カラビンカで「クセノス」という若い劇団の『待ち人/来タレ』という舞台で、この『ワタシ』の女優の舞台を観た。ベンチに座り、ある定かでない彼方に目線をつなぐ若い女の思いを演じて、上手下手ではなく、ある「存在」を見せたのだが、『ワタシ』は、どんな『わたし』という《女優》をこれからの舞台に花咲かせて、実を結んでくれるのだろうかーー。これからが楽しみな女優の一人には違いない。・・・・にも拘わらず、反面、私の気持ちの中で、《女優》と言い切るには躊躇するものがあるのだが、扨て、まだ、マイナーな存在でしかない女優、『ワタシ』の名は《イトウ・アヤコ(伊藤綾子)》というのだが・・・・
(野村太祐作・演出『ワタシ』 ACT TWO公演の舞台  ○四年9月4日、於いてシアトリカル応典院)
(あわた・しょうすけ/演出者・演劇評論家)

 

●時評・発言

演劇で教育=「人間」教育
松尾 忠雄
演劇で教育
後期中等教育における演劇教育を、まず兵庫県立宝塚北高校・演劇科に焦点を当てて述べて行く。
30年ばかり前のことである。兵庫県(「教育委員会」でなく「知事部局」)が一部の高校教諭を招いて芸術教育について意見を聞いたことがある。その時、演劇の教育的意義を聞かれた筆者は、「生徒は、演劇を体験すると生活に役に立つ人間に育ちます」という趣旨の意見を述べた。宝塚北高校・演劇科創設の時期に県教育長であった井野氏が、ずっと後に筆者のこの発言について、宝塚北高校・演劇科を創設するきっかけの一つになったと説明した。

同校は、公立高校としては、全国で始めての演劇科の高校であった。宝塚北高校・演劇科の創設には、県立ピッコロシアター(兵庫県尼崎青少年創造劇場)の強い、厚い要望があった。
宝塚北高校演劇科の創設に当っては、当時大阪大学教授・山崎正和先生、大阪芸術大学教授・秋浜悟史先生、甲南女子高校教諭松尾忠雄の3人が、兵庫県教育委員会で高校演劇教育に間する意見陳述を行ってる。松尾は「教育課程」について、具体例を上げつつ意見を述べた。

高校の演劇科の教育とは、どんなものか。松尾は「役に立つ人間を育てる」と述べたが,山崎先生は、もっとすっきりと明確に表現された。曰く「演劇で教育する」である。この方が単純明解である。
教育ジャーナリスト大木源氏は、「学校訪問一兵庫県立宝塚北高等学校」の記事の中で、永年に亘って同校演劇科長を務めていた秋浜悟史先生の発言を以下のように紹介している。秋浜先生は「演劇は、大勢の中で一人になれるケータイ(携帯電話)文化と対極の世界だ。他人と深く触れ合い、ドラマを生み出す教育で、今の教育でもっとも欠けているものを捕うものだ」と言い、また「今、受験体制のシステムのなかで、学校が楽しいものでなくなっている。私はすべての高校に、演劇のカリキュラムが必要だと思っている」と述べている。
後期中等教育における、「演劇で教育する」演劇教育は「人間教育」である。

自己表現による自己実現、達成観
この「人間教育」は言葉を変えて衷現をすれば、[自己表現による自己実現」である。今度は筆者の体験による具体例を挙げて説明してみたい。筆者は永年、六ヵ年一貴校である甲南女子中学・高校に勤務し、演劇部の顧問を続けてきた。その体験の中で、身に沁みて嬉しく思った体験がある。生徒がある時突然目を見張るように「うまく」なる・「大きく」なることがある。筆者は、永年に亘って生徒に合わせて脚本を書いてきた。当て書きである。その数は二十本余にのぼる。部員全員とは言わないが、ある時夢中になって稽古をし始める生徒がいた。厳格な下校時間が定められていたが、独立家屋である講堂の舞台で、隠れるようにして、自分たちで、つまり仲のよい友人と一緒に稽古に熱中している。筆者は隠れるようにして彼女の稽古を見ていた。彼女たちも筆者がこっそりと見ていることは百も承知の上で素知らぬ顔で稽古に夢中になっていた。そしてある時、突然目を見張るようにうまくなり、大きい舞台をつくってくれる。この彼女たちは、言ってみれば「充分な達成感」をもって「自己実現」し得たのである。ところでこのためには、二つの条件がある。一つは、お互いに友人の稽古を真剣に見て、心のこもった助言をしてやること。つまり他者の助言があること。もう一つは、本番で観客に大きい拍手を貰ったことである。これらは、「自己表現」による「自己実現」であり、大きい「達成感」を持てる体験である。

自己を他者として観、他者を自己として観る
演劇教育が人間教育であることを、更に全く別の観点から述べる。これも筆者の体験に基く演劇教育論である。ここ数年筆者は甲南女子大学の講師(現在は定年退職)を勤めながら、一方で総合学科兵庫県立伊丹北高校で「戯曲研究」の授業を持っている。総合学科だから授業の多くは選択科目である。
「劇表現」という選択科目もある。
筆者の「戯曲研究」の授業の基本的な方法は「戯曲の中を自分の体で歩く」である。筆者独自の方法である。紙数に余裕がないので別の機会を求めて体系的な授業の方法は詳述したい。ここでは、一年で完了するカリキュラムの最後の段階の「生徒の即興による劇の集団創作」について触れておきたい。生徒は二人、一人は「わたしはいない」と思っている人物として設定し、もう一人は、「あなたもわたしもちやんといる」と考えている人物として設定した。目下進行中であるが、せりふを喋ってみて、なぜ、そう言うのか、そう言えるのか、自分で考え、お互いに意見を交え討論して、またせりふの言い直しをして、そのせりふを確定していく。その作業を続けて、戯曲を完成させる予定である。
「自己を他者として観、他者を自己として観る」ことによる「人間教育」である。
(まつお・ただお/伊丹北高校非常勤講師)
●「二○○四年、兵庫県発信の舞台を回顧して」
平川大作
兵庫県は少なくとも二つのパブリック・シアターをもっている。「劇場」ではなく、あえて「シアター」と呼ぶのは、二つのうちのひとつ「ひょうご舞台芸術」が建築物としての劇場を持たないままに、平成三年以来、新神戸オリエンタル劇場を中心として兵庫県下の劇場を利用しながら十四年間にわたる「ソフト先行」公演事業として継続されてきたからだ。二○○四年五月の『曲がり角の向こうには』(ジョアンナ・マレー=スミス作、鵜山仁演出)と十月の『やとわれ仕事』(フランク・モハー作、宮田慶子演出)により、公演は第三○回を数えるに至った。

余りに長きにわたったソフトの先行は二○○四年をもって終わりを迎えた。震災の影響によって、その建設計画が延期されつづけてきた兵庫県立芸術文化センターが二○○五年十月、ついにオープンするからだ。これまで根城をもたなかった公演主体がようやくホームグラウンドを持つことで、劇場の消滅と誕生が相次ぐ関西一円の演劇界に良い効果があらわれることを期待したい。
かたや開館から四半世紀を経たピッコロシアター(兵庫県立尼崎青少年創造劇場)では、ピッコロ劇団が劇団創立十周年記念として取り組んだ二つの公演における、意欲的な企画性が注目された。

七月の第二○回公演『笑う女』は、前もって決定された加藤登美子の舞台美術に対して、内藤裕敬、鈴江俊郎、森万紀ら三人の劇作家が台本を書き下ろすという通常とは逆の発想による制作過程を経たオムニバス形式の作品。森村泰昌風にマネの「スキャンダラスな」『草上の昼食』をあしらったチラシは充分挑発的であったし、シンプルな公演名は、劇団代表就任時に笑いを重視したいとした別役実の発言を思い起こさせて期待感をあおった。
加藤の美術は、中ホールにメタリックなパイプや構造物で埋めこむことで、逆に闇の向こうにある空間の広がりを強く暗示していた。ドラマの動機を誘わんとする工夫を随所に配置した無機質な舞台を、森が引っ越し直後の集合住宅の一室ととらえて、そこに息苦しくなるような三角関係をリアリズムの筆法で描けば、続いて、鈴江が狂騒的に慌ただしく人々が行き交う結婚式場の「バックステージ」を、内藤が夜の闇に沈んだ病院の幻想的な一角を、それぞれ安定感のある筆さばきで重ねてみせた。各編のドラマとしての出来映えは措いて惜しむらくは、女の笑いが三編の舞台を貫く印象に欠けたところだった。

十月の第二一回公演『神戸 わが街』は、別役実がソーントン・ワイルダーの『わが町』(一九三八年)を下敷きに、震災十年を迎えた神戸の現在を舞台に乗せた。題名から連想されるようなストレートな翻案ではない。原典『わが町』のギブス一家がキムラ家に、ウェブ家がウエダ家に書き換えられる、というよりむしろ観客の目の前で「演じ換えられる」とでも言うべき独特の手法で、冒頭アメリカの山に囲まれた架空の町グローバーズ・コーナーの地勢図が提示された上に、海と山に挟まれた神戸の街が投射され、最後にはまぎれもない神戸六甲の墓地へと至る。太平洋と六十有余年の時を超えて、アメリカの片田舎と神戸が通底したとき、ワイルダーと別役の世界が重なり、そこに「宇宙的な視野で観測される、人間たちのささやかながら、かけがえのない日々の営み」という主題が鮮明に浮かび上がった。
特筆すべきは、影の主役とも言うべき「進行係」と、原典では小さな脇役にすぎなかったサイモン・スチムソン改めトマス・キシが、ともに劇世界から放逐されて彷徨うさまが強調されていたことだ。確かに現代では、共同体に同化して何ら不安を感じない感性はあくまで古き良き時代のもので、むしろ地縁、血縁その他さまざまな紐帯から切り離された異邦人の内面にこそドラマがあるのだろう。港街神戸が背負う歴史はいかにもそうしたドラマに相応しい。一方で、原典の賛美歌が公民館での合唱曲に置き換えられたとき、『わが町』の強靱な背骨が消失してしまったこともひとつの発見だった。キリスト教的世界観の代わりを引き受けたのは、寂寞たる星空に放たれる抒情であった。
少々経験者向けの仕掛けとはいえ、震災十年の節目にふさわしい鎮魂の舞台であっただけに、東京、あるいは他の地方での公演がなかったのは残念だった。

兵庫県が発信しつづけている文化事業としての演劇は、一定の評価は得ているものの、観客の広がりと関心度にはまだまだ未開拓の可能性がある。双方のパブリック・シアターはさまざまな工夫と策を練って、劇場に観客を誘ってほしい。たとえば『神戸 わが街』における稽古見学会やポスター・チラシ原画の募集は今後も地道に推し進めるべき企画だろう。また、優れた舞台をレパートリー化して、劇場と観客が共有できる無形の財産とするヴィジョンも今後ますます望まれるだろうと考える。(了)
(ひらかわ・だいさく/大手前大学講師)
●演劇の教育と俳優の養成(4)
菊川 徳之助

日本の大学で演劇教育を行なっている大学のことをもう一度記述してみると、以下のようなものが主な形になっている。
(1)実技(実習)を伴う演劇授業を行なっている大学の設置学部
芸術学部演劇学科、芸術学部映像演劇学科、造形表現学部映像演劇学科、芸術学部舞台芸術学科、芸術学部パフォーミングアーツ学科
文芸学部芸術学科演劇芸能専攻、文学部総合文化学科演劇専修、
人文学部表現学科パフォーミングアーツコース、教育学部教養系表現文
化課程表現コミュニケーション専攻
(2)座学(理論)を中心に演劇授業を行なっている大学の設置学部
文学部表現芸術専修、文学部文学科演劇学専攻、文芸学部芸術学専攻劇
芸術コース、文学部人文学科演劇学専修、文学部人文学科芸術芸能コース
(3)演劇授業の一部が学科として行なわれている大学の設置学部
文芸学部芸術学科、文化政策学部芸術文化学科、人文学部文化表現学科
文化創造学部文化創造学科表現文化専攻
(この他にも短期大学で、芸術科演劇専攻、日本語コミュニケーション学科演劇放送コース、人間総合学科舞台系、などがある)

日本には<音楽大学>も<美術大学>もあるのに<演劇大学>がないこと、<音楽学部>も<美術学部>もあるのに<演劇学部>が無いことは前にも書いたが、そしてやっと演劇の文字が顔を出すのが<演劇学科>であることも書いたが、その<演劇学科>を設置している大学も僅かなのである。実技(実習)を伴う「演劇学科」を設置しているのは、日本全国で5大学くらいしかない。しかも、<演劇学科>と名乗っているのは、1大学のみである。他の4大学は、<映像演劇学科>、<舞台芸術学科>、<パフォーミングアーツ学科>といった名称なのである。これらの大学は「芸術系」の大学という姿を持っている。これとは別に、実質は演劇学科と同等の演劇の授業を行なっているが、芸術系ではなく「文学系」という学校がある。学部名は文学部、文芸学部であって、その中に「総合文化学科演劇専修」や「芸術学科演劇芸能専攻」といった形で設置されている。この他には、実技の伴わない座学(理論)のみの演劇授業をもつ大学がある。座学(理論)のみの学校は、ほとんどが文学系の中にある(上記の(2))。近年、演劇の授業を違った名称の学科に置く大学もある(上記(1)の終わり=文学部表現学科パフォーミングアーツコース、教育学部教養系表現文化課程表現コミュニケーション専攻)。

大学の演劇教育はこのように、<実習系>と<理論系>と実習を少し織り交ぜた<実践系>にわかれている。さらにこの他に、演劇専門でない一般教養と言われる中の、演劇概論、演劇入門、舞台芸術論といった教養としての科目の授業。そして、語学教員が行う、例えば、アメリカ演劇、ドイツ演劇といった、戯曲や演劇論を原書で読む演劇授業もある。

私個人の例で恐縮だが、文芸学部芸術学科の演劇芸能専攻を設置している大学に居る。そして他に、非常勤講師として他大学へ行って演劇を教えている。演劇を専門的に学びに来ている学生に教えるのと、演劇を専門的に学びに来ているわけではない学生に演劇を教えることと、少し違って、将来教員になる学生(幼稚園の先生になる学生)の授業もある。専任である自分の大学では、演劇を学びたい学生が中心である。しかし、演劇人になることを最初から目指す学生は勿論いるが、大学に進学できればよい、を第一の目的にしている学生もいる。この学生たちの受験動機は、ここの大学が「総合大学」であり、入学して万が一方角を間違ったとしても、または演劇をする才能がないことや演劇に適さない自己を知ったとしても、総合大学ゆえ、変更が可能という計算がある。それ故に学生には当然温度差があるわけであるが、演劇教育をするということに変わりはない。しかし、大学における演劇教育は、俳優育成機関、演劇人養成機関としては微妙なところがある。さらには、卒業生の中に専門の俳優になれる人は僅かである。金メダルを取るくらいに困難な世界である。しかも、と言うか、致し方なし、というか、演劇教育をする大学が、演劇学科、演劇専攻を設置していても、専門演劇人養成を目的の第一に置いていない大学もある。卒業証書をもらっても、その卒業証書が俳優になる免許証(俳優鑑札)になるわけではないのが現状である。ただ、出口のことを考えないで、学生が演劇教育を受けるということは、素敵なことだと思われる。演劇は総合芸術である。時間と空間の総合芸術である。人間や人間社会を描き、それも最も直接的に描く芸術である。人間の肉体(多くは俳優というもの)をもってナマ(生)の形(姿)で直接的に描かれる。時間・空間の現実性も幻想性も、演劇創造の中で学ぶことが出来る。学生の頭(理性)だけではなく、身体(感性)を通して、つまり、人間の中にあるものを丸ごと感知しての作業=教育になるわけである。しかも、学生たちは、個性を育み個性を感じながら、集団行動による複数での人間行動を奥深く学ぶのである。だがしかし、これらの肯定面を生きた教育にするための実際面、現実行動には多くの課題があることを問題にしなければならない。
(きくかわ とくのすけ/近畿大学演劇専攻教授)

●演劇書評
歌舞伎の笑いの原質ー荻田清『笑いの歌舞伎史』
瀬戸宏
本書は、梅花女子大学で教鞭をとる歌舞伎研究者荻田清氏が笑いを軸に明治までを中心に歌舞伎史を概説したものである。私は、本書を読むまでお国が歌舞伎踊りを演じた場所は五条河原ではなく四条河原、並木正三の読みはナミキショウザではなくショウゾウと思いこんでいた歌舞伎研究の素人である。もっとも、本書は朝日選書の一冊であり、私のような人間も読者に想定しているであろう。私自身もかつて『シアターアーツ』で「演劇と笑い」を特集するなど、笑いについていささか関心がある。荻田氏は歌舞伎研究専門家の書評を望んでいるであろうが、素人の読みを記すことにも多少の意味はあろう。
本書によれば、歌舞伎の笑いはその祖とされるお国歌舞伎と同様に古い。「阿国歌舞伎屏風」に、猿若と呼ばれる滑稽役が登場しているのである。その笑いの中心は物真似であった。猿若の演技などは時代とともに固定化し滑稽な要素が薄らいでいったが、それに代わって道外(どうけ)がその役割を引き受ける役柄となった。当初は、軽業など独立して楽しめる芸と野卑皮相な笑いであったが、元禄後期になると戯曲にしっかりとからんだ笑いを産みだすようになる。更に、元禄期には他の役柄の役者も積極的に笑いを担うようになった。この時期を代表する歌舞伎役者である坂田藤十郎の演技にも、笑いの要素が数多くみられる。そして、坂田藤十郎の笑いは、芝居の本筋と緊密に結びついていた。

元禄の終わりとともに、元禄歌舞伎の持っていた明るさも次第に失せ、道外方の活躍場所も狭められていく。しかし、享保の頃から興った俄(にわか)という滑稽劇は、歌舞伎の影響を受けて成長するとともに、歌舞伎にも影響を与えた。並木正三は、人形浄瑠璃に押されていた歌舞伎を再び活性化させた重要な作家だが、彼は俄と関係が深く、宝暦九(一七五九)年上演の「大坂神事揃」(おおさかまつりぞろえ)では、幕間にいくつか俄を上演しただけでなく、劇中人物も俄を演じる。彼の後を受け寛政年間に活躍した作家の並木五瓶にも、「韓人韓文手管始」(かんじんかんもんてくだのはじまり)などに俄の要素がみられる。
次の文化・文政・天保期に活躍した三代目中村歌右衛門にも、俄の影響は強い。昭和初期に歌舞伎戯曲を集めた『日本戯曲全集』全五十巻が出版され、その第二十一巻が「滑稽狂言集」に充てられ十二編の作品が収められたが、その半分の六編は三代目歌右衛門の作、または創案あるいは主役として出演した作なのである。その一つ「雁のたより」は今日でもしばしば演じられる。三代目歌右衛門の晩年から没後にかけては、大坂に二代目中村友三という人気の道外役者がいた。道外が衰退した時代に生きた彼は、憎しみの中におかしみのある道外敵として笑いの演技をおこなった。彼は当時の一流役者に数えられたが、歌舞伎では道外の才を十分に発揮することができず、歌舞伎史の中に埋没し忘れられた。

このあと、江戸歌舞伎の鶴屋南北と明治以降の狂言の歌舞伎化を分析した章があり、本書は終わる。本書は江戸時代上方の歌舞伎を主に考察し、その笑いを分析している。上方の笑いとは、ぼんやりした笑いであるという。江戸時代の歌舞伎を素直に見直すところから、劇の中の笑いを考えてもいいのではないか、というのが本書の締めくくりである。
私には歌舞伎研究、批評史の中で本書の意義を位置づける能力はなく、上述の要約も当を得ているか不安が残るが、本書が素人にもわかりやすい内容であったことは間違いない。
さて、荻田氏は本書冒頭で、氏の学生がゼミの発表で「歌舞伎の笑いは吉本のお笑いとは違うんです」と述べたことに違和感を感じたことを紹介している。第九章狂言の歌舞伎化での、明治の松葉目物に対する「江戸時代の歌舞伎が持っていた猥雑な娯楽性とは異なるものをめざしていたかのように見えてならない」という評も同様の発想にたつものであろう。
ところが、荻田氏は最近観た「身替座禅」では、明治以来歌舞伎が切り捨てた筈のわかりやすい笑いが復活したかのようであるのに気がつく。「わかりやすい笑い」とは、「吉本のお笑い」「猥雑な娯楽性」と同質と考えていいのであろう。だが、荻田氏はこの現象を単純には喜ばない。逆に「ここまでやってよいものかと不安になった」という。
ここに、現代の歌舞伎が抱えているジレンマが現れているように思われる。一方では伝統芸能として徹底して古典化すべきだという声が根強くあり、他方では現代の演劇としてその大衆性を取り戻せという声もある。荻田氏はおそらく後者への支持に傾きながら、それに徹することにためらいも感じているのである。

歌舞伎はどの道を歩むべきか。しかし、ここから後は読者が自分の頭で考えるべきことであろう。本書は、笑いを切り口に江戸時代の歌舞伎に関する知識を平明に与えてくれると同時に、伝統演劇の二重性の問題を改めて考えさせてくれる本である。
朝日新聞社刊、1200円
(せと・ひろし/演劇評論・中国現代演劇研究)

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『あくと』三号より、下記の要領で一般読者からの投稿を募集しています。編集部で審査のうえ、優れたものを『あくと』に掲載します。
・投稿内容は劇評、時評・発言、海外演劇紹介、書評などジャンルを問いませんが、関西地区上演の舞台対象の劇評を歓迎します。
・枚数は5枚(2000字)が基準です。
・原稿料はお出しできません。
・投稿締切は以下の通りです。
『あくと』五号(05年5月初め発行)掲載・・05年3月20日締切
『あくと』六号(05年8月初め発行)掲載・・05年6月20日締切
・投稿は電子メールでのみ受け付けます。タイトルに【『あくと』投稿原稿】と明記してください。原稿には、氏名(筆名使用の場合は本名も)、連絡先、職業(所属先)を明記してください。
・投稿宛先 ir8h-st@asahi-net.or.jp 瀬戸宏

●編集後記
季刊演劇批評誌『あくと』も4号に達した。三号雑誌の汚名はまぬがれたわけで、ひとまず嬉しい。雑誌としてはごくささやかなものだが、定期刊行物の発行維持にはそれなりの労力が必要となる。なにより、無償で原稿を書いてくださっている執筆者と本誌を読んでくださっている読者のご支持がなければ、とても雑誌は続けられない。この場を借りて厚くお礼申し上げたい。
本号では、維新派『キートン』についてクロス・レビューを組んでみた。藤原央登氏は前号に引き続いての投稿である。一方、会員の中西理氏からは、『キートン』についての投稿があることを知ったうえで、劇評寄稿の熱意をこめた申し入れがあった。編集部として意図したわけではなかったが、クロス・レビューという形でお二人の劇評を掲載した。今後は、当初から企画したクロス・レビューがあってもいいかもしれない。
投稿規定を本誌でもサイト上でも掲載しているが、まだ投稿は多くない。未知の新人の力のこもった批評文を期待している。
5号以降のことも考えねばならない。本誌のような劇評中心の雑誌は、季刊では上演状況にうまく対応できない面があることは否定できない。個人的には、隔月刊にしたいという思いがあり、本誌のようなシンプルな雑誌なら財政的にもまったく不可能ではないが、隔月刊化には乗り越えなければならないハードルがいくつもあるのも事実である。とりあえず、五号はこれまで通り三ヶ月後に発行する。読者、執筆者の皆様のいっそうのご支持、ご鞭撻をお願いしたい。(瀬戸宏)

act3号

■巻頭言 大阪のど真ん中に劇場ができる時

瀬戸宏
この十月、大阪で劇場があいついでオープンした。インディペンデントシアター2nd、アリス零番館-IST、精華小劇場である。このほか、大阪では今年に入って、ウルトラマーケットも開場している。二〇〇二年に関西地区の小劇場演劇界に長く貢献してきた扇町ミュージアムスクエア、近鉄劇場・小劇場の閉鎖があいついで発表され、関西小劇場演劇界の危機意識が一挙に高まり、関西の演劇人によって「大阪のど真ん中に小劇場を取り戻す会」が作られるなど、大阪にふたたび小劇場を取り戻す運動が続けられてきたが、今回の開場ラッシュともいえる状況は、そうした運動の一つの帰結でもある。各劇場の場所は、歴史的地理的にみれば、文字通り大阪のど真ん中にある。

国際演劇評論家協会(AICT)日本センター関西支部は、この運動にいちはやく支持を表明した。私自身も、これらの運動をもちろん支持し「取り戻す会」の会員にもなった。しかし、今だから言うが、私がこの運動に一抹の疑問を感じていたことも事実である。

まず、閉鎖された劇場の関西小劇場演劇界での位置が極めて大きかったにせよ、大阪にはほかにも小劇場はある。そしてそれらの劇場のスケジュールが超過密で、新たに劇場を作らなければ上演活動自体が不可能という状況かというと、決してそんなことはない。
もう一つ、近年成果をあげている東京の小劇場は必ずしも東京のど真ん中にはない。今日では演劇のメッカになってしまった本多劇場も、開場当時はずいぶん遠い場所という印象だった。ベニサンピット、シアターΧなども、従来の観劇習慣からははずれた場所である。当初は辺鄙な印象を観客に与えても、強く記憶に刻まれる名作が繰り返し上演されれば、やがてそこが観客にとってなくてはならぬ場所になっていくのである。

精華小劇場で、オープニング記念に二つのシンポジウムが開催された。「関西演劇人会議’04『劇場の話をしよう』」(10.28)と「大阪のど真ん中に小劇場は取り戻せたか?」(10.31)である。前者では、各劇場の実情が担当者から直接語られ、たいへん参考になった。後者は、所用で最後の部分にまにあっただけだっが、そこで深津篤史が、これからだ、という発言をしているのを聞いて安心した。
大阪の各劇場の将来は、まさにこれからである。本誌も、演劇批評の立場からこれらの劇場と併走していきたい。

(せと・ひろし AICT日本センター関西支部事務局長、『あくと』編集長)

■劇評
●また会うことの歓び
-劇団八時半『そこにあるということ』とマレビトの会『蜻蛉』
出口逸平

歌舞伎や文楽ならともかく、現代演劇で同じ作品にもう一度巡り会うチャンスは、決して多くはない。それがつねに「新しさ」を求められる現代の宿命だといえばそれまでだが、どこかそのさまは息せき切った馬車馬のようでせわしない。私はなにも「新奇さ」を求めて劇場に足を向けはしない。むしろ以前見えなかったものが見えてくる、その「発見」の瞬間を楽しみたいと思うことがある。この夏は、そんな二つの舞台に出会った。

鈴江俊郎作・演出の『そこにあるということ』(8月25-29日 アトリエ劇研)は、96年2月(京都府文化芸術会館)と97年1月(ウイングフィールド、岡山県総合文化センター)に続く再々演となる。入ってまず劇場の様子に驚かされた(舞台美術 長沼久美子)。狭い舞台に何本もの柱が立ち並び、客席はその舞台を見下ろす急勾配の高さにしつらえられている。ミニ・コロセウム、あるいはリング場といえばいいのか。観客はこれから始まる闘いを間近に見物するという格好なのだ。そう、それはまさに男女の闘いの場となるはずであった。同時に三人の女性を妊娠させた男。当然男はそのだらしなさを糾弾される。しかし女性たちはただの被害者ではない。それぞれの女性と男との関わりが明らかになるにつれて、男を含めじつは皆が同じように空虚感を抱えており、だからこそ互いに「そこにある」ことを確かめようと関係をもってしまうという道筋が浮かび上がってくる。初演では男の前から女性たちが消え去り、一人残された男が「皆、同じなんだ。そうでもしないと、そこにはなにもないんだ」とつぶやくシーンで舞台は閉じられた。ところが今回は「なにもない」ことに耐えきれず、男が部屋じゅうに物をぶちまけ暴れまわる。ほかに空虚を埋めるすべを持たないその姿は、狂おしくもまたやるせない。そこに去っていった女性たちがもどってきて、今度は彼女たち全員で雑魚寝するという場面が付け加えられた。この新たな結末によって、「孤独であることの共感」とでもいうべき作品のモチーフがより一層印象付けられることになった。中村美保、金城幸子、加納亮子(桃園会)が三者三様の女性像を鮮やかに描き出して、劇のリズムを作った。

松田正隆作・演出の『蜻蛉』(9月15-20日 アトリエ劇研)もまた、99年1月(ピッコロ・シアター、新国立劇場小劇場)を受けた再演である。ただし初演が岩崎正裕(劇団太陽族)の演出であったのに対し、今回の舞台は作者自身の手による。そこにやはり大きな違いが生まれていた。題は『源氏物語』の巻名にもとづく。宇治十帖の世界から中君と浮舟の姉妹、匂宮と薫の四人を拉しきて、彼等が綾なす複雑な恋愛模様を現代に取り込んだ按配だが、細部はまったくの創作である。初演では、新たに付け加えられた女生徒とその兄、さらに姉の恋人須永の妻にそれぞれ劇団太陽族の役者を起用し、彼等に関西弁を使わせていた。それによって舞台に日常的なリアリティーの色合いが強まり、独身の姉の老いへの怖れなどはストレートに感じられるものの、失踪して亡霊となる妹といった作品の非日常的要素がうまくかみあわないきらいがあった。今回は装置も簡略化され、方形の舞台の周り四方がいわば能の橋掛りとなり、そこを登退場する役者が摺り足で歩むというように、全体が能舞台のイメージで統一されていた。台詞も初演に比べかなり刈り込まれ、役者の演技力にばらつきはあるものの、姉妹のありようを軸に、生と死、現在と過去、現実と非現実とが交錯する作品の夢幻能的構造が際立つ、じつに端正な舞台となっていた。

いうまでもなく再演はただの繰り返しではない。今回のように演技や作品の練り直し、あるいは演出への意欲など、観客のみならず劇作家や劇団にとっても、再演は刺激的な体験となりうる。

また経済的負担の面からいって、再演はむしろ小劇場でこそ実現可能な試みだといえよう。「新作」への強迫観念が薄れたいま、こうした試みが小劇場の果たす役割の一つとなるのではないか。むろんそのためには再演に値する演目を目利きし、上演をサポートする体制が必要だが、ウイング・フィールドやアトリエ劇研といった関西の小劇場にはその実績もある。これからの再演の試みに期待している。
(でぐちいつへい/大阪芸術大学)

●樹霊がラフレシアに降りてきた/『耳水』
柳井愛一

都市伝説に、アルカイックな語りの要素を持たせた形式の、いつもながらの楽市楽座の舞台。しかし今回は微妙な変化。これはちょっと注目に価する。余分なものが削ぎ落されていて、どうして彼らがこのシチュエーションをモチィーフにした作品にこだわり続けてきたのかがはっきりと見えてきた。そして、劇団のキャッチフレーズである“ゑんぎのサーカス”のサーカス的な部分を初めて個人的に楽しむことのできた記念碑的作品。

鏡板の老松の代わりに舞台後方に、樟の大木が鎮座している。樟の枝から神社の鰐口の紐のような鳴り物の付いた布が舞台の四方に垂らされている。野外円形劇場ラフレシアが大木に覆われていることが分かる。夜と樟に覆われた天井のない野外舞台。ロケーションはまず最高。

雑踏シーンからなし崩しに始まった舞台に紛れ込んできた男(西田政彦)が大した理由も無しに、その辺りに落ちていた鶴嘴で穴を掘り始める。どうやら廃ビルの中での出来事らしい。男を追いかけてきた女、ヒカル=クラシ(小室千恵)との会話で、女と喧嘩をした甲斐性なしの男がむしゃくしゃして意味もなく始めた行動だと分かる。男は塵芥と一緒に眠っていた物語まで掘り起こしてしまった。

夢とも現とも判別の着かない人々が闖入してくる。耳と口の不自由な老婆(北村チコ)、目の不自由な中年・ヒゲ男(雪之ダン)、巨大な女・マダム(南田吉信)や娼婦達が登場。彼らはこの時点ではまだ単なる頭のおかしなホームレスにしか見えないが、やがて暴力的な物語を語り出す、奇妙な、幽幻能の前シテ達だということが分かるだろう。

マダム達は突然男に襲いかかり、男の目や耳を奪い取る。ヒゲ男は目を、マダムは背骨を。しかし、老婆は耳を前にして躊躇する。-パントマイマー兼ギタリストの北村の演劇的でない芝居が印象的-。ヒカルはいつの間にか娼婦達の一員・クラシに変わっている。沈黙していた物語を再び始めるためには俗世的な身体を取り外すことが必要なのか、それとも畏しい大地母神の物語=供儀への捧げ物なのか、男は解体されてしまう。しかしここではまだ物語る口が登場していない。そして老婆が所有を保留した耳の所在も定かでない。

男の掘っていた穴から泥水が沁み出し、満ちてくる。マダムは泥水の溜まった穴にソープ・ランドのバスタブの様に浸かり、ヘルスセンターのジャグジーの様に寛ぐ。彼女?は娼婦達を観客に紹介し、幻を甦生させる。思い出に縋る初老のホームレスが曾ての女郎屋の女主人として甦える。南田の不明瞭な言葉が、何故か夜風の中で生き生きと輝ていた。
ここで口=詩人マルテ(佐野キリコ)が登場。老女が受け取るのを拒んだ耳=カタツムリ女=カタビラ(朧ギンカ)もやがて現れる。

マルテは吟遊詩人から語り部=口に変化していくことにより、その名前が指示する文学的な齟齬感を払拭することができた。-どこか垢抜けないバタ臭さが楽市楽座のウリなのかもしれないのだが-。カタビラ、巨大な貝殻=耳を背負って現れた女は語られる以前にナニカを聴いてしまう存在。口と耳が邂逅する時、幻の場所の記憶がやっと再生される。樟の枝に仕込まれたスプリンクラーから降り注ぐ雨の中での、文字通りの、濡れ場は妖しく魅惑的。-このシーン野外劇の醍醐味が満喫できる-。

当然のことながら、残酷で陳腐な日常が戻ってくる。目=ヒゲ男が登場し語られた物語の裏側を暴露する。視ることの残酷さ故にヒゲ男は盲目の放浪者として罰せられているのか?

カタツムリ女=カタビラは壊れてしまい、自らをヘビの化身だと主張する。娼婦達は巫女の様に舞台四方の鰐口?を鳴らす。語り部=マルテや巫女達=娼婦達の存在全てを受けて真のシャーマンとしての自己を主張する。ここで縄文のヘビ=神やドリームタイムの虹蛇=原初の創造神への回帰という作品のテーマが現れる。しかしそれは零落した神話、不可能な物語でしかない。かっての神話や芸能の様に語ることによってなにかを豊饒にし、救済することはできない。けれど語ることによって顕現するなにかがある。悪夢としてではなく、都市の底を流れる謎の水脈として語り続けられることを要求する物語。そんな水脈を楽市楽座はどうやら見つけたようだ。喝采。

ひとつの土地の持つ神話的な力を感じ、滅びた者達の幽けき声を聴く。そんな無謀な作業のために楽市楽座は悪戦苦闘を十数年間してきた。それを労って、樟の大木の樹霊が円形劇場ラフレシアに降りてきて、サーカス的祝祭を実現させた。と言ってしまえば彼らに叱られるか?。難を言えば、少し浪花節的なロマンが鼻に就くが、ま、サーカスはロマンティックなものだから、良しとしよう。

楽市楽座 作・演出/長山現
中之島公園剣先広場・特設野外円形劇場ラフレシア・第四回大阪野外演劇フェスティバル参加作品、9月24日(金)所見
(やない・あいいち/演劇ライター)

 

●ガラスの靴が砕けた後は—— 劇団青い鳥「シンデレラ・ファイナル」

畑 律江

今さらだな、と思う人がいるかも知れない。それを承知で今一度、書き留めておこうと思う。80年代、女性たちの集団創作から生まれ、多くの小劇場ファンに支持された劇団青い鳥の「シンデレラ」である。今年9月、この作品が再び舞台に上った。82年に初演、85年に再演されて以来ずっと封印されてきたが、劇団が30周年を迎えたのを機に、実に19年ぶりに上演することになったという。しかし今回のタイトルは「シンデレラ・ファイナル(最終章)」である。なぜか。その理由が知りたくて、MIDシアターに足を運んだ。

骨格は同じだ。1人でアパートに住む哲子が、突然姿を消す。行方を捜すためにやって来た友人の考子が、哲子の部屋にあったぬか床をかき回すと1本のクギが抜け、なぜかそこにミステリーゾーンが現れる。その世界で、考子は哲子によく似たシンデレラに出会う。シンデレラはガラスの靴を大切にしていて、床を磨きながら「何か」を待っている。だが「あんまり長いこと待っていたものだから、それが何だかよくわからない」と言う。
アパートの一室とシンデレラの部屋、宮沢賢治の童話のカエルたちの世界、事件を捜査する刑事たちの部屋。これらを行き来する構成も同じ。だが大きく変わった点が一つある。

80年代のシンデレラは最後に、自分はみすぼらしいシンデレラなのだと舞踏会で正直に打ち明けるべきだったと話す。そして彼女がガラスの靴にまさに足を入れようとする、その瞬間で物語は終わる。だが、21世紀のシンデレラは違う。ガラスの靴を投げ捨ててしまうのだ。靴の破片は、きらきらと輝きながら世界中に散らばっていく。

誰かが探しに来るのを待つうちに、人生は刻々と過ぎてしまうんだよ。80年代のシンデレラは、そう告げた。ガラスの靴は「女性が自ら外に出て行く自由」の象徴とも解された。だが21世紀のシンデレラは、ガラスの靴自体を砕いてしまう。ガラスの靴さえあれば再び王子の待つ舞踏会へ自分から出かけられたのかも知れないのに、その可能性をも捨てる。誰かに依存する幸せそのものを捨てたのだ。彼女はもはやシンデレラではない。つまり、この最終章は「シンデレラ的なるもの」への、最後の決別のメッセージだったのだ。

自分は本当は何がしたいのか。何が欲しいのか。劇団青い鳥のテーマはよく「自分探し」だと言われた。役割に縛られ、他者の事情に振り回され、自分の中からわきあがる素直な欲望にさえ耳を傾けることができなかったかつての女性たちにとって、それは切実なテーマであった。だが現在はどうか。「自分探し」は当時の新鮮さを失いつつあり、今やそれは、失業やリストラで自分の居場所を見失いがちな中高年男性のテーマとしてよく語られる。そして若者の方はというと、その心の大部分を占めているのは「自分探し」よりむしろ、生きていくことへの不安のように見える。望んだところで世界は変わらない。そう考える若者も多い。

80年代、「シンデレラ」に感動した観客の多くは、「個人的なことは政治的だ」という発想——家庭や職場で起こる悩みは、個人的なもののように見えて、実は社会の権力構造と分かち難く結びついているという認識——を、大なり小なり共有していたように思う。だからこそ、自分の心の内側へ入っていくことは、同時に自分を取り巻く外部を考えることでもあり得たのだ。だが、たとえば精神科医の香山リカ氏が指摘しているように、最近の人々が「自分にかかわりのある身近な問題への関心のみに基づく実用主義(ネオリアリズム)」に急激に傾斜しているとするなら、「自分探し」も、「シンデレラ・ファイナル」が見せた潔い決別のメッセージも、かつてのような広がりを持っては受け止められにくいかも知れない。そんな思いにとらわれた。時代は、確かに変わってしまった。

だが、それならば「シンデレラ・ファイナル」に輝きを感じなかったというと、そうではない。むしろ、この劇団の表現手法の心地よさを、改めて発見することができた。女性の役者が男装したり、華やかに踊る若手小劇団など、今や少しも珍しくない。だがそれらが多くの場合、「あなたにこんなことができる?」と誇示する姿勢を感じさせるのに対し、青い鳥の演技やダンスには、「きっとあなたにもできるはず」と、見る者を静かに支え、立ち上がらせる優しさがある。楽しいが、媚びていない。優雅で、毅然としている。

劇団青い鳥は30年続いた。長く続けることが小劇場の目的だとは決して思わないが、それでも、しばらく芝居から離れていた人も含め、今回、初演メンバー3人が再び舞台に上がったことはやはり貴重だ。彼女らも観客も年齢を重ね、ガラスの靴はついに粉々になった。そして閉塞感の漂う2004年。粗末なアパートの一室から、裸足の哲子は再び歩き出したのだ。青い鳥の表現が、また新たな文脈を与えられて輝くことを期待したい。
(はた・りつえ/毎日新聞学芸部編集委員)

●光る男優陣の健闘 ——劇団大阪『日暮町風土記』——
市川 明

永井愛は旬(しゅん)の作家だ。一日に2本彼女の作品を鑑賞することができた。昼に大阪労演で俳優座の『僕の東京日記』を、夜に劇団大阪の『日暮町風土記』を見た。『東京日記』のほうは71年の東京が舞台。学生運動が華やかだった時代を、アパートの住人の生活から垣間見させる。ジョーン・バエズやボブ・ディランの歌声もなつかしい。永井愛はなんと女性をうまく描いていることか。主人公は自立を求める大学生、原田満男(蔵本康文)なのだが、教育ママの母親(片山万由美)や下宿のおばさん(中村たつ)、生活と芸術の間を揺れ動く新劇女優(美苗)などが縦横に活躍する。おばさんたちを通して「神田川」のにおいがよみがえってくるのだ。

『日暮町風土記』はかつての繁栄の面影もない町が舞台。百四十年続いた本通りの菓子屋「大黒屋」が取り壊されようとしている。まず石野実の装置が目を引く。大きな柱を渡した木組みの家、格子戸から漏れる光と井戸。観客はまるでこの古い民家に座って芝居を見ているような感覚になる。

生活のために店を売り払い、国道沿いに新しい店舗をオープンしようとする清家夫妻。「日暮町の歴史を残す」家の解体に反対する「町並みくらぶ」のメンバー。開発か文化財の保護か、それはエコノミー(経済)かエコロジー(環境)かという常に問い直され、論争され続けてきた人類永遠のテーマである。だが永井はこの作品をシリアスな社会劇ではなく、庶民が織り成す喜劇として描いている。演出の熊本一も軽いタッチのラブコメディに仕上げている。すべての登場人物がどこかでカップルになっており、それが笑いの原点なのだ。

「町並みくらぶ」の代表、堀江波子(中村みどり)が大黒屋に直談判に押しかけるところから芝居は始まる。そこへカメラを抱えた旅行者の山倉(北尾利晴)が現れ、「ただものではない」この家を写真に収めたいというので、波子はいっそう発奮する。彼女は家の取り壊しを一ヶ月伸ばし、実測調査をさせてほしいと主の清家勝年(斉藤誠)に頼み込む。しっかり者の妻(和田幸子)と強引な波子の間をピンポン玉のように浮遊する勝年。彼はどうやら町役場のすみれ(名取由美子)とも恋仲らしく、二人の女性の間を揺れ動いている。斎藤誠が弱くてお人好しな主人公を好演している。この人物だけが古い家か新しい店かという葛藤を見せてくれる。

与えられた一週間という期間内に、家屋の間取り図を完成させようと「くらぶ」のメンバーが集まってくる。ミカン農家の不二男(高尾顕)や事務員の明日香(梅田優子)。明日香が恋する勝年の息子光太(中村暢宏)、明日香に思いを寄せる不二男の息子力也(熊谷次朗)などがからんで、日々の生活、この町の暮らしがさりげなく語られていく。旅行の日程を変更して町に残った一彦や、東京から駆けつけた波子の姪の涼(岡部紀子)らも加わり作業は続けられる。家への思いいれを断ち切れない勝年も姿を見せ、町や家の歴史・歳月が浮かび上がる。このあたりは永井愛の優れた作劇術を感じさせる。

やがて一彦の正体が明らかになる。建設会社のバリバリの営業マンで、古い木造建築を見つけては建て替えを勧め、町の再開発のために奔走してきたというのだ。最終場面は波子と一彦の会話である。波子は「あなたはここで別の心に、もう一つの自分に迷い込んだのだ」と慰める。一彦は「日暮町は開発に適さないと報告する」と言い残し去る。波子が「帰ってきなはいや!あんたは迷い子になったんじゃけん!」と呼びかけ、一彦の作業ノートを胸に押し当てるところで幕となる。それにしてもなんとセンチメンタルでメロドラマ的な幕切れだろう。ここまで歌い上げられるとどうも寒くなってしまうのだ。ブレヒトだったらまったく違う結末にしていたろうなとふと思った。

男優陣は勝年をはじめ全員が大健闘である。不二男を演じた高尾は素朴でひょうひょうとした味を出していたし、息子力也の熊谷も振られ役の青年の息遣いが感じられ、ともに大きな笑いを得ていた。これに対して女優陣はベテランの芸達者を揃えているが、パターン化され、誇張された人物になりがちだ。笑いのポイントが先に見えてしまい、笑いの振幅が狭められたのは残念だった。そんな中で梅田のストレートな演技が印象に残った。

この間数々の優れた作品・上演でヒットメーカーとして不動の地位を確立した永井だが、『日暮町』は作品としては弱いように感じる。作品にも人物にも大きな葛藤は見られず、みんなが古い家の解体という逃れられない運命を了解し、懐旧の情を述べ合うドラマのように思えるのだ。一彦の存在もお涙頂戴的な結末を引き出すためだけのように見える。作品の大きなテーマは後景に退き、庶民の生活臭だけが前面に出てくる。それはそれで見所があり、笑いもあるのだが、どこか物足りなさを感じてしまうのだ。
[劇団大阪。谷町劇場、10月16日]
(いちかわ・あきら/大阪外国語大学教授、ドイツ演劇)

●売込隊ビーム「13のバチルス」
知的パズルコメディという種類
藤原 央登
都市開発が進行するニュータウンそこの隔離シェルターが舞台である。シェルター体験として入ってきた男女。しばらくすると女性の一人(小山茜)が症状を訴える。まさかシェルター内にウイルスが侵入したのでは。誰が持ち込んだのか。ウイルス研究所の職員を交えてトリックと笑いと人間模様がひしめき合う。

コメディを主に上演する「売込隊ビーム」だが、今回の作品は今までとは同じように見えてちょっと違う。笑いの精度は上がったなという印象だ。もう少しストーリーを追っていくと、犯人探しをしている際中、突然、B(山田かつろう)が咳をしだす。芝居中なのに。役者の体調管理不足のせいだ。舞台袖でBは休憩を取り、また復帰する。すると、また違う役者も咳をしだしてしまう。そう、伝染してしまったのだ。咳をしているのは小山茜だけのはずが、いつしか役者全員に風邪がうつってしまう。舞台を中断し、舞台稽古の映像を流して、何とかその場をしのぐ。最後は、役者全員フラフラで無理矢理芝居を終わらせ、舞台監督の謝罪で舞台は終わる。

長くなってしまったが、役者たちは本当に風邪を引いていたわけではなく、それも芝居なのである。いわゆる二重構造の仕掛けになっている。

この「売込隊ビーム」や「ヨーロッパ企画」といった若い劇団の特徴としては知的パズルを取り込んだコメディと上演する事が多い。「ヨーロッパ企画」はずっとそのスタンスを続けている。その中に、「売込隊ビーム」が知的パズルコメディに参加した、といった方がいいかもしれない。

日本の現代演劇はその時代を代表する笑いの種類があった。70年代、つかこうへいを代表とするブラックユーモア、80年代、野田秀樹、鴻上尚史の疾走する軽やかな笑いといったのがそれである。彼らは決してただ単純に笑いという手法を採ったのではない。社会や風俗を半ばあきらめを持って見ていた。それゆえに批判する方法としてパロディ的な笑いを用いたのだと思う。パロディは、笑えば笑うほど、観客は虚無感を感じずにはおれない。なぜなら笑っていた対象はそっくりそのまま自分自身や、今の社会への批判となって帰ってくるからなのである。悲しみや真面目さをもって訴えるよりも、その方が、何倍にも生々しくリアルに世相を反映する写し鏡の効果を持っている。先人達はその事に気づいていたのかどうかは分からないが、70年代の政治の白熱した時代への「白け」ムードや80年代の終末感、絶望感といった世相もあって、抜群に支持されたのである。

それでは今現在はどうなのだろうか。笑いの部分で言えば明らかに頭打ちの状態であることは確かである。90年代「静かな演劇」といった言葉が使われた事によって、芝居の上演スタイルが派手さとは逆に、どんどん世界が縮小化した。その縮小化された世界から、世界へ発信されるメッセージを発するという上演スタイルが定着してしまった。笑いもそれほど過大にならず、添え物程度になってしまった。

それと、もう1つ、三谷幸喜の影響が大きいだろうと思う。彼によって、密室で起こる人間の刻々と変化していく心理と行動を描写するというシチュエーションコメディが同じく90年代に台頭する。三谷の劇世界も、縮小化されている。演出家の山田和也による「子供から老人にまで受け入れられるディズニーランドのような演劇」ということからも分かる。

この作品も典型的な三谷的コメディなのだが、知的パズルの要素があることによって、観客は、クイズをしているかのように楽しめる要素がある。いささか役者の演技が過剰なためおもしろいところが駄目になってしまったのは残念である。映像との対比を見せるアイデアはギャップがあればあるほど面白いので良かった。

開演前、後ろの女子高生が、友達に「今日風邪気味だから咳をしないように」と話していた。芝居の内容はおそらく知らないであろう。いざ本番になると、その人は我慢できずに何回か咳をしていた。面白いとはこういうことなのだと思う。偶然が偶然でなくなる時、この人の場合なら、咳をしてはいけない事をわが事の様に感じたはずである。そして、その事に気づいた私もすっかりこの世界にはまっていた。

今の時代、何事か積極的に事を起こすことが少なくなっている中、何かを向こうから仕掛けてもらうのを希望しているという事はないだろうか。わざわざ劇場に足を運んでいるのだから、楽しませて欲しいと思う観客が増えているような気がする。そういう観客は、こういうクイズ的な芝居はどう思うのだろうか。食い付くだろうか。食い付く行為すら面倒くさいと感じるのだろうか。犯人は「13のバチルス」の13を合わせたBというオチ。私は好きなのだが、どうなんだろう。(7月20日・HEPHALL)

(ふじわら・ひさと/近畿大学文芸学部3回生)

 

■時評・発言

●大阪労演の活動から
岡田文江一九三七年、新劇の大衆化を目指して発足した新築地劇団の趣意書のなかに、「独立」した演劇運動を続けるには、観客の”会員制度を基礎とする、劇団の計画的経済樹立へ”という言葉があるという。

敗戦の年、一九四五年十二月に、中断されていた新劇公演が復活した。その翌年、予約会員制を目指した「FOT新劇友の会」が、文学座、俳優座の共通観客組織として誕生する。「自分たちの希望する演目を選び、自分たちの経営する劇団を支持、観劇する」という趣旨の、観客主体の組織を目指したが、戦後の猛烈なインフレのため、その仕事が緒につかないまま、一年余りで解散している。大阪での新劇公演は四六年六月から始まる。当初、朝日会館、毎日会館–今はない–、の昼夜二回の一週間公演、どの芝居にも、文化に飢えていた二万人の人たちが集まった。自立劇団の発表会も、一週間、朝から夜まで、満席の状況であった。

一九四八年、東京で、勤労者演劇共同組合が、新劇団協議会が中心になって発足。優秀演劇の共同観賞会–料金割引及び座席券の優先的獲得–、自立演劇への援助–講師の派遣–などの仕事を始めるが、1953年に解散する。

しかし、この時期、朝鮮戦争を前にしてのアメリカの占領政策の急転回、こうした状況の下で、私たちを取り巻いていたのは、相次ぐ大ストライキと弾圧、物価騰貴とインフレ政策による生活の苦しさ。観客は急激に減少してゆく。観客の減少は、現実に生きる観客と、劇団によって創り出される演劇の齟齬を語るものでもあった。このままでは、新劇が衰退してゆく。演劇公演を活発にするには、まず、観客を増やさなければならない。それも、出来得れば、決まった観客が、続けて観ることによって、経済的にも安定するし、内容的にも深く関われるのではないかというところから、広汎な、勤労者層を基盤とした、会員制の観賞組織なるものが考えられた。機関誌一号の見出しは、「労演–演劇を守り育てる組織」である。「演劇を正しく発展させるためには、単に、創造者だけの解決の努力だけでは不充分である。新劇・自立劇団が正しく発展するには、当然、観賞組織との交流がなされなければならない」と。参画したのは、新劇人協会、関西自立劇団協議会、そして、戦前からの劇団後援会、新劇愛好者たちである。会費は月70円、毎月一回芝居を観る、10名以上のサークルつくり加盟する。世話役1名を選び、月1回会議を開いて全てを協議する。そんな取り決めで仕事が始まった。発足時の会員数は1500名。そして、50余年–。

しかし、時代の流れに抗しての出発であるので、当然、すぐ様々な困難にぶつかる。50年代初頭、レッドパージ旋風によるサークルの壊滅、50年5月再組織して500名で再出発となる。実際、混沌とした時代であった。下山事件、三鷹事件、松川事件、物価騰貴は続く。その頃、東京の新劇団公演は朝日、毎日新聞事業団主催だったので、その内の何回かを買い取る形だったが、それが年四・五回、月一回の例会の取り決めでは、残りは独自に組み立てねばならない。それには5000名の会員が必要になる。会員を増やそうと呼びかけても思うようにはゆかない。やっと拡大に向かったのは、「もはや、戦後ではない」という言葉が巷に見え始めた55年頃、爾来、順調に増え続けた会員数は、「所得倍増計画」なるものの影響を受けた六五年、24000名に達する。それを頂点に、徐々に減少傾向へ。70年代に入って、大劇団の分裂、若者劇団の台頭、価値観の多様化の流れのなかで、会員数は急速に減少。80年代、経済優先、総財テク化、演劇の世界も例外でなく、さまざまな形態、場所での公演が華やかに展開される。私たちの例会にも、新しい劇団、演劇座、泉座、早稲田小劇場、冥の会、睦月の会、五月舎、木六会、四季、立動舎、文楽と歌舞伎による”恋飛脚大和往来”といった演目もある。

くだくだしくなるので、この辺で打ち切るとして、振り返れば、私たちの50年は、政治・経済・社会・文化情況の流れのなかを漂いながら、何とか、発足の初志を貫きたいと、模索を続ける年月であったといえないだろうか。

演劇を愛する多くの人たちの協力と努力に関わらず、仕事は必ずしも順調に進んだとはいえないが、月一回の例会は50年間、続けられてきたし、或いは、労演主催でないと実現できなかった公演も、数々みられる。

因に、10周年の感想は”ほのぼのとした希望”であった。20年は自己変革、30年は観劇は”無用の用”であった。発足時、「労演の会員がせめて30代になれば」と劇団を嘆かせた現在の平均年齢は50歳後半、今、再び、若者が期待される、50年である。
(岡田文江/大阪労演事務局長)

●365日の文化事業に向けて
Kyoto演劇フェスティバル、25年の軌跡と今後
椋平淳

「演者」「戯曲」「観客」を演劇の3要素とする見方からすれば、必ずしも「劇場」は、演劇という営みが成立するための必須要件ではない。けれども、20世紀後半から今日まで、日本各地の自治体で幕を上げた「演劇祭」という催しについていえば、多くの場合、「公立ホール」というハードが前提となって初めて出現した演劇的ソフトだといえよう。高度成長期以降、バブルの終焉を経てもなお建設されつづける公立文化施設は、現在では全国で2,000館をはるかに超える。行政側にとって、施設の稼働率を数日から月単位で高める「演劇祭」は、‘箱物行政’に対する社会的批判を和らげるだけでなく、地域に対する文化施策の推進という行政上の評価を得る手段となる。一方、演じる側にとっても、自主公演よりもおおむね安価で芝居を打つ機会が得られたり、新たな観客の獲得や、さらなる創造に向けた交流の場となりうる。両者の思惑が一致するところに、「公立ホール」を主会場として、自治体主催の「演劇祭」が漠々と立案されていったのだ。

京都府などが主催するKyoto演劇フェスティバル(通称「演フェス」)も、京都府立文化芸術会館という公立ホールを拠点とする。会館のオープンが1970年、そしてフェスティバルの創設は1979年。「発表と交流の場を提供」し、京都における「創造活動に寄与」するという会館の設置趣旨を体現する形で、演フェスは毎年2月、このホールを舞台として催され、自治体関係の演劇祭としては今日までに全国有数の開催回数を重ねている。

もちろん、単年度予算が基本の自治体において、一つの事業が25年にわたって継続するには、時流に応じた企画や運営方法の改革が不可欠である。創設当初の演フェスは「公募プログラム」のみで実施され、全団体によるコンクール形式をとっていた。単一プログラムのなかに児童・青少年向きの演劇から一般成人対象の舞台まで、観客設定の異なる作品が混在していたため、第12回からは「児童・青少年部門」と「一般部門」に分割され、部門別に大賞を競う形式へと変更された。その後さらに、新参の劇団数が増加するにつれて、脚本賞や観客審査員賞など、大賞以外の各賞を再整備し、参加団体への励みとした。その成果か、徐々に上演内容も充実し、この時期の受賞者には、一般部門の大賞として「劇団八時半」(第16回)や「劇団パノラマ☆アワー」(第19回)、脚本賞に鈴江俊郎(第14・16回)や山岡徳貴子(第18回)、児童・青少年部門の大賞として人形劇の「ミニシアターまる」(第17回)など、後に全国的に活躍する面々が名を連ねている。一時、中堅劇団の参加が滞る時期もあったが、府内の劇団に対する演フェスの浸透や、こうした若き実力者たちと同じ舞台を踏めることが呼び水となり、開催規模は少しずつ拡大していった。

しかしながら、規模の拡大はやがて、会館職員を中心とする当時の運営組織を窮地に追い込んだのも事実だった。そのため第20回からは、民間の若手演劇関係者を中心に機動的な運営委員会を新たに設置し、企画立案と運営実務を会館と共同で行うことになった。
この“民活”による運営方法の改良を機に、演フェスは大きく転換する。参加団体総出でフェスティバル本来の祝祭性を高めるため、基幹の「公募プログラム」は従来のコンクール形式を廃止。代わりに、将来有望な若手演劇人の舞台成果を競うコンクール部門「Kyoto演劇大賞」(第22・24回)を独立させた。加えて、プログラムの多彩性を求めて新たに導入されたのが、公募によらず府内実力劇団・中堅劇団をピックアップした「実行委員会企画」(第20・21回)や、一般府民参加型の合同創作劇「創造公演プログラム」(第23・25回)など。同時に、幕間の会場を盛り上げる一種のフリンジ「ロビー・プログラム」(第20回〜)と、人材育成に向けて中学・高校演劇コンテストの優秀校を招く「招待公演」(第20回〜)を恒常化した。一方、舞台の外では、俳優や舞台スタッフの技術向上・古典芸能の実演体験・学校演劇指導者育成に関する各種ワークショップや、演劇史の講座なども、「プレイベント」(第20回〜)として毎年メニューを変えながら開催している。さらに近年は、「サポーター派遣」(第24回〜)と称し、本番の数ヶ月前から、府内各地の参加団体稽古場までアドバイザーが出向くアウトリーチ活動にも着手している。

確かに、参加劇団の多くがアマチュアのため、演フェス本番公演の水準については批判を甘受すべき余地がある。そのため今回、近畿一円の実力劇団を選りすぐって集結させるべく、コンクール部門を「新・Kyoto演劇大賞」(仮称)に刷新した(第26回以降隔年予定)。この企画は、これまであまり手が回らなかった観客の開拓も視野に入れる。元々貸し館である文化芸術会館の機能も加えれば、おそらくこれで、自治体が提供できる演劇関連の事業として、基本的な企画はほとんど網羅しているといえよう。

近年、本番開催中はもとより、年間を通してなんらかの演フェス関連行事が常に催され、会館に立ち寄る演劇創造者や愛好家が絶えることはない。すでに演フェスは、単に年に一度のイベントという「演劇祭」の域を超え、会館を拠点とする日常的で永続的な文化事業に変容しつつある。これが実を結び、また、その過程で蓄積される企画運営ノウハウが事業モデルとしてさらに精度を高めるなら、「公共ホール」を舞台として各地で繰り広げられる「演劇祭」や、「公共ホール」のあり方自体にも、新たな刺激を提供できるにちがいない。
(むくひら・あつし/Kyoto演劇フェスティバル運営委員長・大阪工業大学)

●演劇の教育と俳優の養成 (3)
菊川 徳之助

わが国には国立の演劇学校も俳優養成機関も設置されていないため、演技のレベルが他国より低く、魅力ある俳優も生まれない、という演劇関係者からの呟きがある。劇団の付属養成所や小規模の俳優学校の教育に頼らざるを得ない現状では、施設や講師陣の環境を十二分に整えることは難しいでことであろう。かつては、劇団俳優座の養成所から幾多の俳優が生まれ、幾多のスタジオ劇団がつくられ、新劇界の環境が活性化された時代があったが、一九六〇年代以降の演劇環境が、演劇表現それ自体と共に俳優の演技をも混沌とした状況の中に追いやって行ったためか、多種多様の、ナンデモありのカオスの状況に現在はあると言えようか。勿論、アングラ・小劇場演劇という新しい演劇の出現があったのは確かであるし、そして、受身の俳優の肉体ではなく、血が漲り躍動する肉体を求める俳優の出現もあったが、21世紀に来て混沌は質を変えながらも深みへ入って行っているようだ。それでも、俳優の養成機関については、今という時を見つめて、真剣に深刻に、心ある人は考え始めている。新国立劇場でも俳優養成のための試験的な試みが最近なされていた。

現況を深く考えれば、学校教育の中に演劇教育を入れる必要性を強く感じる。だが、現状は気の遠くなるような状況ではある。

周辺に眼を向ければ、例えば、高校の先生が学校で生徒に教えるためには、教員資格、つまり教員免許なるもの——教職が必要である。が、教職課程を修めて先生になる制度の中には、<演劇>の教員免許は無いのである。幼稚園や小学校などの教員を養成している大学である教育大学においても、音楽や美術などの教員養成課程はあっても、演劇に関係するものは設置されていない。また、私の勤務する大学においても、文芸学部という中に、文学科(英語英米文学専攻、日本文学専攻)、文化学科、芸術学科(演劇芸能専攻、造形芸術専攻)とあるが、これらの専攻の中で教職課程がない専攻は一つだけである。それが演劇なのである。他大学で演劇専攻の中に教職のある大学はある。しかし、その免許の種類は、国語の免許が主なものである。高校以下に演劇の授業を設置したくても、ドラマティチャーが存在しないのである。それ故、演劇科を設置していても、専任の演劇担当教諭は居らず、非常勤の先生で補われるということになる。

幸いにしてというのか、大学の先生は無免許で教授になれる。大学の先生の資格は、本人の教養力や教育力を学問(専門分野)の業績でみることになっている。ところが、演劇大学がないのだから、演劇教育の業績を持った先生候補者はほとんどいない。学問的に業績のある人は少しいても、実践的に(実技を)教えられる人は皆無に近い。この十年あまりマスコミにも話題として大きく取り上げられたことであるが、演劇専攻を設置する大学に、現場の演劇人、多くは現役の劇作家や演出家が続々と大学の教員に採用されていった。専門分野の業績は充分ある人たちであるが、学問・教育には必ずしも業績と実績があるわけではない。ただ、近年は劇作家、演出者、劇団のリーダーを兼ねている人が多いから、結構指導力はある。学生も現場の演出者などに身近に触れ、指導を受けられるのであるから、授業の充実感は少なからずあるだろう。

しかし、演劇人と教育者という二重の立場がうまく融合できるかどうか——個人差があるとしても——という問題もある。それよりも、現場から迎えられた人が、大学の教育に時間を取られて、現場の仕事が出来にくくなる。大学は一人の優秀な演出家の才能を現場から奪ってしまう結果を招くこともある。演劇教育をする大学の教員像とはいかような姿を持ったものが理想なのか、を追い求める必要があるであろうし、また、教員の養成をする教育大学に何故に演劇教員を養成する教育課程が設置されないのか、文部科学省に問いかけることも必要であろうが、国立の演劇大学が存在しないこと、国立劇場に俳優養成機関がないこと自体に驚きをおぼえなければならないだろう。しかし、演劇とは、もともと、制度の外にあるものであり、ハングリー精神こそ演劇芸術を育てるエネルギーの源であるという考え方に立てば、大学のような教育機関は余分なものであるということになる。ましてや、高い授業料の払える選ばれた学生だけが行けるような場所(大学)では、演劇を欲する人間がある範囲に限られてしますという危険性がある。俳優養成はやはり劇団付属の養成所などに任せた方がよいということになりそうである。が、大学は広く学問が出来る環境にあり、ただ専門的な俳優の技術のみをマスターするのではなく、教養を見に付け、語学や外国文化を学び、人間としての深い知力を養い、培える上で演劇の知を獲得できる場所である。真の心深い人間を描き出せる俳優なり演劇人を育成出来るのは、大学の演劇教育が最適に思われるのだが、・・・だが、大学の演劇教育にも問題はまだまだ山済みにある。
(きくかわ・とくのすけ 近畿大学演劇専攻教授)

■海外演劇紹介
●三代目の北京人芸『雷雨』
瀬戸宏
北京人民芸術劇院が今年曹禺『雷雨』を再演した。1954年の初演以来三代目になる『雷雨』上演である。報道によれば、7月22日から上演が始まっている。私はこの夏も北京を訪ね、8月7日にこの『雷雨』を観ることができた。満席ではなかったが、約八割の入りで、北京人芸『雷雨』が今日も一定の観客吸引力をもっていることがみてとれた。

1934年発表の『雷雨』は、周家という裕福だが封建的要素が色濃く残る資本家家庭の崩壊を描いている。ある夏の日の午前から劇が始まり、劇の進行過程で周家をめぐるさまざまの問題がしだいに明らかになっていく。そしてその日の深夜、劇の最後で矛盾が爆発し登場人物のうち三人が死に二人が発狂するという悲劇で幕がおりる。イプセンに代表される近代劇と同質の作品である。『雷雨』は中国話劇の成熟を示す指標的作品として扱われ、今日まで上演回数が最も多い劇でもある。

北京人民芸術劇院は1954年に『雷雨』を初演している。演出は夏淳。夏淳演出の特徴は、登場人物の個性の表現に重点を置き、写実に徹したことである。舞台装置は1920年代の資本家や下層庶民の家庭を忠実に再現したものを用い、照明・効果音も自然状態に近い。中国の話劇によくある劇のクライマックスで情緒的な音楽が流れたり原色の派手な照明があたったりするあざとさは、この夏淳演出『雷雨』にはない。演出家の自己主張を抑え、戯曲の内容を忠実に舞台で再現しようとする演出手法の典型的な例である。
この『雷雨』上演は成功し、以来北京人芸は夏淳演出によって『雷雨』を上演し続けている。夏淳演出『雷雨』は、老舎『茶館』(焦菊隠演出)とともに北京人芸の上演風格形成に重要な役割を果たした。1979年5月の『雷雨』再演は、文革終結直後の名作劇上演の最も早い例の一つとなった。しかし、この時の俳優は基本的に一九五四年以来の俳優が演じていた。二代目の『雷雨』上演は1989年10月で、俳優が一新している。夏淳は1996年に逝去したが、北京人芸はその後も夏淳演出による『雷雨』上演を続けている。そして、2004年が『雷雨』発表70周年、北京人芸『雷雨』上演50周年にあたるため、北京人芸は再び俳優を一新して『雷雨』を上演することにしたのである。今回も演出は夏淳とされ、顧威が再演演出としてプログラムに名を連ねている。

今回の三代目『雷雨』上演の意義はどこにあるのか。

まず、北京人芸という劇団が五十年前の演出スタイルを基本的に保持し、今後もそれに従って『雷雨』上演を続けることを宣言したことである。これは、北京人芸が自己の上演伝統を今後も保持し続けるという宣言でもある。日本演劇界では、一人の俳優が同一演目を上演し続けることは、森光子『放浪記』などいくつか例があるが、代を越えての同一演目、同一演出上演は文学座『女の一生』しか思い浮かばない。中国話劇界でも極めて珍しい。北京人芸では、同じ例として老舎作、焦菊隠演出『茶館』があったが、1999年の首都劇場リニューアルオープンを機に演出家が林兆華に変わり、演出処理も当然変化している。

もう一つは、現在の中国演劇界は八十年代の実験演劇以来さまざまな手法の上演がおこなわれているが、その中で純写実による「伝統話劇」上演をおこなう意義である。私は、中国の一部の演劇人がいまだに持ち続けている話劇がすべてという発想には同意しないが、逆に話劇の伝統を完全に放棄してもいいとも思わない。伝統があるからこそ、実験が可能になるのである。北京人芸は今日中国最高の劇団という栄誉を獲得しているが、それはこの「伝統」の存在と不可分であると思われる。

もっとも、夏淳演出踏襲といっても、細部の手直しは夏淳健在中から行われてきた。今回は、開演直前や休憩時間に雷鳴の効果音を流し、幕切れを一人立ちすくむファンイーの姿で終わらせた。これは、ファンイーを演じたのが第二代からただ一人残ったコン麗君であることとも関係があろうが、まるでファンイーが主人公のようになった。第二代『雷雨』では自殺する周萍のピストルの音を聞いて皆が駆けだし無人の舞台で終わらせ、第一代では一人呆然とソファに崩れ落ちる家長の周朴園の姿で終わっていた。資本家家庭の崩壊としてみれば、第一代の処理が最もよく、ファンイーが主人公というのは、劇構造からいってやや無理があると思う。

率直に言って、私が観た日の上演成果は決して理想的なものではなかった。特に魯貴(王大年)、四鳳(白薈)、侍萍(王斑)がよくない。まだ俳優が不慣れなのか、別の原因があるのか。純粋な話劇、近代劇上演であるこの北京人芸『雷雨』は、今日の中国演劇界で貴重である。今後、より練り上げた舞台を作ってほしい。

(せと・ひろし/摂南大学・演劇評論・中国現代演劇研究)
*カタカナ人名は活字版では漢字だが、ネット上で示せないためカタカナで代用

●定期購読のお願い
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申し込み先
553-0003 大阪市福島区福島6丁目22番17号 松本工房気付
国際演劇評論家協会(AICT)日本センター関西支部
電話 06-6453-7600 ファックス 06-6453-7601
郵便振替口座 00950-4-277707 (口座名:国際演劇評論家協会関西支部)

●投稿規定
『あくと』三号より、下記の要領で一般読者からの投稿を募集します。編集部で審査のうえ、優れたものを『あくと』に掲載します。
・投稿内容は劇評、時評・発言、海外演劇紹介、書評などジャンルを問いませんが、関西地区上演の舞台対象の劇評を歓迎します。
・枚数は5枚(2000字)が基準です。
・原稿料はお出しできません。
・投稿締切は以下の通りです。
『あくと』四号(05年2月初め発行)掲載・・04年12月20日締切
『あくと』五号(05年5月初め発行)掲載・・05年3月20日締切
『あくと』六号(05年8月初め発行)掲載・・05年6月20日締切
・投稿は電子メールでのみ受け付けます。タイトルに【『あくと』投稿原稿】と明記してください。原稿には、氏名(筆名使用の場合は本名も)、連絡先、職業(所属先)を明記してください。
・投稿宛先 ir8h-st@asahi-net.or.jp 瀬戸宏

●編集後記
『あくと』3号をお届けする。非会員の岡田文江、椋平淳両氏からは、大阪労演、京都演劇フェスティバルについての貴重な原稿をいただいた。すでに記したように、『あくと』は二号以降は、発行後まず目次をAICT日本センターのサイトに掲載し、少し間を置いてから本文全文を掲載している。サイトにはアクセス解析機能があって、どのページに一日何人アクセスしたかがわかるのだが、『あくと』は連日コンスタントにアクセス数を確保している。六月一日のサイト再開と同時に全文掲載した創刊号の読者はすでに千人近くに達し、現在もアクセスがやまない。『あくと』に対する関心の強さをみる思いがした。
今号は、藤原央登氏の投稿劇評を掲載することができた。近畿大学三年在学中という。私と市川明支部長が目を通し掲載を決定した。『あくと』は、新しい批評才能も積極的に応援していくので、関心のある人は別項の投稿規定に基づき力作を寄せていただきたい。
私事だが、元新宿梁山泊・金久美子氏の急逝に衝撃を受けた。日本小劇場演劇系初の中国公演となった『人魚伝説』上海公演でのジェニーが今も目に浮かぶ。一昨年近鉄小劇場での扉座『ハムレット』にガートルートで出演し好演していたのが、私の観た最後の舞台になってしまった。もっと活躍してほしい人が突然いなくなってしまうのは、なんとしても哀しい。(瀬戸宏)

act2号・後半

■時評・発言
●諫早発大阪行(博多乗換)星野明彦 大阪から長崎県諫早市に転勤して、一年三箇月になる。転勤が決まった時周囲から「九州は演劇が盛んですよ」と言われたが、その言葉はある程度は当たっていた。
九州全体では18の市民劇場があり、東京の老舗劇団が約五万の会員を相手に、二箇月近い巡演を行っている。僕の所属する大村諫早市民劇場だけで、約1300名の会員がいる。これだけで大阪労演の会員数に匹敵する。ちなみに大阪市の人口250万に対し、大村・諫早両市の人口を合わせても18万である。
九州の中心である福岡市には公設民営の博多座があり、歌舞伎や「放浪記」等興行会社の枠を問わない、多彩な商業演劇が上演される。北九州市には昨年出来たばかりの、大中小3劇場を持つ演劇専用の北九州芸術劇場があり、蜷川幸雄や宮本亜門の演出作品等が招かれている。
そして地元劇団だが、北九州市には泊篤志代表の「飛ぶ劇場」、旧東独出身のペーター・ゲスナー率いる「うずめ劇場」という、全国的に名が知られ始めた二劇団がある。福岡市には100を超える劇団があり、中でも大塚ムネト主宰の「ギンギラ太陽’S」は、一公演につき三千人の観客を動員している。残念ながら福岡県以外の目立った劇団の噂は聞かない。しかし福岡・北九州まで足を延ばせば、来演・地元を問わず多彩な舞台に出会うことは可能なのだ。
しかし九州の演劇環境は、果たして本当に豊かなのだろうか。一年と少し表面を見ただけでも、様々な疑問が湧いて来た。
まず関西よりずっと盛んに見える市民劇場だが、老舗中心・中高年女性への偏り・他の演劇に対する会員の無関心、これらの問題点は関西と変わらない。しかし例会が行われる各都市のホールの多くは、関西よりさらに大規模になる(諫早文化会館は約13OO名)。そして活動は「前例会クリア」が第一目標となり、上演後の批評活動は行われない。「自分達が呼んだ以上舞台についてとやかく言わない」という方針があるという。
会員数が減る一方の近畿に比べれば、以上の方針が成功を収めているのだろう。しかし満員の客席のマナーはよいとは言えず、機関誌の感想文も舞台自体よりも会員拡大について書いたようなものが目立つ。平田オリザが「芸術立国論」で指摘した演劇鑑賞会の問題点・「東京での演劇を水増し」「会員数を文字通り水増し」を思い出さずにはいられない。「九演連」は、果たしてどれだけの主体的な観客を生んだのだろうか。
そして地元劇団の現状だが、九州唯一の演劇批評誌である「NTR」(柴山麻妃氏の編集・発行、現在まで13号)が大変参考になる。何号か読んで意外にも、「福岡からは関西は恵まれて見える」と感じた。
「NTR」10号(特集は「福岡のこれからの演劇」)の座談会で、柴山氏は福岡の製作者達に「全国レベルの舞台と言うのは福岡の都市圏では作られていない」という声がある、と問いかけている。その後「全国レベル」とは評価か人気か、という話になるが、別の号で劇評執筆者の一人は、「名古屋や京都にあるような全国レベルの」劇団が福岡にはないと書いている。この場合は「評価」だろう。
10号の別の座談会で大塚ムネトは大阪について言う。「メディアの現場があるんですよね(中略)役者としての求められる現場があるってことで。それに大阪の劇団は、ある程度になると東京公演もしますから、頑張れば東京でも役者として評価される」だから福岡よりも恵まれている、という訳だが、よく読めば関西を通して東京を観ているとわかる。 泊・大塚の両氏は一旦東京に出て福岡に戻り、福岡で芝居を作り続けている。東京や関西の公演も行う飛ぶ劇場は3回観たが、確かに「全国レベル」の「評価」に値する。一方のギンギラ太陽’Sは「福岡でしか観れない、受けない作品」と開き直り、かぶり物で福岡のビルや交通機関を擬人化する。今年一月に初めて観たが、その独特の気概は評価すべきとしても、かぶり物に役者が埋没していることに大きな疑問を感じた。
東京よりも距離が近いことから、九州と関西の演劇界は交流を始めたようだ。昨年の北九州芸術劇場第1回プロデュース「大砲の家」は泊篤志作・内藤裕敬演出で、東京・関西・九州の俳優が集まった。今年3月に長崎市の市民ミュージカルを構成・演出した岩崎正裕は、12月にやはり北九州芸術劇場プロデュースで泊の「冒険王」を演出する。「全国レベル」と言われながらも活躍の場に恵まれている訳ではない関西の演劇人が、発展途上とされる九州の演劇界に対して何が出来るのか。そして「全国レベル」の現代演劇が本当に生まれるのか。九州の中心から少し離れた諫早から見つめていきたい。(ほしの・あきひこ/会社員)

●-大阪の劇の営みの中での-ある演劇祭のこと粟田イ尚右 この大阪に《春演》と呼ばれて、もう28年も続いている演劇祭があります。正確には『大阪春の演劇まつり』と言います。秋には『大阪新劇団協議会』に加盟する劇団による『大阪新劇フェスティバル』が持たれ、大阪の《新劇(現代演劇)》の存在を示しています。その秋に対しての「春」というわけではないのでしょうが、今年も滋賀、名張からの劇団も参加し、18劇団が4月から、森の宮の府立青少年会館の『プラネットホール』を主会場に、各々の思いの丈を込めた舞台を競い、これまでに15劇団が公演を終えています。そして、あと3劇団の舞台が7月末まで続きます。(この冊子が出た頃には全部終わっている筈です。)
この演劇まつりを立ちあげ、主催しているのは《大阪自立演劇連絡会議》《財団法人大阪府青少年活動財団(ユースサービス大阪)》、そして今では殆ど大阪では実際的な活動は中止しているようですが、《日本アマチュア演劇連盟近畿支部》の三団体で、毎年の参加劇団からの『実行委員会』が具体的なプログラムを進めていっている様です。
この《春演》には、秋のフェスティバルのメンバーでもある『劇団未来』『劇団息吹』『劇団往来』そして、今年は上演参加できなかった『劇団大阪』など、大阪の演劇を何十年にも亘って担ってきた劇団も参加しています。これらの劇団を中心軸に、その参加劇団の大半は、所謂、<若い劇団>です。毎年、何劇団かが入れ替わり立ち替わり、新しい劇団の名前が並びます。「もうヤメテくれよ・・」と言いたくなる程の舞台をお披露目してくれる劇団もときにはあります。そういう劇団も認めての《春の演劇まつり》です。《職業(的)劇団》又は《専門集団》による演劇祭ではない、ということです。そうです、《市民演劇》による『演劇まつり』です。かつて、何十年か以前、《自立演劇(劇団)》や《サークル演劇(劇団)》或いは《地域演劇》(《アマチュア演劇》)とも呼称されていた劇団による『演劇祭』といっていいでしょう。
著名な役者が居る劇団でもない。朝晩のお茶の間のTVに見られる顔も見あたらない。そんな芸能ニュースは勿論、新聞等の芸能欄を飾り、賑わすには余りにも地味な劇への行動には違いありません。大方の人々を引きつけるには、ニュースバリューが低い、弱いのでしょう。そして事実、新聞、TVなどのマスメディアが、この『春演』を芸能欄や文化欄で報じることも殆ど無いようです。(私が朝夕、目を通しているA紙には、これまで全くと言っていい程にありません。)ですが、《春演》に参加して来ない、それこそ何百もの劇団の殆どが職業、プロとして成立できない大阪の現実の中で、《大阪の演劇》を語る上では、大切なプログラムの一つには違いないと思うのです。
持ち出しばかりの、儲かるなんて考えられない劇へのエネルギー。身銭を切っての行為です。自分に対して納得しなくては成立しない《劇への営み》です。舞台を駆けまわる若さだけの役者を観ていて、その劇の内容の良し悪しはともかく、屈託のなさに、演劇って、つくづく「魔物」だなァ、と思わずには居られません。そんな『春演』ですが、毎年、参加劇団の半数以上の劇団内創作が並びます。今年も12劇団がオリジナル作品で驚きますが、気になることが二つあります。
ひとつは、劇のしつらいが、仮想の世界であっても、その劇の当事者と劇の世界の『距離』の近さです。それは生きることの世界の小ささ、想像力の無さ、夢の無さではないのかと思ってしまいます。もうひとつは、そのオリジナル作品、戯曲が一回だけの上演で、その殆どが終わってしまうことです。まるで蝉の命のように-。何か悲しい、もったいない-。
そうした中で、作家集団でもある『りゃんめんにゅうろん』の『月見荘秘話』が、古アパートの各室の人たちの同じ時間にかいま見えた姿を描きながら、そのアパートの50年の時間を浮かび上がらせた、3人の作者によるオムニバス仕立ての舞台。そして、既成作品の舞台でしたが、細部に亘る実に綿密な解釈による演出で、或るサラリーマン一家のゆれ動く一日を描き出した『劇団未来』の舞台(ふたくち・つよし作『山茶花さいた』)が印象に残りましたが、来年の29回目の『春の演劇まつり』では、どんな舞台に出会えるのでしょうか。楽しみです。そして、『春演』こそが、《『生まれた土地』の演劇》という、かつて加藤衛さんが大切にしておられた言葉を立ち上がらせる舞台ではないか、と改めて思うのですが・・・・。(あわた・しょうすけ/演出者・演劇評論者)

●演劇の教育と俳優の養成 (2)                          菊川 徳之助 日本には「演劇大学」がない。驚きである。美術大学も音楽大学もあるのに、である。俳優やスタッフや演劇研究者を育成するという考え方が日本にないことが証明されていると言えるだろう。日本の大学は、<学部・学科・専攻・コース>といった設置の仕方になっている。「演劇大学」がなくとも「演劇学部」を設置している大学くらいはあると思う。ところが、日本の大学には「演劇学部」もないのである。<学部>として存在していないのである。わずかに「芸術学部」の中に「演劇学科」を設置している大学が三校あるにすぎない。つまり、<学科>の段階に来てやっと演劇が顔を出すというわけである。その他は、例えば、「文学部」(文芸学部・人文学部など)の中に「演劇専攻」を設置しているといったものが多い。文学部の中にあるということは、演劇の専門性が百%保障されていないことを物語っている。また、「演劇学科」という名称も昨今では、<パフォーミング・アーツ学科>といったような<演劇>という文字をともなわないものが目につく。
現在、日本の大学は七〇〇校もあるが、<実技>を伴った演劇コースを設置している大学は、関東地方に四校、関西地方に三校、九州に一校あるのみである。このほかには、短大が東京に一校、九州地方に一校ある。そして、学問(理論)面を中心にして演劇学を学ぶ演劇コースを設置している大学が、関東地方に三校、関西地方に一校、あるのみである。しかし、これらの大学は、ほとんどが私学であって、関西地方の一校を除いては、国立や公立の大学はないのである。国が演劇に全く無関心だと言っていい状態を示している。明治という新しい時代に、<演劇改良>もまた重要な課題として省みられた時があった。そして、この時に演劇が何らかの形で、日本人にとって大切な文化としての位置、演劇の位置を獲得できていれば、さらにはまた、教育の中にも演劇を設けることに成功していたなら、現代の日本は、経済面のみの成功ではなくーー今は経済破綻へ向かってまっしぐらかもしれないがーー文化面においても成熟した文化国家を形成していた可能性は大いにあったと思われる。明治期の失敗は現代まで尾を引いていると言えば、言い過ぎか。
芸術大学であるところの東京芸術大学や京都芸術大学に「演劇学部」があって当然な気もするが、そして、時には、「演劇学科」を設置する計画が浮上したこともあったようであるが、現実は、これらの大学に、演劇の科目が一つでも設置されていれば良い方という程度が現状である。昭和二十三年片山内閣の時、文化構想として<演劇>も入った芸術大学が構想されたようである。「現在の音楽、美術両校を統合、これに映画演劇教員養成部を加えた五学部として芸術大学をつくろうとするもの」(大笹氏の『日本現代演劇史』の東京新聞の記事より)、とある。片山内閣が総辞職しなかったら、現在の音楽、美術の東京芸術大学と違ったものが出来ていたかもしれない。残念である。
少子化で、授業料の高い演劇学科に進学希望する学生は、経済学部や法学部には程遠いが、それでも、将来の俳優や演劇人を夢みて受験する学生は毎年いる。作家の五木寛之氏がいつぞや新聞紙上に、金沢に演劇大学をつくりたい、と言った記事が出たことがあった。金沢には確か美術大学があり、芸術の匂いのする街である。しかし残念ながら、今日まで金沢に演劇大学が出来たとは聞いていない。ある時期、演劇実践教育として画期的な大学が出来た時があった。それは、劇団俳優座付属の俳優養成所が、短大ではあるが、2年制で、さらに専攻科2年で、大学並みの4年間となる学校に移行された時である。現場の演出家や劇作家、俳優などが、大学で演劇を教えるのであるから、演劇教育そのものが少ない日本の現状には、紛れもなく画期的なことであった。そしてなによりも、この大学は、卒業生の中から劇団俳優座へ入団出来るという大きなメリット、特徴を持っていた。演劇専攻を持つ他大学からは、この短大の演劇専攻は、ただならぬ存在なのであった。何故ならば、他大学の演劇専攻生は、大学の演劇学科を卒業しても劇団に入れる保障は何もなかったからである。いや、それどころか、卒業生から見れば信じられないことであるが、四年間の演劇教育を終えても、劇団に入るためには、その劇団の付属の養成所へもう一度試験を受けて入らなければならないのである。そして、もう1年なり2年なり、大学の演劇学科で学んだと同じような基礎訓練や演技訓練を受けなければならないのだ。しかも、大学の四年間授業料を支払って来たのに、また再び劇団の養成所へ授業料を支払わねばならないのである。日本の現状は、演劇専攻を持つ大学の卒業資格と劇団の俳優になれることとは、直結していないということなのである。この現状は、演劇人養成の環境としては、実によくない状態である。不幸である。勿論そこには、国家が何もしない状況では、劇団の自分たちで養成所を造らざるを得なかったという劇団の事情があり、大学の演劇教育に信頼を置く環境になかったことも考えねばならないだろう。そしてまた、俳優座が再び劇団自身の養成所を復活するという状況も現れた。大学の演劇教育に問題ありと、これは考えねばならない事態なのか。大学の演劇教育は、どのような問題を抱えているのか、その検証も必要であろう。大学の演劇教育の現況、問題点をもう少し考えてみたい。(きくかわ・とくのすけ/近畿大学演劇専攻教授)

■演劇書評
●杉山太郎著『中国の芝居の見方』に寄せて                      藤野真子 本書は3年前に交通事故で急逝した杉山太郎氏の遺著である。思えば、杉山氏と会うのは、いつも中国であった。初対面は1995年の正月、本書でも触れられている「梅蘭芳・周信芳生誕100周年京劇公演」(第二章で言及)の上海公演の場であったが、当時の私は博士課程の院生で、演劇研究を志しつつも実地の観劇経験に乏しく、実に語り甲斐のない相手だったことだろう。しかし同年、上海での留学生活を始めた私にご馳走して下さったばかりか、ご自身が興味を持たれた書籍(第五章・書評で取り上げている樋泉克夫著『京劇と中国人』)を贈って下さるなど、のちのちまで何かと心にかけて頂いた。本書では一カ所、「上海の演劇の専門家」という実態を慮ると汗顔ものの名称で私の名が一瞬登場するが、生前、「上海京劇に着目するとは面白いセンスの持ち主だ」と評されて(?)いた旨聞いた。氏から真意を伺うことはできなかったが、あらためて本書の、上海京劇院『狸猫換太子』三本を日本で通し公演するなら二五〇〇〇円でも安い!というくだり(第二章「第二回京劇芸術祭を見て」)などを読むと、それも少しはわかるような気がする。
前置きが長くなってしまったが、肝心の本書の構成をまず紹介すると、第一章「戯曲を見るということ」、第二章「中国演劇時評I」、第三章「中国演劇時評II」、第四章「中国演劇論」、第五章「書評」、附章「日本語教育・人口論」の六つの部分に編集されている。実質的には、越劇を中心に杉山氏の中国演劇観がいかんなく披瀝されている第一・第四章、そしてこれもこまめに現地に足をはこんだ氏にしか書き得ない第二・第三章の劇評・観劇レポートの二部構成といってもよい。特に後者はボリュームに富み、伝統劇・話劇と劇種を問わず多くの舞台について書きとめた極めて魅力的な文章群であるが、これについては他に相応しい発言者があろうと思うので多言はしない。少し記しておくと、氏は個々の劇種や演目、俳優、演出家に関する豊富なデータを脳裏にストックしておられたが、芝居の善し悪しに関してもその蓄積に基づき、決して安易に妄断していないことが、これらの文章、特に贔屓にしていた劇団や俳優への冷静な批評から見て取れる。一方、「初対面」の舞台については、努めてフェアなまなざしを保とうとすると同時に、何らかの旨味にたどり着くまでしゃぶりつくしてやろうという貪欲な姿勢も強く感じられる。表面だけを撫でて「こんなものはダメだ」と切り捨てることはしないのである。
杉山氏は中国演劇に対峙するスタンスを潔すぎるほど明瞭に示した人物である。「中国の伝統演劇では、昨日と変わらない今日の舞台には価値がないと、かつて来日した中国京劇院の俳優から聞かされ、その新しい試みにこそ価値を認めようとするのが、筆者の立場である」(本書6頁)という宣言からも、その一端がうかがえる。そして、この直後に述べられる「だからといってそれは、何が何でも新しければよいということではない。あくまで伝統に立脚してということが条件になるのは当然であり、それはそもそも『伝統』ということ自体を重視しない越劇を見る場合でも同じことである」という言を皮切りに語られる冒頭第一章の越劇論(『火鍋子』連載「戯曲を見るということ」)こそ、本書の圧巻であると言える。実際、その商業性やきらびやかなイメージばかりにとらわれて、越劇をまともな研究対象として見ようとしない人々が、アカデミズムの「ギョウカイ」には結構多い。しかし、杉山氏の叙述と重なる部分もあるが、私が見るに、発展時期および場所の特殊性、上演形態の変遷、演目の傾向と思想性、他メディアとの連携性、何よりも残存資料の質・量からして、これほど多様な論を展開しやすい劇種は他に無い。
こと本章における杉山氏の論考で興味をひかれたのは、越劇の主流である女子越劇と、ある種異端的ポジションを占める男性役者の混じる越劇との差異を論じた部分である。「女性のための演劇」である越劇が求めた、「現実社会には存在しない女と共に闘う同志としての男」、つまり「舞台の上にしか存在しない女の夢の結晶」を演じうるのは女子小生のみであると杉山氏は断言する(11〜12頁)。そしてこのように作り上げられた男性像に対する「女性観客から掛けられる思い」に、俳優の実際の性別により「本質的な差異」が生じることを一つの根拠として、趙志剛に代表される「現実の」男性が舞台に立つ越劇を別の劇種と見なしている点には、何かと考えさせられるものがあった。個人的にはここから、歴史も性質も観客の嗜好も越劇とは大きく異なるものの、民国期を境に男旦から女旦へ移行した京劇の場合、同様の変質を見出しうるのかということを考えてみたくなった。 他にも示唆に富む箇所は多数あるのだが、ここで紙幅も尽きたので、また別の機会に譲ることとしたい。
杉山太郎『中国の芝居の見方-中国演劇論集』(好文出版 2004.6 3800円)(ふじの・なおこ/関西学院大学)


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●編集後記 『あくと』2号をお届けする。創刊号は編集に手間取り5月31日発行になったが、2号は8月上旬にお目見えする筈である。これが本来の発行時期で、以後、3号は11月上旬、4号は05年2月上旬発行というスケジュールになる。
創刊号は、いろいろ反省も多いが、ともかく世に出すことができた。驚いたのは、AICT日本センター公式サイト掲載の案内をみて、定期購読を申し込んでくださった方が何人もいたことである。これ以外にも、定期購読者は順調に拡大している。これほど編集の励みになることはない。とはいえ、安定した有料発行部数にはまだほど遠い。これからも定期購読者獲得に努めたい。
『あくと』は関西という地域に密着した演劇批評誌であるが、関西の問題しか取り扱わない雑誌にする気はない。関西から、全国、全世界に向けて問題提起できる雑誌にしていきたい。執筆者も、関西在住者を中心にはするが、それに限定するつもりもない。今号では九州在住の星野明彦氏に寄稿していただいたが、これからも、関西以外の地区の筆者による原稿も掲載していきたい。
とはいえ、『あくと』の一番の課題は、持続させることであろう。思い切った特集を組んだり、もっと分厚くしたり、発行回数を増やしたりしたい気持ちもあるが、この種の刊行物は続かなければ意味が半減するのである。『あくと』の現在の体裁も、まず長続きさせることを前提に作られている。そして、歩きながら考え続け、少しづつさらに良い雑誌にしていきたい。これからも、読者の皆さんのご支持をお願いしたい。(瀬戸宏)
AICT国際演劇評論家協会日本センター 公式サイトURLhttp://aict.on.arena.ne.jp/index.html
(web版では関西支部会員名簿は省略

act2号(2004.8.9)

●巻頭言 市川明
●劇評
太田耕人 すぐれた演出が欠いた求心力-RSC『オセロ』
宮辻政夫 関西の劇団の祝祭劇「日本三文オペラ-疾風馬鹿力篇」
瀬戸宏 反戦の意志と複雑な日本への感情-トリプルエム『霊戯』
市川明 さまざまな“しんじょう”-南船北馬一団『しんじょう』
上念省三 人を「そんな気分」にさせるために-呆然リセット
●時評・発言
星野明彦 諫早発大阪行(博多乗換)
粟田イ尚右 大阪の劇の営みの中での・・ある『演劇祭』のこと
菊川徳之助 演劇の教育と俳優の養成(2)
●書評
藤野真子 杉山太郎著『中国の芝居の見方』に寄せて
会員名簿・購読規定・投稿規定・編集後記


act2号・前半

●第9回AICT演劇評論賞決定のお知らせ ◎ 受賞者:斎藤偕子氏 受賞作:『黎明期の脱主流演劇サイト』(鼎書房) ◎ 受賞者:佐伯隆幸氏 受賞作:『記憶の劇場 劇場の記憶』(れんが書房新社)  (順不同)
国際演劇評論家協会(AICT)日本センターでは、演劇・ダンスの優れた批評を顕揚し、その発展を図るために、1995年より毎年、1月から12月までに刊行された単行本、活字になった演劇評論を対象にしたAICT演劇評論賞を設けております。AICT会員全員へのアンケートを実施し、推薦された作品の中から得票数の多い作品を選び、選考委員会において受賞作を決定しています。第9回の今年は上記二作が受賞作に決定いたしました。今回の選考委員は、石井達朗、今村忠純、高橋豊、松岡和子(五〇音順)の4名のAICT会員です。 受賞者プロフィール 斎藤偕子 ニューヨーク大学大学院修士課程卒業。現在、日本橋学館大学教授。専門はアメリカ演劇、現代演劇理論・批評。著書に『境界を越えるアメリカ演劇』(共著、ミネルヴァ書房)ほか。 佐伯隆幸 現・(黒テント)創立の一員としてアングラ期の「演劇の運動」に携わった。現在は演劇評論家、学習院大学教授。著書に『「20世紀演劇」の精神史』(晶文社)ほか。 以上、どうか、日本の演劇・ダンス批評の発展のため、おとり上げいただければ幸いです。 ●第8回シアターアーツ賞選考結果のお知らせ
受賞作:なし
佳作受賞者:丸田真悟氏 佳作受賞作:「平田オリザの、あるいは平田オリザと、観客——『参加する演劇』をめぐって」  国際演劇評論家協会(AICT)日本センターでは、演劇批評に新たな地平を拓く気鋭のために、「シアターアーツ賞」を設け、新進による演劇・ダンス評論応募 作から特に優秀と認められた作品を顕彰しています。第8回シアターアーツ賞受賞作は残念ながらありませんでしたが、佳作として、丸田真悟氏の「平田オリザの、あるいは平田オリザと、観客——『参加する演劇』をめぐって」が選ばれました。 今回の選考委員は、内田洋一、太田耕人、七字英輔、立木2004-08-09 03:15:06″

act創刊号・後半

●時評・発言大阪の劇場都市化に向けて藤井康生
日本の多くの都市の流れに逆らうかのように、大阪には都市を代表する公共劇場がない。これは今に始まったことではなく、昔から大阪には公共劇場がなかった。中之島公会堂があるが、これは寄贈されたもので、大阪市が建設したものではない。大阪には民間の劇場がいくつもあって、あえて公共劇場を建設する必要がなかったのであろう。しかし、民間の劇場は経営が困難になれば閉鎖されるし、老朽化すれば再建の保証はない。いや、そんなことは問題ではない。そもそも公共劇場は地方自治体の文化政策の表れであって、民間の劇場とは性格が異なるのである。 数年前、道頓堀の中座が売りに出されたとき、大阪市が買い取って、道頓堀の五座の一角を守ると思っていた。しかし、大阪市は沈黙を守り、中座は解体作業中に全焼し、似ても似つかぬビルに変貌した。道頓堀は大阪の顔である。その道頓堀のシンボルである五座を次々と失い、かろうじて残された中座も見捨てた大阪市の責任は重い。道頓堀の芝居街の雰囲気を守ることは大阪市の義務である。
確かに劇場の安易な建築ラッシュには問題がある。娯楽が多様化し、テレビのチャンネルが増え、街が劇場になっているとき、新しい劇場の建設に大方の賛意を得るのは難しかろう。しかし、中座の場合は事情が違う。まだ十分に使用に耐える五座の一つが建っていたのである(建物の歴史的価値は低いが、芝居小屋の風格は十分にあった)。買い上げて改修し、伝統芸能を含む新しい舞台活動の場にすれば、目玉となる公共劇場を持たない大阪市の面目も保たれたはずである。 松竹の英断によって松竹座が改築され、道頓堀から歌舞伎が消えることはまぬかれたが、松竹座の外観は大正モダニズムの雰囲気を残し、伝統芸能に対応しない。溝口健二は昭和十四年に『残菊物語』を映画化したとき、ラストシーンに道頓堀の角座に出演する菊五郎一座の船乗り込みを描いた。船先に立って挨拶する菊之助、それを迎える大阪庶民の賑わい、ここに都市の原点がある。道頓堀の芝居街の雰囲気が映像に定着しているのに、それに対応する現実の街並みを失ったのは大阪市の怠慢であろう。
今年は中村勘九郎がニューヨークで平成中村座の公演を行い、十一代目市川海老蔵の襲名披露はパリ公演もある。もはや歌舞伎は日本だけのものではない。共通する演劇理念を持つオペラが国際的になったように、歌舞伎も国際的になりつつある。かつて歌舞伎のメッカであった大阪に伝統的様式をもつ歌舞伎劇場がないのは寂しすぎる。焼失したベニスのフェニーチェ座は復元され、ミラノのスカラ座も修復され、共に今年から活動を再開するが(再建中は仮設劇場で公演を続行して市民の要求に応えている)、再建劇場の伝統的な様式に変更はない。21世紀は文化の蓄積を競う文化競合の時代になるだろう。そのとき問題になるのは伝統的な文化や街並みである。 大阪では小劇場の建設運動が行われているが、小劇場は空教室でもテントでも街頭でも、どこでもできる。それはあくまでもアングラであって、都市に必須の構成要素ではない。いや、アングラにしても一方に伝統的なものがあってこそ生きるのである。歌舞伎はオペラと同様に400年の歴史をもつが、その歌舞伎の劇場の様式を残すこと、これが歌舞伎と深い関わりをもつ都市の文化政策の基本であり、それが都市の再生に繋がるのである。こんぴら歌舞伎の金丸座が復活したとき、この町は日本のバイロイトになるかもしれないと思ったが、現にそのようになりつつある。江戸時代に道頓堀の芝居小屋をモデルに建築された金丸座の再生は、歌舞伎人口を開拓し、町おこしにも貢献した。本家の中座の喪失は大阪市の失政と言ってもよい。
もちろん、公共劇場は伝統芸能だけでなく、現代劇にも目を向けるべきだ。しかし、日本の近代と併行してきた新劇が頓挫したように、日本は時代と切り結ぶ演劇文化の育成を怠ってきた。演劇を公教育から外してきた歴史を考えれば、近年の町おこしがらみの劇場建築ラッシュは滑稽である。従って、現代劇の公共劇場の建設に関しては、運営の理念の把握が難しいのだが(だからといって必要がないと言うのではなく、教育も含めて演劇文化の確立を図らなければ国際的な知の文化に遅れをとるだろう)、理念の明確な伝統芸能の対策まで怠ってきたのは問題であろう。さしあたり新歌舞伎座の再検討も含め、道頓堀周辺の劇場都市化こそ大阪再生の常道であるように思われる。(ふじい・やすなり、関西外国語大学教授)

「同時代」、何処へ行く?                                   森山 直人
新しい演劇雑誌の立ち上げと聞いて、「同時代演劇」というタイトルはどうか、というありえないアイディアが、不意に頭に浮かんできた。ありえない、というのは、もちろん同名の雑誌が、一九七○年代前半のアングラ全盛期を象徴する重要なメディアとしてすでに存在していたということもあるが、それ以上に、「同時代」という名称が、拡散的な日本の舞台芸術の現状に、うまくそぐわない言葉のように思えてきたからだ。 それでもなお、「同時代」という言葉が、いま無性に気になっている。言うまでもなく、「同時代」とはひとつの虚構である。この瞬間手元にあるこのコーヒーカップとあのティーカップの間には、「同時性」はあっても「同時代性」はない。「同時代」とは、バラバラに散らばる諸現象を、ある視点にもとづいて、戦略的に切り取るフレーミングの問題であって、実作者によって切り取られる場合もあれば、批評家が行う場合もある。また、往年の『同時代演劇』における「同時代」には、世代論的なニュアンスがある程度つきまとっているが、「同時代」は必ずしも「同世代」の同義語ではない。たとえば、宮沢章夫は連載中の長編評論のなかで、ちょうど百年前に書かれたチェーホフの『桜の園』を、「不動産の劇」という観点から、バブル以後の日本と日本の現代劇にとっての「同時代」の劇として読み解こうとしている(『ユリイカ』二○○三年九月号)。あるいはまた、一九六○年代の鈴木忠志は、鶴屋南北や泉鏡花の一見古めかしい言葉が、白石加代子という俳優の身体をとおして、不可解な「同時代性」をまざまざと生きているのを目撃してしまったことから、彼自身の演劇論を構想した。
ところで、日本の「近代文学」にとっての「文芸時評」とは、まぎれもなく、個々の文学作品が、その個体性をこえて属している「同時代」がどのようなものであるかを、ときにはアクロバティックに仮構してみせる、という制度的役割を担っていた。「演劇時評」や「ダンス時評」も基本的に一緒である。だが、メディア的な配置の変化によって相対的な地位の低下に見舞われた「時評」の役割は、いまではそれ以外の文化的装置が少しずつ分担する形で補っている。たとえば、私自身も今年から関わることになった京都芸術センター主催「演劇計画2004」には、三浦基と水沼健という二人の若手演出家の支援以外にコンクール部門を設けていて、「演出」というテーマで誰を候補としてそこにノミネートするか、といった作業自体に、すでに時評的な役割が包含されていることに気づかされた。「賞」ということでいえば、最近「芥川賞」は、明らかに「同時代」をアクロバティックに仮構するという時評的役割をすすんで引き受けたが、では「岸田賞」は同様の機能を果たしているだろうか? 『ワンマン・ショー』の倉持裕の受賞は、その筆力からいって当然だが、それ以前に、「芥川賞」と「岸田賞」の間に、ある種の同時代性を認めることも不可能ではないような気がする。村上龍は、金原ひとみの『蛇にピアス』を、「突出した細部よりも破綻のない全体」に特長があると評している。倉持裕の場合、「増築された部屋」や「拡大する池」といった妄想的な細部はたしかに登場するものの、そうした不気味なものの自己破壊的な性格は、全体とのバランスのなかで厳密にコントロールされている。綿矢、金原、倉持のどの作家にも、「破綻」に対するロマンティックな憧憬はもはや感じられないが(その点で、松尾スズキとは決定的に違う)、全体を構成する巧みさに関する限り、どうも個人的な力量の問題というだけではなく、何らかの歴史的裏付けの存在が予感されるのだ。これについては別途詳しく論じる必要があろうが、若い芸大生の作品に日常的に接していても、この種の能力の相対的な高さは際だってみえるからである。
『ワンマン・ショー』の「あとがき」で、倉持が、「箱から粘液があふれ出す冒頭は、ずっと前から書きたかった場面だった」と記しているのを興味深く読んだ。事実作品を読んでいると、彼がどんな作品を書きたいと思っていたのかが手に取るように伝わってくる。けれども、変な言い方だが、「どんな作品だけにはしたくなかったのか」、ということになると、それほど明確には伝わってこない。これに比べると、一九六○年代の演劇作家たちの作品には、「こういう作品だけにはしたくない」という主張が、何とあからさまにあふれかえっていることか! どちらが舞台芸術にとってよいことなのかは、にわかに断定することができないし、また、「好きな物」へのこだわりが、「嫌いな物」の無意識の排除にただちに直結するとも思えない。「僕は自分を筒だと思っている。育むべきは筒の中に密生する突起物だ。引っかかりのない滑らかな筒では、入れた物が入れたままの形で出口から出てきてしまう。突起物に自信が持てる間は、筒に好きな物を好きなだけ放り込んでいこうと思う」(「あとがき」、傍点筆者)という文章に、新しい世代の確かな可能性の予兆を感じつつ、倉持の「嫌いな物」が何であるかについても、いま少し時間をかけて考えてみたいと思う。(もりやま・なおと 演劇評論家・京都造形芸術大学)

演劇の教育と俳優の養成(一)菊川徳之助
川上音二郎や坪内逍遥が、<児童演劇>を明治・大正の時代に開拓している。がしかし、「演劇」が、学校教育に取り入れられるということはなかった。演劇が教科に入ることはなかったが、学芸会(学校劇)として生きていた。ところが、1924年、文部大臣岡田良平によってなされた学校劇についての訓示=「・・・・学校に於いて脂粉を施し仮装を為して劇的動作を演ぜしめ、公衆の観覧に供するが如きは、質実剛健の民衆を作興する途にあらざるは論を待たず。当局者の深く思いを致さんことを望む。・・・」と語られたものには、学校劇を禁止するという言葉は使用されてはいないが、充分な学校劇禁止令であったと思う。第二次世界大戦後、民主主義教育の世の中を迎えるが、驚くことに、平成の現在にも、例えば、高等学校の「芸術」の科目の中に、音楽や美術や書道があっても、「演劇」の科目名はないのである。やっと、1978年に当時の文部省の方針によって、高等学校指導要領に「演劇に関する学科」の設置が認められるという情況が現れた。しかし、この、いささか唐突にも思える上からの指令に、学校現場は直ぐに反応出来る環境を持ってはいなかった。それでも、演劇教育を大切だと考える人々の努力によって、20年前に高等学校に「演劇科」が設置されるという画期的なことが起こった。
1984年に私学の「関東女子学園高校」(現・「関東国際高等学校」)に、近畿圏では、公立高校としては初めての演劇科が1985年に兵庫県立「宝塚北高等学校」に設置され、その後、数校の設置があった。全国の高等学校設置の全体の数から言えば僅かではあるが、「芸術」の科目の中に、「演劇」の科目名がない状態が変わっていない状況から見れば、やはり、演劇科の設置は画期的な現象と言えるであろう。しかし、芸術科目あるいは一般科目に演劇が今なお入らないのは、演劇というものが人間教育に・芸術教育に、素敵な内容を持つものと考える人間からは、やはり異常な姿に見える。
そのような情況にあって、近年、注目したい事柄が二つあった。第一は、青森の県立八戸東高等学校が平成15年から「表現科」という名称の科目を設置したように、演劇教育を含めた身体教育を行なう学校が出現したことである。「表現科」という、演劇専門よりは広い範囲でイメージ出来るところに新しい可能性を持っているものである。第二は、「総合高等学校」という<単位制>の高等学校で、一般教科科目でない、学校が独自で設定出来る<学校設定科目>という多種多様な自由選択科目の中に、「舞台系科目」(または、芸術・表現系科目)として「戯曲研究」や「基礎演技」「舞台実習」「演劇概論」などが設けられるという現象が出て来たのである。神奈川県立総合高等学校(1995年から)などで<学校設定科目>として演劇関連科目が設置されている。さらには、単位制総合高等学校ではなく、<総合学科>という、国語や数学といった普通科目と情報、芸術、福祉、スポーツといった科目を複合設置して、多彩な選択制の科目配置で、個性的なカリキュラム編成がなされる<総合学科>という学校(例えば、兵庫県立伊丹北高等学校総合学科)も設置されて、そこには、「戯曲研究」や「劇表現」なる科目が設けられている。高等学校の「芸術」選択科目に入ることのなかった「演劇」科目が、<学校設定科目>ではあるが、教科の中に登場して来たことは、注目すべきことであり、このような、総合高等学校や総合学科が増えれば、演劇科目が増加し、演劇教育が実質的に学校教育に入ることになる。
だが、高等学校の演劇科(表現科)で学んだ生徒が、大学の演劇学科あるいは専門の養成機関などへ、専門演劇人への道を歩み出し、俳優として、またはスタッフとして活躍する優秀な人材を排出して行く状況が期待出来ることになる・・・・と想像する・したいところであるが、現在設けられた高等学校の演劇科は、将来演劇人として生きる人材を育成することを第一にはおいていない学校がほとんどなのである。否、むしろ、「演劇科とは言うものの、そこでは職業俳優の育成を中心にしない」、「演劇による教育は、自分を発見し、自分を積極的に表現して人間らしく生きる力を養う教育であり、他人を理解し、他人と創造的に交流して豊かな人間関係を形成する力を養う教育であるといえる」という演劇による<人間教育>を主体においたものである。勿論、演劇による<人間教育>は意味のあるものであり、重要な発想である。しかし、一方、演劇教育が専門演劇人養成に直結していないことも、明らかである。では、俳優養成はどこで行なわれるのであろうか。大学の演劇学科であろうか。現在、日本の大学の演劇学科は、どのような存在になっているのであろうか? (きくかわ・とくのすけ 近大演劇専攻教授・著書=実践的演劇の世界)

●海外演劇事情紹介ロシア演劇は我らの同時代人!?永田靖
ロシア演劇の現況を、今シーズンの新作を中心に点描したい。近年、ロシアの演劇は日本にかなりの数が客演するようになって、ロシア演劇との近さも一昔前の比ではない。5月にも多くのロシア劇団が静岡に来ているというし、マールイ劇場も秋に来ると言う。 マールイ劇場が秋に持ってくるのは、チェーホフ『三人姉妹』。昨年の12月に初日が出ている。マールイの名優ユーリー・ソローミンの演出になるもので、回り舞台をふんだんに使ったものだが、実際には従来のチェーホフ理解に準じており、演劇では保守的な力こそがその魅力なのだと言わんとしているように見えた。今年はチェーホフ没後100年で日本では記念の催しが多いと聞くが、新作で風変わりだったのは、「現代劇スクール」の1月の新作、オペレッタ版『かもめ』だろう。ここは、現代作家はもちろん、古典から現代の探偵小説まで幅広く上演しているが、オペレッタに挑戦するのは記憶にない。ヨシフ・ライヘリガウス演出でトレープレフとニーナがデュエットを歌い、ソーリンがカンカンを踊り、70年代風の音楽が随所に流れるこの『かもめ』は、少なくとも新鮮には思えた。昨シーズンの新作、売り出し中のウラジーミル・エピファンツェフ演出ワフタンゴフ劇場『かもめ』の滑稽な気取りよりは楽しめる。いかにそれがチェーホフから遠くても。
そのエピファンツェフ、今や現代モスクワの「怒れる子供たち」と異名をとり、話題になることが多い。1月の新作シェークスピア『夏の夜の夢』は、過激な現代化をして才気を感じさせる。この種のシェークスピアの現代化はロシアでも珍しくないが、残虐さと斬新さにおいて際立ってはいる。この点、今後評価の分かれるところだろう。シェークスピア作品も相変わらず数が多い。個人的に評価している演出家ウラジーミル・ミルゾーエフ、ワフタンゴフ劇場『リア』は秋の新作。カナダから帰国後、スタニスラフスキイ劇場で、ゴーゴリ『結婚』の女性役を2人ずつ配したフォルマリスティックな演出をしたり、『フレスタコーフ』では従来のフレスタコーフ像を破壊するグロテスクな像を演出したりして、この時期「メイエルホリド的」と言われた。その後『十二夜』『夏の夜の夢』を軽妙でファンタスティックな雰囲気の喜劇に演出して大衆受けのする方法に傾き、いささか姿を変えてしまったように見えた。しかし、今回の『リア』は、かつての大胆なミルゾーエフ流の形式の美学がいくらか蘇った。ただ、それは「王リア」ではなく「人間リア」の姿を照明しようとする上演全体の方向のためには最良の選択だったのかどうかは疑問がないわけではない。
全体的に見渡すと、ここ数年ロシア演劇の言及性の射程がどんどん狭くなっているように感じる。演出技術は向上し、娯楽性もふんだんにあって、作品の仕上がりなども申し分ないものが多いが、時代や世界の動きに深いところでつながっているという感覚は年々乏しくなっている。演出技術にできることと、劇作にできることは必ずしも一致しない。今こそ劇作家の革新的な冒険が待ち望まれているのかもしれない。ミルゾーエフもそのことの重要性は数年前に現代作家ミハイル・ウガーロフ原作『鳩』の演出で十分に示したはずだったのだが。 また外国の劇団の上演や、外国人演出家の演出数も増えた。ピーター・シュタインのロシア好きはつとに知られているが、今では鈴木忠志もモスクワ好きの一人に加えられているかもしれない。モスクワで『シラノ・ド・ベルジュラック』『リア王』公演などを相次いで成功させている。今年はまた、サブレメンニク劇場で、ポーランド人演出家アンジェイ・ワイダによるドストエフスキイ『悪霊』が既に始まっているが、これはまだ見ていない。
どうしても新しい動きばかりが目に付くが、本質的な変化は本来、古い世代に表れる。新しい世代は新機軸にこそ関心を持つので新しい観客がつくのが当然だが、古い世代が新しいことをすることは相当の努力と犠牲を伴う。モスクワ芸術座で 4月に始まったばかりのブルガーコフ『白衛軍』。これもひいきの演出家セルゲイ・ジェノバチの演出による。作品は、作家ブルガーコフが20年代にモスクワ芸術座のために書いたもので、革命前の時代へのオマージュを捧げるもの。ゴーリキー芸術座の方にはドローニナ演出でレパートリーにあるが、チェーホフ芸術座の方はなかった。芸術座でこそ上演されるにふさわしい作品だが、ゴーリキー芸術座での演出のような、少なくとも風俗的なメロドラマ劇ではないことを期待したい。
思えば、ペレストロイカが始まってもう20年になろうとしている。この間、あまりに多くのことがロシア演劇に起こった。独立系のプロデューサーや私設劇場が多く登場し、それぞれに興味深い仕事を見せた。いわゆるスタジオ劇団が百花繚乱の様相を呈し始めたのもこの頃だ。ソ連解体後に演劇大学での自分のクラスの生徒を集めて作ったフォメンコの「フォメンコ工房」は今もって着実に仕事を見せているし、5月に2度目の来日公演するアナトーリイ・ヴァシーリエフの新しい劇場は、以前の本拠地アルバーツカヤに程近いうらぶれたアパートの地下の1室とは比べるべくもない。アルツィバーシュフのポクロフカ劇場も新しい劇場に移ることができたし、そもそも芸術座が二つに分裂するなど誰が想像しただろうか。演劇大学GITISは、今は演劇アカデミーRATIと名前を変え、校舎も改装されて見違えるようだ。チェチェンテロで標的になったロシアン・ミュージカルも、本来音楽劇好きのロシア人の好みには合うはずで、成長しないはずはなかった。表面的には肯定的な変化が目立つわけだが、この20年で一体何が変わって何が変わらなかったのだろうか。その本質的な意味はまだ誰も語り始めていないのかもしれない。(ながた・やすし 演劇学・大阪大学)

●演劇書評書評・小島康男監修『ドイツの笑い・日本の笑い-東西の舞台を比較する-』古後奈緒子
人は社会に向かって笑う。このことを優れて意識させてくれる場所が劇場だ。例えば先日、気鋭のアクション芸術家の舞台を訪れた際、観客が少なからず席を立つ中、一人高らかに笑いつづける客がいた。このような場合、笑いは舞台に対してだけでなく、勝利と優越の表明となって他の観客にも向けられている。そして、舞台に向かう笑いは、そこで行われているアクションを媒介として現実世界へと突き抜けて行く。このように考えると、「笑い」という現象は、上演が受容において社会と結ぶ多層的な関係を、優れて映し出す鏡となるのではないだろうか。
このようなことを考えていた折りに、編集部からタイムリーな書評のお題をいただいた。日独の共同研究プロジェクトから生まれた『ドイツの笑い・日本の笑い-東西の舞台を比較する-』である。「笑い」という現象については、これまでに様々な言説圏で理論化がなされているが、演劇学研究においては伝統的な主題であったわけではない。本書においてそれが取り上げられるのは、「喜劇」論が対象とする範囲を超えて、より広い上演芸術の領域を扱おうという論者たちの意気込みによるものである。実際、収められた論考には、テクストが残されにくいキャバレーなどのジャンルや、戯曲の外部に射程をのばした上演分析への積極的な取り組みが認められる。それは、戯曲とその作者の間を行き来する伝統的な演劇学研究に対し、上演と観客の間のコミュニケーションに豊かな意味をくみ出そうとする近年の演劇学の動向とも無関係ではあるまい。 では、日独両文化圏の上演芸術を「笑い」という試金石にかけてみた場合、何が見えてくるのか。それぞれに個性的なアプローチを行う五つの論考を、あえて三つの問題関心にまとめてみる。
まず、テクストに内在化された「笑い」のしかけを分類し、整理するもの。つまり、どのような要因が対象と受け手、あるいはそれらを取り巻く環境の中にそろったとき、笑いに結びつくのかを明らかにするものである。これについては、「笑いのパレット–機知・風刺・滑稽」論が、様々なテクストにおける笑いの要因を分類し枚挙することで、組み合わせによって独自な笑いを形成する絵の具を取りそろえた豊かな「笑いのパレット」を提出した。 この関心と表裏一体をなすのが、道化や「オチ」といった任意の「笑い」の要因を手がかりに、二つの文化圏におけるその表れ方を比較し、異同を見極めようとする試みである。論者たちは「異」と「同」の間で軽やかに思考を切り替えつつ、およそ中世から現代までの膨大な上演芸術作品と理論を渉猟する。その結果、いずれもが次のような見解を示すに至る。日本とドイツの上演芸術はともに、「笑い」を豊かに内包している。しかし、ドイツの「笑い」が知に訴え、風刺を含み、政治的な内容を持つのに比して、日本のそれは情に訴え、宥和の契機となり、政治を直接目標としない傾向を持つ、と。
ここでわざわざ強調しなければならなかったように、日独の上演芸術における「笑い」の豊かさは、実は本書の大前提であったわけではない。著者たちが折に触れ認めるように、ドイツ人と日本人には「笑いから縁遠い」という対外的なレッテルが貼られており、演劇においても同様である。この喜ばしくない文化イメージに一矢報いるために、歴史的な視点を導入したのが「日独の舞台に笑いはあるか?-二つの「遅れてきた国」を比較する-」である。この論は、ドイツの演劇が喜劇的要素に乏しい理由を、他のヨーロッパ諸国に対するドイツ演劇の近代化の遅れの中に求める。他国に遅れた近代化の過程で、シリアスな演劇(E演劇)は笑いを追放し、エンターテイメント(U演劇)と棲み分けなければならなかった。そしてもちろん、従来の演劇研究はE演劇を主な対象とし、U演劇における豊かな笑いの伝統には目を向けてこなかった。ここから、西洋に対して遅れを取り戻そうとする日本演劇の近代化に、同様の構造を見いだすのは難しいことではない。
以上のように、本書は、「笑い」の要因、日独演劇文化の異同、その歴史的背景における共通点を明らかにしてきた。しかし、「笑い」という主題は、新たな研究領域を拓いたばかりである。フォルカー・クロッツの提唱した「笑い演劇」という概念の検討も含めて喜劇の概念規定を見直し、研究範囲を拡大してゆくという課題が確認されている。これと並行して、テクストが書物の形で残されないもの、特に身振り言語や、役者と観客の間にひらかれるコミュニケーションの分析手段を鍛えることも必要になってくるだろう。そこには、文学的な受容構造を背景に読まれるテクスト研究や、ハイカルチャーを対象とした上演芸術研究からは聞こえてこない「笑い」がこだますることだろう。 こういった真面目な試みの延長線上に、願わくば、「笑わない」ドイツ人、日本人といったイメージも覆されたり、、、はしないかもしれない。                                          (こご・なおこ/非常勤講師)

●編集後記●関西で演劇批評誌を発行しようという構想はかなり以前からあったが、今回ようやく実現することになり、『act』(あくと)創刊号が発行された。国際演劇評論家協会(AICT)日本センター関西支部の編集発行である。●AICT関西支部の性格から、雑誌としては特定の芸術主張はとれない。あえて言えば、「現場」に強い関心を持ちつつそれから独立した「自立した演劇批評の追求」であろう。その対象は、舞台芸術であればジャンルは問わない。東京などの劇団の関西公演も取り上げる。さらに、関西在住の批評家の東京演劇評、海外演劇事情紹介も掲載する。『act』が関西演劇界活性化の一つの刺激剤となることを願っている。●創刊号は、ご覧のとおり木の葉のように薄い雑誌となった。雑誌流通機構に出すこともできない。しかし、『act』は一つの仕掛けをした。文字部分の全文をAICT日本センター公式サイトに転載するのである。こうしておけば、全国の関心ある幅広い人に読んでもらえる可能性を提供できるだろう。横組みにしたのも、ネット転載を意識してのことである。●誤解しないでいただきたいのは、『act』は印刷された刊行物が本体であり、サイト上のものはあくまでも転載だということである。インターネットの特徴は、制約がないということである。それは長所であるが、短所にもなる。制約がないだけに、安易に流れる傾向もある。『act』は締切も枚数も制限のある雑誌として企画し、しっかりした批評文章を創出して掲載し、それをネットに転載する。●印刷物が本体であるから、『act』は定期購読者獲得も追求する。創刊号は宣伝のため、発行とほぼ同時にサイト転載するが、二号以降は発行と転載時期が少しずれる。●『act』は当面は季刊である。二号は八月初中旬発行を予定している。雑誌の基礎が固まれば、投稿も積極的に掲載していく。読者のみなさんの忌憚のないご批判をお願いしたい。(瀬戸宏)

act創刊号・前半

act(あくと)創刊のことば市川 明
劇評家で作る組織AICT(国際演劇評論家協会)日本センター関西支部で劇評誌を発行することになった。関西支部のメンバーは現在十三名だが、みんな無類の芝居好き。関西の演劇・パフォーマンス、舞踏などの上演状況を広く、細かに紹介することで、劇場に足を運ぶ人の数が増えればこれに勝る喜びはない。 雑誌のタイトルは『act』(あくと)とした。あくとは劇やオペラの「幕」、寄席やショーの「出し物」といった意味だが、広く舞台上の演技や芝居そのものを表す言葉でもある。もちろん「行為」「行動」が原義なのだが、演劇を鑑賞し、評論するという発信行為をこの雑誌を通して続けていきたい。actはまた私たちの組織「アソシエーション・オブ・シアター・クリティク」の略称でもある。
レパートリーに入った10数本の作品をシーズンを通して日替わりで上演するヨーロッパでは、劇評を見て観劇する人も多い。おのずと劇評家にも高い地位が与えられる。芝居の初日は観客席に劇評家や文化人がずらりと並ぶ緊張の日だ。劇評家は独自の演劇観、独自の文体で評論を展開し、一つの文学・読み物としても読ませる。劇評集を出版し、時代を越えて読まれる劇評家も少なくない。 黄金の20年代と呼ばれるワイマール共和国の時代、ベルリンは世界演劇の首都であった。演出家のラインハルトとイェスナーのみならず、劇評の世界でも大御所アルフレート・ケル(ベルリン日刊新聞)と若手ヘルベルト・イェーリング(ベルリン株式速報新聞)が火花を散らしていた。初日の幕がはねると、近くのカフェや飲み屋で夜を明かし、朝の6時ごろに配られる新聞の劇評をむさぼるように読んだ人も多いという。
日本では劇評が出たころには芝居が終わっていることが多い。劇評が一種の文化現象になるような時代は遠い先のことかもしれない。だが少なくとも多くの人を劇場にいざなうような劇評誌を、皆さんに届けたいと思う。もちろん私たちが目指すのは創造者と真摯に向き合い、互いに刺激し、高めあう創造的なコラボレーションである。歩み始めたばかりのactを、リニューアルした全国誌シアターアーツともども暖かく見守ってほしい。(AICT日本センター関西支部長。大阪外国語大学教授)

●劇評
メタシアターの不思議な舞台空間-糾(あざない)『つのひろい』        市川 明
「…、コレやで」。子どものころ、よく人差し指で角(つの)を作って、怒り狂った先生や親の様子を示したものだ。いわば警戒の赤信号だが、必ず緑に変わるという期待がある。怒りは愛情の裏返しであり、親は何度も怒りの角を生やし、落としていく。「鬼は外、福は内」、大きな声で豆をまいた節分の思い出。鬼には本物の角がある。桃太郎の鬼退治…『つのひろい』は、そんな角が違った時間空間の中で糾い、交差する「変身」物語である。 舞台は薄暗い土蔵の中。闇に差し込む光の中で母親小夜子が娘の美里に桃太郎の絵本を読んで聞かせている。暖かな愛とハーモニーの世界。だが実際には親子の関係は崩壊しており、それは小夜子の幻想であることが次第に明らかになる。だとすればここはもっと思い切ってファンタジックなシーンを現出させても良かったのではないか。
土蔵の中には段ボール箱が山積みにされている。ここには小夜子の少女時代の思い出が詰まっている。いい子で、親のお気に入りだった弟が交通事故で死んでから、小夜子は反抗的になり、家庭は冷え切り、逃げるように家族はこの町を出た。そして今、娘の美里がかつての自分のようになったとき、何か解決のきっかけをつかみたいと思い、ここに帰ってきたのだ。児童養護施設の相談員の最上を伴って。 小夜子は自分の手提げ鞄にコンビニの袋が入っているのに気がつく。美里が入れたもので、中には3体の人形。美里が見ているアニメのキャラクターで、アカネとキスケとアオベエだという。最上は「親子の交流がある」と慰めるが、小夜子は鍵をかけ娘を閉じ込めてきたという。小夜子たちのいない間に子鬼の人形は人間に変身して、歌い、組体操をしだす。さらには人間世界を習って「お仕置きごっこ」なるものをやりだす。異次元の世界に飛び出た人形はもっとお茶目で、元気ないたずら者であってほしい。バレエ『くるみ割り人形』のようにカタコトと踊りだし、ドリフターズのようにずっこけて…。そうしてこそべそをかいて角拾い(つのひろい)=親探しをする最後の場面が生きてくるだろう。 小夜子と美里の争いやコンビニ弁当しか食べていない家庭の様子が三人の子鬼の口から語られる。小夜子に手がつけられなくなり、家族が引っ越していった昔のこともどうやら知っているらしい。やがて彼らは自分たちにも桃太郎の絵本を読むよう小夜子に要求する。小夜子を取り囲み、彼らは本に見入る。すると三方から、マサル、ツキジ、ミイヌが現れる。もう一つの世界=桃太郎の世界が生まれる。マサルとツキジの娘ミイヌは少女時代の小夜子、さらには現在の美里に重なる。残された天体望遠鏡から弟の死や小夜子の過去、親子関係が明らかにされる。マサルとツキジの暴力や押し付けに抵抗して暴れるミイヌ。
二つの世界がメタ空間として描かれ、その中心に小夜子がいる。マサルとツキジがミイヌを檻のなかに入れようとすると、小夜子は彼らの世界に介入し、もっと子どもの気持ちを理解するよう求める。するとミイヌが美里として現れる。小夜子にとって美里は誰よりも大切なはずなのに、自分が親にされていやだったことをそのまましてしまう自分がいる。小夜子は角が生え、変身しているのに気づく。 二つの世界がクロスオーバーすると、今度は子鬼たちが凶暴になり、角を生やして小夜子たちに襲いかかってくる。小夜子の父、母、娘に戻った三人が、小夜子と家庭を守ろうとする。やがて小夜子からも子鬼からも角が落ちる。子鬼はどんなに蹴られても、殴られてもかあちゃんがいないといやだといい、必死になって角拾いをし、かあちゃんを探す。こんな様子を見て、母親の大切さを痛感しながらも、小夜子は美里を施設に預ける決断を下す。髪の毛に触れただけで、叩かれると思い両手で頭を覆う娘に過去の自分を見、親子に受け継がれていく憎悪の連鎖を断ち切るために。それに対して最上は、これから代々、施設に預けるような「新しい連鎖」が生まれると警告し、もう少し頑張るように言う。角(つの)の山の中に弟の形見の顕微鏡が光るところで、舞台は終わる。
宮沢賢治の童話やチャイコフスキーのバレエに、カフカの小説が混入したような不思議な舞台空間。桃太郎の童話の世界と子鬼のアニメの世界が、小夜子を媒介項とし、過去と現在という形で交差するメタシアター。角(つの)が表す愛と憎しみの弁証法。「悪循環」「ボタンの掛け違い」ともいうべき反発・憎悪の連鎖。主人公の決断から観客席に生み出される強烈な反ベクトル…芳崎洋子の作品は魅力的だが、台本の奥行きの深さに比べて、演出家芳崎が作り出す舞台はまだまだ浅い。舞台装置も演じ方も生真面目なほどリアルで、多様な世界が照射されないのだ。小夜子の大山まゆは明るさの中に陰影をにじませ、好演なのだが、他の俳優は総じて存在感が薄い。これも俳優の力量の問題だけではないだろう。「もっとシュールに、もっと立体的に、もっと遊びを、もっと音楽を、もっと光の転換を…」こんなことをずっと思いながら舞台を見ていた。 (2月13日〜15日、HEP HALL)

「じゃれみさ」はダンス版夫婦漫才-砂連尾理+寺田みさこ「男時女時」          中西理
砂連尾理+寺田みさこ「男時女時」(04年2月25日)を東京・新宿のパークタワーホールで見た。俳優出身のダンサー、砂連尾理(じゃれお・おさむ)と現役のバレエダンサーでもある寺田みさこのデュオは一昨年トヨタコリオグラフィーアワード2002で「次代を担う振付家賞(グランプリ)」と「オーディエンス賞」をダブル受賞。関西のコンテンポラリーダンスの世界では旗手的存在となり、今回はその真価が問われる注目の舞台となった。 JCDN(ジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワーク)の巡回ダンス企画「踊りにいくぜ!!」の福岡公演でこの作品の原型を見て、伊丹公演(03年11月)、「踊りに行くぜ!!」東京公演(03年12月)と見てきての印象は「あの表現がここまで完成度の高いものとなってきたか」という驚きが強かった。だが、今回の舞台ではそこからさらに殺ぎ落とすような成熟の道に進むかと思いきや、そうはなっていないのが面白かった。
もっとも印象的な場面は高島屋の袋に入ったピンポン玉を寺田が舞台に持ち込み、まるでウミガメの産卵のように舞台中にぶちまけていくところなのだが、以前の公演とは段違いに分量が増えていて、床に散らばったピンポン玉を蹴飛ばしながら踊るところなどはそれまでにないダイナミズムがあり、八方破れの勢いを感じさせた。 表題の「男時女時(おどきめどき)」は向田邦子の最後の小説・エッセイ集である「男どき女どき」から取られた。「男どき女どき」という言葉自体は元々は世阿弥の「風姿花伝」にある「時の間にも、男時(おどき)・女時(めどき)とてあるべし」からの引用で、「いいとき、悪いとき」というような意味なのだが、作品の内容との関係でいえば人生においていろんな経験を積んできた男女のカップルの様々な様相が砂連尾、寺田の舞台上での関係性によって提示されていき「男と女/いいとき、悪いとき」の2重の意味合いを持たせようとの狙いがある。
デュオといえばバレエのパ・ド・ドュのように燃えるような二人の愛を歌い上げるような劇的な表現が主流ななかで、この二人が表現するのは「夫婦善哉」のような長い付きあいから生まれたわびさびを感じさせる関係だ。この微妙な関係を提示するための戦略として、ダンスにおけるステレオタイプな「劇的なるもの」を周到に避けていく。 舞台は「エルサレム」が流れるなかに暗闇のなかで上手奥から下手手前に斜めのラインが照明が当たり、そこに佇むダンサーの姿がシルエットとして浮かび上がるという劇的な効果を強調したような壮大なオープニングからスタートする。ここでは舞台全体から「劇的なるもの」がクライマックスに向けて疾走していくような予感が醸し出されるのだが、それはすぐに裏切られる。
ここで一度「劇的なるもの」を見せるのはそこから距離を取って、ずらすための手段にすぎないので、音楽にしても、言語テキストにしてもそれがそのまま舞台上の演技の説明となるようなべったりした関係ではなく、そこから批評的に距離を取り、期待を裏切っていくのが持ち味なのである。 その裏切りの核となるのが、普通ならダンスのムーブメントにはなじまないような「へなちょこな動き」なのだが、それは特に砂連尾の一生懸命踊っているのだけれど駄目駄目を感じさせる身体によって踊られる時に決定的なものとなる。 一方、こうした「へなちょこな動き」の連鎖からなっていてもそれがダンスとして成立していて、場合によっては美しくさえ見えるのが寺田で、バレエダンサーである寺田には以前はともするとその動きのなかでバレエのパが垣間見える瞬間があったのだが、前作「ユラフ」からはそういう動きは意図的に排除されて、既存のダンスにはあまり使われないような身体言語(キネティック・ボキャブラリー)を採集し、それを丁寧につないでいくような振付となっている。
この二人が同時に舞台上に存在し、掛け合いをすることで生ずる微妙な関係が「じゃれみさ」の魅力である。その掛け合いにはダンス版の夫婦漫才を連想させるような諧謔味がある。ダンスデュオといえば大抵の場合はコンタクト(接触)やユニゾンの連続で二人のダンサーの関係性を見せていくのが定番だが、この作品ではそうした動きはほんの一部。ほとんどの場面で2人がどちらかが舞台の前の方、もう片方が舞台奥というように舞台上に離れて互いに別のことをやっている。それなのに作品に散漫な印象がなく、舞台全体としてこのユニットならではの微妙な調和を保ち続けているところがこのデュオならではの特徴。これは簡単に見えて至難の業でそれぞれの個性を生かしながらも、動きのディティールに徹底的にこだわり、自分たちだけの動きを突き詰めていく作業を通じて、ほかのダンスにはないオリジナリティーの刻印を獲得したからこそできるものなのである。(なかにし・おさむ 演劇舞踊評論)  軽やかさと物足りなさとー関西芸術座『リズム』       瀬戸宏
今年は、新劇の実質的な始まりである築地小劇場八十周年である。私が劇評活動を始めた二十世紀八十年代後半、新劇は消滅寸前の演劇とみなされていた。「新劇が滅ぶ日」という評論を書いた批評家もいた。
それから二十年近くたった。滝沢修、宇野重吉、杉村春子、千田是也ら新劇団第一世代は逝去したが、新劇は滅びなかった。その原因分析をする余裕は今はないが、新劇が今日も日本演劇の重要な一部であることは確認できる。それが、かつての新劇と同じ演劇かはまた別の問題であるが。 翻って関西演劇に目を移すと、関西でも新劇は健在である。関西新劇の代表劇団である関西芸術座が演じる『リズム』を二月二十九日昼に関芸スタジオで観た。
『リズム』は、児童文学者森絵都(もり・えと)の同名の小説とその続編『ゴールド・フィッシュ』を脚色した劇である。脚色は勇来佳加、演出は松本昇三。原作の『リズム』は、著者が二十歳の時に執筆し三年後の一九九一年に出版され、いくつかの児童文学賞を受賞した。『ゴールド・フィッシュ』も同年出版されている。近年人気の高い児童文学者であるという。 『リズム』は、さゆきという千葉県のはずれの町に住む少女の中学一年夏休み最後の一日から高校入学までの不安定で微妙な心情を描いている。両親と姉一人の平凡な家庭に育ったさゆきには、真ちゃんという幼なじみの年上の従兄弟がいる。真ちゃんは高校に行かず、髪も染めて好きなロックバンドに本気で熱中している。さゆきはそんな真ちゃんの生き方に共感し、真ちゃんもさゆきをかわいがっている。やがて、真ちゃんの家庭は両親が別居し、真ちゃんも本格的な音楽修行のために東京に行ってしまう。引っ越す前の晩、真ちゃんはさゆきに自分のリズムを大切にするようにと諭した。
二年後、さゆきは受験生になった。ある時、さゆきは真ちゃんが自分に内緒で自分の住む町に帰ってきたことを知り、連絡してくれなかった真ちゃんにショックを受けてしまう。しかも、真ちゃんのバンドは解散し、電話も不通になっていた。そのショックを紛らわすため、さゆきは猛然と勉強し、成績はたちまちあがる。その時、真ちゃんの父が倒れてしまった。そのおかげで、真ちゃんの消息もわかり、真ちゃんの両親もよりが戻る。実は、現実の壁にぶちあたった真ちゃんはやはり普通の生活をしようと、夜間高校に通おうとしていたのだ。さゆきも高校に合格し、新しい生活が始まる。 森絵都の原作は、さゆきの一人称で軽やかに物語が進んでいく。感じやすいが、過度に感傷的にもならない。適度のずるさやわがままもあるが、他人への思いやりもある。真ちゃんの家庭や真ちゃんの境遇など、暗く深刻な問題の筈だが、森絵都の筆はこれらの問題もさらりと描く。この時期の少年少女にありがちな性の問題は完全に削り取られ、社会矛盾もほとんど出てこない。根っからの悪人も生涯の敵も登場しない。
今回、この劇評を書くため『リズム』『ゴールド・フィッシュ』を読んでみたところ、森絵都の原作から得られる印象と、舞台の印象がほとんど同じであることに驚いた。劇の筋も、原作とほぼ同じである。これは、さゆきを演じた岡村直美をはじめとするキャストやスタッフが原作の世界を舞台に再現し得たということで、脚色ものとしては成功であろう。何よりも、舞台に原作と同様の軽やかなリズムがあるのがいい。以前、松本昇三演出の成井豊『ナツヤスミ語辞典』を観て、その演技がキャラメルボックスそっくりだったのに一驚した記憶があるが、今回の岡村直美らの演技も小劇場系の演技と通じるところがある。その是非はともかくとして、『リズム』の場合はその演技が生きている。 と同時に、私はこの舞台に物足りなさも感じた。深刻な社会問題などは一切捨象され、劇の最後でも描かれた問題は一通りは解決されてしまう。問題を投げかけるということがない。さゆきは、夢をもつ真ちゃんに共感するが、さゆき自身も、自己の夢をさがして冒険し現実とぶつかってもよかったのではないか。もっとも、これらは原作の問題なのだが。脚色ものとしてみると、舞台の真ちゃん(丸山銀也)には、原作ほどの個性が感じられない。原作の随所にみられる季節感も、舞台にもっとほしい。私は『リズム』を面白く観ることはできたが、自己の中学生時代を振り返っての懐かしさも切なさも感じることはなかった。これは、私が男性だからなのか。
『リズム』からは原石のままの玉の印象を受けた。そのままでも鑑賞に耐えるが、磨けばもっと輝くのではないか。どこか存在感の薄い関西新劇であるが、関西演劇全体の発展のためにも、もっと気を吐いてほしい。 (せと・ひろし 演劇評論家・摂南大学)

非日常の現実感ー羊団『石なんか投げないで』    九鬼葉子
松田正隆の作風は、近年大きく変わっている。 1994年初演の第40回岸田國土戯曲賞受賞作「海と日傘」や、1997年初演の第5回読売演劇大賞最優秀作品賞受賞作「月の岬」など初期作品では、故郷の長崎弁を用い、庶民の日常を少人数の会話劇として綴ってきた。どこか死の気配を漂わせながら、地方の視点で日本人論を展開した端正な戯曲が多かったが、最近の戯曲は、意味性で解釈することを拒むような、かといって、「抽象的」という言葉でも特定できない、一種独特な作風である。観客が意味を理解し、安心した瞬間に、意味をはぐらかし別の地平に飛躍するような、不思議な劇構造である。
特に羊団に書き下ろす時には、のびのびと実験を謳歌しているように見える。羊団とは、かつて松田が主宰していた時空劇場に所属し、現在はMONOの役者として活躍する金替康博と、やはり元・時空劇場の女優で、現在はフリーの内田淳子が出演し、MONOの水沼健が演出を担当するユニットだ。 羊団の上演した松田の最新作『石なんか投げないで』(3月13日所見、メイシアター)は、イェーツの詩「モル・マギーのバラッド」「ギリガン神父のバラッド」に触発された男女二人芝居。自分の歌う子守歌に眠りを誘われ、寝返りを打った時に、その巨体で赤ん坊を圧しつぶしてしまった女マギー。そして疲れきって居眠りをしてしまい、死ぬ間際の病人の祈りに間に合わなかったギリガン神父。それらアイルランドの民間伝承に基づく人物、マギーとギリガンとして、二人は最初の場面に登場するが、次第に別人格に変わる。12年間監禁された女と誘拐犯。死んでばらばらにされた彼女の体を縫い合わせた男と母。体の縫い日から血のにじむ女。神を見失い、司祭を辞めてうらびれた施設で死んだ兄の死体を拭く女など。
オムニバス形式で役替わりを楽しませる構造では、勿論ない。冒頭のマギーの長台詞は、ト書きのような言葉で書かれている。マギーが赤ん坊を圧死させて村を石もて追われたいきさつを、内田は縫い物をしながらつぶやく。だが、いつのまにか話される主体が「マギー」という他称から、「私」という第1人称に変わり、内田はマギー自身となる。扉の向こうには金替演じるギリガン神父がいるが、舞台に現れた時にはグレンという誘拐犯に変わり、女はマリーと呼ばれ、今度は誘拐された少女に変わるのだ。しかし少女を演じながらも、彼女の語る記憶には、別の誰かの記憶が交錯する。それが誰なのかは、明かされない。 詩やト書きのような台詞が続き、一人語りが次第に会話となり、又一人語りとなる。語られている言葉は、虐げられた者たちの死の記憶だ。暴力、姦淫、差別、飢餓。神父ですら救済することはできない。-見、死ぬ間際の女が垣間見た妄想を綴った芝居にも見える。だが断片的な台詞を、「いつだってそうだ。後から気づく」と言う言葉がつないでいる点などから、二人が演じたのは、人類の罪の記憶を代弁する巫女のような存在にも見える。過ちはいつも後からしか気づかない人間の愚かさ。贖罪の劇にも見えるが、ホロコーストを思わせる白い灰が舞い降りて終わり、改悛の余地も与えない。
舞台は石の敷かれた薄暗い小部屋。息苦しい空間に照明(吉本有輝子)がほのかに外界の光を照らし出し、二人は光を感じて自然体で動く。演技のよりどころを感情の動きに求めていると、はぐらかされる戯曲ではある。だが、二人は相手の台詞にナチュラルに反応し、感情が激することをすり抜けるように書かれた戯曲に沿って、抑制の効いた演技で次の役へと移ってゆく。内田は時に少女に、時に老婆へとしなやかに役替わりし、金持は着実に受けとめる。難解な台詞を身体に染み通らせ、奇妙な現実感を醸し出した。 最近の松田戯曲には、キリスト教など宗教がモチーフに描かれることが多いが、救済は描かれない。むしろ祈っても罪は許されないと、宗教を拒んでいるようにも見える。今回も負の歴史に目を背けてきた人類を断罪するかのような舞台であった。 日常の時間の枠や意識では捉えきれず、また、「各モチーフの象徴するものは何か」といった観点からでは解読できない、簡単に意味づけられることを拒む戯曲。日常に妥協し、安心していた、心の安全圏を打ち破るような挑発的な作風。捉えどころのない現代を象徴する、時代に刻まれる作品へと発展してゆく可能性を秘めている。
松田正隆。今後に注目していきたい作家である。(くき・ようこ 大阪芸術大学短期大学部助教授)

 

 

 

act創刊号

市川明 創刊の言葉
●劇評
市川明 メタシアターの不思議な舞台空間-糾(あざない)『つのひろい』
中西理 「じゃれみさ」はダンス版夫婦漫才-砂連尾理+寺田みさこ『男時女時』
瀬戸宏 軽やかさと物足りなさとー関西芸術座『リズム』
九鬼葉子 非日常の現実感ー羊団『石なんか投げないで』

●時評・発言
藤井康生 大阪の劇場都市化に向けて
森山直人 「同時代」、何処へ行く?
菊川徳之助 演劇の教育と俳優の養成(一)
●海外演劇紹介
永田靖 ロシア演劇は我らの同時代人!?
●演劇書評
古後奈緒子 小島康男監修『ドイツの笑い・日本の笑い-東西の舞台を比較する-』
瀬戸宏 編集後記